日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

孤独を振り切ってスピードをあげても、夜は抜けない。

ひさしぶりに自ブログを見たら広告が出てたので、おお、うざい。じゃあ更新しとくか。って生存報告。

日本一周をしてたバイク乗りの人のツイートがリツイートされてきて、過去ツイート読んで、いろいろ考えてしまった。私も、少し前に一人旅をしたことがある。確かにあの日々は、孤独のなかを孤独に歩いているような寂しさがあって、それでも明日予約した宿などあるので、タスク達成めざすかのごとく、ガシガシと旅をして、なんとなくその寂しさをよそにすることができていたのだと思う。

そういえば内勤のお仕事に就いてから、仕事中に耳や思考がヒマで(手は動かしてる)、ブラウザ読み上げ機能で長い記事を読ませて聴いたり、若い人たち同人音楽や配信を聴いたりしてたんだけど、めちゃこのひとイケメンやし、ファンもいっぱいついてる、仲間もおるやんって人が、ちょうネガティブだったりして、世の中わからんなと思っていた。

あんなに創作活動してて、みんなから認められているのに、ぱたっとしんでしまう人とかいた。創作活動って人を救わんのかなって思った。

自分の住んでるとこみたいな田舎に移住してくる人というのは、たまたま旅行できて、この場所に運命的な出会いをして、ついに移住をしたって人とかいて、旅先で自分を変えるような出会いも、そりゃあるだろうけどさ、そういう人ってだいたいどこでも友だち作れるタイプじゃん。ぼっちは、だいたいどこ行ってもぼっちなんよ。

何かを突き詰めていっても、そこって変わらんのよね。創作も旅も。自分も、考えたらそうだった。だから、自分のやりたいこと突き詰めていったとき、周りは、この人すごいなって思ってファンになったりするけど、本人はずっと孤独だったりする。

その孤独さがもっともこたえたのは、親元を離れた大学生の頃だったかなと思う。こんな自分が社会で生きていけるのかとリアルな不安に直面した。そして自分の、誰か、他の人へつながっていけなさを感じてた。自分の四方に幕がおりてる感じ。じっさい近寄りがたいってよく言われたし。わかる。自分も自分の外の世界に近寄りがたい。

それで、その時代の自分は、とにかく孤独を自分に思い知らせようと、夜中にひとりで夜道を延々と歩いたりした。もっともっと一人になりたかった。おまえはどこまで行っても一人なんだぞと、自分に刻み込みたかった。あの夜。夏の近づく川沿いの道。

でも、つらかったはずの日々が振り返ってみたら、たぶん自分の人生の中では、もっとも美しい日々だったりするんだよな。小学生のころとかも、いやな思い出しかないけど、風景とかは美しいんだよな。感じやすい時期ってことなのかな。つらくない日々は、鈍感に生きてるのか。

そういう夜のどん底みたいな時期をなんとなく生き抜いてこれたのって、何だったんだろうか。孤独に孤独にと刻みつけたことが、自分の強さになってきたような気がしていたけど、そばに少なくとも友人たちがいたことは確かだし、バイトに行けば、またそれぞれに人生せおってがんばってる人がいて、自分の苦しみがそう取り立てて特別なものでもないことに気付いたり、そうこうしてる中で、自分をだまし騙ししながら生きてくやり方を身につけたり。

たしかに、恋人というような人もいるにはいたけど、そういう人はだいたい壮大に裏切っていくので、ま、そういう壮大なものを目の当たりにすることで、自分の超薄ガラスみたいな繊細な感性が、強化ガラスくらいには耐性をつけたのかもしれん。

なので、孤独になりやすい人がクライシスに直面したときに、もっと孤独になっていくのがいいのか、それとも誰かに抱きしめてもらうのがいいのかってのは、よく分からない。あとあと裏切られても、その時は抱きしめられた方がいいのかな。

孤独を抜けようと思って、もっともっとってスピードをあげても、夜は抜けない。どんどん孤独になっていくだけ。その感覚が、わたしには必要だったと思っているけど、そうでない人もいるかもしれない。

今でも、日々のあちこちに、自分自身の他者につながっていけなさを感じている。その端緒というか、予感の表面的な手触りというか、そういうのが日々のあちこちにある。誰かの会話の瞬間に。こういう世界と自分自身のささいな摩擦に、今さら痛みは感じなくても、ああ、なんか擦りむいたなみたいなときに、誰もその傷には気づいてくれない。そういう孤独は今でもある。

でも、そんな傷だらけの心を、だれかさっそうと現れて抱きしめてくれるとかっていうのも、期待はないな。そういうのが生きてけてる理由かもしんないな。

ついったにも書いたけど(ツイッターって昔はひらがなで表記してたよね)、世界中のひとがいなくなって自分一人になっても、世界はぜったいに美しいし、自分が正しいリズムで生きていけるなら、別に生きていけるような気がする。って、リアルにそうなったら、生活の維持とかだいぶ困難だろうから、いやさすがにそうはならんかとは思うけど。

ぼっちの年寄りになっても、ひろい庭があって、本とか映画とか音楽とか、ゲームとかあったらいいな。

世界は沈黙しない。音ではない音が溢れている。ていうのに、耳を澄ますことができれば。ずっとはしんどいかもだけど、いちばん多感な時期はそうやって乗り越えた記憶。

でも、大人になったら少し鈍感になって、結局そういうナイーブさも、気分の部分大きいよと思う。毎日ちゃんと早く寝て、早く起きて、美味しいごはん食べて、水浴びてさっぱりして、ってサイクルちゃんとして、コンディション大事にしていく。

そうして他者とつながる努力もしていく。私は人とつながるの意欲も技術もそもそも低いのでよく分かるけど、がんばるってしんどいのよ。めちゃ高いホテルのお客さんを迎える人って、一回会った人覚えるためにお客さまノートって作るんだって。努力する人はそのくらい努力してるらしいんだけど、最近分かってきたのは、そんなハードル高い努力ができるかどうかはちょっと先の話にして、まずは自分の気分をどうにかすることなんじゃないかなって。

だからコンディション調整がいちばん大事。その次になんか今日、人と話したい気分じゃない?って気分に自分を持っていくのが大事なんじゃないかなと最近は思う。どんなするのがいいかな。ラジオ聞けばいいかな。前に仕事いく時に30分くらい運転してるもんで、英語のスピーキングのCD流してたことあって、ああいうのは割といいかも。

昔はもっと孤独になろうって言い聞かせてたけど、世界に対する期待を断とうとしてたけど、今は、自分を大事にしようかと思う。

結局、生きるということは、早くしんだって長々と生きたって、自分の人生をどう生きるかだから。始点と終点だけが決まってて運命は変えられないんだけど、その経過は変えられるんだって解釈があるけど、その始点と終点のまでの間を歩くのが人生。

世界という外界と自己という内側があって、そのふれる接点が、痛みだったり悲しみだったり、美しさだったり、喜びだったりする。どんな風に感じるかは人それぞれなんだけど、心地よく、何か期待するように、祈るように、そういう感じ方だったらいいな。きっとそれは、自分の心の持ちようで変わってくるから。だから自分を大事にしたほうがいいんだよ、と思う。

昨日できなかったことが、明日には少しだけできるようになってる。人からみたら全然びりっけつの方を走ってても、昨日の自分より少し進んでいれば。自分がよわっちくて、その自分の弱さが許せなくて、自分を憎みながら生きてきた私が救われていく方法って、それしかないのかなと思う。

前に書いた記事。ほんとうはこれに言及しようと思ってたんだけど、長々書いてしまったので、追記的に。

こういう自分の、他者につながっていけなさ、そのどうしようもない宿命感を、日々さまざまな瞬間に感じながら生きている私からすると、村本さんのような何もかもを乗り越えていける人があまりにもまぶしく見えてしまう。

ただ幸いその嫉妬のような感情を、憧れとか、もう少しこんなふうにがんばろうかなとおもったりして、ポジティブに消化できてるところは自分の幸福なところかなと思う。

この孤独にどう付き合うかなんて、人それぞれで、出した答えに言えることなんてないけど。なんかちょっと響いてしまったんだよな。何が慰めになるかなんて、分かんないんだよな。

後から読んでなんのことやら分からんっぽいのでやっぱりリンクする。
てか、残らんかもだけど。