日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

匿名と顕名のあいだ(音楽の話)

ツイッターでまたつらつら考えてたら、大きな物語に辿りいたので、これブログにも書いとこと思った次第。

Adoが大変売れて、テレビ露出の機会も増えたんだけど、なかなか本人が実写で出ないのはもどかしいところ。yoasobiがぱっと売れて注目された時は、深夜帯の音楽番組でコンポーザー(ボカロP)の出演が続いたりして、もうすでに音楽活動している人は露出するし、そうでない人はライトの工夫でうまく影絵になったりして。

いちファンいち視聴者からすると、華やかなメディアの世界とそのくらいの距離感のほうが心地よかったりする。あまりこう消費されていく感じも嫌だし。自分がプライベートでどんな日々を過ごしているかということと、メディアで取り上げられることとの何となくの距離感。当人ではないから余計なお世話なんだけど、そういう平静さがある感じとか、安心する。

かわんごさんがブログでいちおう匿名にしながらいろいろ書いてて、匿名でものを言う空間が良いのだというようなことを言ってたと思うんだけど、私にもそういう感覚が強くある。でもある程度著名になっていくと、実体とネット上の像とは否応なく結びついていかざるを得なくて、かわんごさんはネットでほとんど何か書かなくなってしまった。

そういう話で言うとHagexさんの文章も好きだったし、たまにブクマでコメントしてたんだけど、ネットでの活動と実際の自分とを結びつけていこうとする転換期に、起きてしまった事件だったなという思いがずっとある。あれが5年前。

ところでこのエントリは音楽のことを書こうと思ったのだった。

米津玄師が本名で活動したのが2012年、10年前なんだ...。ボカロからメジャーシーンに移っていった人は彼以外にもいたけれど、その形はさまざまで、米津玄師はそういう意味では、すごくオールドスタイルに商業音楽へ回収されていったという印象がある。それでも表現主体としての自己を見失わない感じは、あまりに唯一無二、表現者としての強靭さに目を見張るものがある。

ずとまよやyoasobiが売れて、新しい波がやってきたなというところでAdoが出てきた。同列にしたくなるけど、それぞれに微妙に違って、けれど音楽シーンを10年単位で引いてみれば、やっぱりまあある程度同じ括りかなとも思う。何が違うって、やっぱコンポーザーとの距離感かな。ずとまよは自分自身で作詞作曲するし、Adoはボカロ文化への影響を前面に出している感じがあるかなと思う。

そういう中で、実写露出を避けるのもAdoの方だったりして。斎藤佑樹が大学進学を選んだ時みたいな感じある。きらびやかな場所に行く魅力より、自分の人生を自分でコントロールできる冷静さのほうを大事にする感じ。

インターネット文化の中で音楽を発表して、固定ファンがついて、そのサイクルからひときわ飛びぬけていく時に、大きなライブ会場でやるくらいのことはまだファンが中心だからいいんだけど、テレビにCMにと露出していくと、冷静と情熱のあいだにバランスを取りづらい危うさも感じられる。

2021年の紅白歌合戦は私にとっても特別で、JPOP興味ない親の前でチャンネル変えて、まふまふさんの「命に嫌われている」を見た。圧巻で素晴らしいステージだった。母親が歌詞が未熟だのどうだの言っていたので、イチから解説したろかと思ったけどやめた。父親は「森田童子を思い出した」と言っていた。なるほど。

命を削るように歌う姿や、そう歌わせるあの歌や、知らずに見て心を震わせた人もいただろうあの時間のこと。そうかと思えば、まふまふさんはそれから間もなく活動休止に入ってしまって(今は再開しているけど)、その時にもなんか、いろいろ考えたりした。情熱と冷静のあいだのこと。あるいは狂騒と平静のあいだのこと。

Adoさんがインターネット文化から出てきてメジャーに活動拠点を移していくとき、それはインターネット文化を耕しひとつの文化圏にしてきた先人たちの営みがあったのだし、またその文化圏からメジャーシーンへとつないだ幾つもの足跡もあった。それでもなお、この匿名と顕名の移行にはいまだ不安定さがつきまとう、過渡期なのだなと思う。

インターネット文化圏からの音楽で、私がとくに好きなのはヨルシカなので、メジャーに取り上げられないところは寂しいような、けれども安心するような。実写露出を迫られる場面もほとんどなかったけれど、最近はライブ映像もMVであがってたりするので嬉しい。ライブで歌っている生の感じは、やっぱりいいなと思う。

バーチャルとリアルのあいだの揺らぎで言えば、神椿スタジオもアーティストそれぞれで、そういう惑いがまま見えるところがまた私が心惹かれているところでもある。

実写ビジュアルのまま露出するも、バーチャルに限るも、アーティストそれぞれに距離感があって、自分はどっちが好きだなというのもないし、それも含めて自然のことのように思えるし。

たとえばCIELは実写のMVも出していて、私はこういう表現好きなのでもっとやってくれーと思うけど、数自体は少ないので、バーチャルの方が受けがいいのかなとか思ったり。花譜がもっと売れていくと、実写露出のようなことも求められていくのかなとか。

DUSTCELLはバーチャル主体ではないけど、実写露出も限られていて、このあたりも当人たちと話し合いながら決めているんだろうな。それぞれ感が、自分たちが音楽の主体であるということと、商業音楽として商品化を求められる側面とのおのおののセンシティブさにも思えて、またその距離感を神椿スタジオじたいが大事にしている気がして、応援したくなるんだよね。

アーティストが音楽企業の看板になって商品化されていくことで、関連業界に血が通うという時代があった。安室奈美恵は移籍後コンサートに注力して固定ファンを得た。ある程度の自主性と引き換えに、テレビ等への露出機会を手放したとも言えるけれど、結果、商品として消費されていく生き方から距離を取れたのかも。

ボーカロイドは音楽の民主化の旗手であるという。2010年だと?なんと13年前の匿名ダイアリーである。13年前に私がいたく感動した文章だ。

あれから13年経った。信じられないが。2010年のボカロヒット曲ベスト3は「ワールズエンド・ダンスホール」「マトリョシカ」「モザイクロール」だ。すごい。「Calc.」「ハロ/ハワユ」「glow」今でも聴いてるな。

あのとき、音楽の手段が民衆の手に降りてきたと書いた人がいたわけだが、楽器とメンバーをそろえるハードルを一気飛びして音楽を作れる環境がそろったとして、それが音楽にあるコミュニケーションを殺すわけではなかった。むしろ個々の作曲者が作った曲がツールとなっておのおのを繋ぎ、地中に連綿と這う細かな根となり、土壌を肥やした。

六畳一間で生まれた音楽が、数えきれないほどの人たちの歌ってみたや、演奏してみたや、ファンアートや、無数の誰かの思いと表現を通して鍛錬されていく。

ボーカロイド音楽文化圏が10年超続いてきたことで、そこに文化の営みが育まれ、若い才能が育ってきた。まさかいつしかその文化圏が、音楽企業に相対する活動の場となっていくとは。当時だれもそこまでは想像しなかったのではないだろうか。

経済活動を伴わない素朴な表現としての音楽が、いつしか貨幣に換えられていく中で、大きくレバレッジせずに、自分のコントロールが可能な範囲内で表現を続けていく。過剰な消費商品化に少し距離を置く。音楽表現の営みの場を、企業から人々の手に取り戻していくような。

ジョブズはコンピューターマシンで革命を起こそうとしたけれど、私もボーカロイドや音楽投稿文化の中にはなにかそういうものの芽があるように感じている。今の世界の有り方を有機的に解体していく。その先には何があるだろうか。企業たる権力から民衆の手に権利を取り戻す仕組みを作っていく。コンピューターマシンとか音楽ソフトだけでは成し得ないけど、いくつもの積み重ねはその道を切り拓いていく。

今日はChatGPTでおしごとの文書を書いてもらったりしていたのだけど、AIはどんな風に世界を変えるのかというと、悲観的にも楽観的にも想像はできる。でも、良い方へと導いていくよう想像しなければならないと思う。

AIがある世界でも、AIがない世界でも、私たちは想像しなければならない。協力しあえる世界でしか私たちは生きていけない。合理性のもとに人の命や生き方が計算される世界ではなく、ひとりひとりが自分らしく生きていけることに、お互いが尽力する世界が、私たちの望むべき世界だと。

お互いを必要とすることの連鎖が、世界を豊かにしていく。ツールはそのように使われるべきで、ボーカロイドは遊びのツールだったから、うまくそんなところにはまったのかも。

それでも今まだなお、仮像と実像の二つの世界の行き来はそこまでシームレスではない。そしてそれは時代を経るごとに少しずつ摩擦は消えていくと思うけれども、完全になくなることはないだろうなと思う。

過渡期を生きて、またその揺らぎを目にしながら、私たちひとりひとりも時代のはざまを生きてゆくのだ。と、なんとなくまとめて、長くなったな。おしまい。

おまけ

匿名で作品出す文化がそのまま新人供給する土壌になってるって日本すごくない? シュッと顕名に移行していく人もままいるけれど、そうでなく活動してる人もたくさんいる。

楽器弾いてビデオ撮ってネットにアップするってそれなりに裕福だよなと、東南アジアの国の女の子の弾き語り動画見てて考えてたことあるけど、そういう意味ではと、GDP世界2位を40数年間続けた国ではあったよな。

まだちょっと空気の冷たい春に聴きたい。

虹って色彩は、観る者の脳に描かれるもので、生命のない惑星には虹は存在しえないという話を読んだ。色は心に描くもの。音楽もまた。誰かが言った、平和はイメージするもの。大切な人を大切に思う心も、あなたの中にしかないもの。でもあなたがいるから、そこに確かにある。

年末だから映画を観る。「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」この星への憎しみ。ほか。

最近は映画を観る機会がめっきり減って、こんなはずでは。もっと人生ストイックに生きて映画を観る時間を確保すべきである。
という気分でいるが、なんとか年末映画館に行ってキャメロン監督の最新作を見た。映画は他にも観たので、ちょっとまとめて感想を書こうと思う。

ネタバレもあるよ!注意!

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孤独を振り切ってスピードをあげても、夜は抜けない。

ひさしぶりに自ブログを見たら広告が出てたので、おお、うざい。じゃあ更新しとくか。って生存報告。

日本一周をしてたバイク乗りの人のツイートがリツイートされてきて、過去ツイート読んで、いろいろ考えてしまった。私も、少し前に一人旅をしたことがある。確かにあの日々は、孤独のなかを孤独に歩いているような寂しさがあって、それでも明日予約した宿などあるので、タスク達成めざすかのごとく、ガシガシと旅をして、なんとなくその寂しさをよそにすることができていたのだと思う。

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音に繊細でいることについて

最近、お、ブログに書いとくか。と思うときはだいたい、誰かの書いた文章に触発されたときだ。

note.com

大勢の人のいるところで声が聞き取れない(言語として認識できない)というのは、私もわりかし経験あるのだけど、頭の中の言語の思考が、音と言うより書き言葉に特化していて、ノリとしての言葉のやりとりが苦手なような気がする。

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他力本願と世界の調和

仕事を辞めるとき会社の先輩に「地元に帰ったら何かしたいこととかあるの」と聞かれ、「ストイックに生活したい」って答えて、「田舎なのにストイックって笑」と言われたことがあるのだけれど、毎朝早起きして基礎体力づくりしたり、夜になったら正装して執筆してたマキャベリみたいに机に向かってコツコツと何かしら生み出すこともしてみたいと思っていた。まあちっとも出来てないのだけど。

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禁じ手

 母親とはよく時事について喧々諤々する。

 こないだ温暖化で南極の氷が解けて、太平洋の島々が沈むというニュースを読んだ後で、温暖化はどうにかせんといかん。未来への責任なのに先進国は見てみないふりをしているとワーワー言ったら、母親に「じゃあどうすればいいと思う」と聞かれて、「......原発」と答えた。それしか答えがでないの、くやしかった。

 それからしばらくして、ウクライナとロシアとEUのエネルギー問題の話をしていて、そのうち台湾のエネルギー事情になり、台湾が独立したときのリスクとかいう話になって、最終的に沖縄が独立したらという話になった。エネルギー問題は重大だ。沖縄が独立するとなれば西側諸国と東側諸国でエネルギー供給の綱引きをしている現段階では大変リスクが大きく、個人的にわたしは沖縄独立には反対というか慎重派である。母親もそこは分かってくれてはいるが、議論の流れとして独立可能性の視点でワイワイと議論していたのだった。
 しかしそれよりも重要なものは産業である。台湾には産業があるが、沖縄にはない。沖縄独立に産業は必要である。母親に「じゃあどうすればいいと思う」と聞くと、母は「.......医療用大麻」と答えた。

 一矢報いた気分であった。