日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

混乱の春

15年前、3月のあの日、遅いランチを食べていた中華料理店で大きくぐらっと揺れて、地震だねと話していたら、ふたたび大きな揺れ。
慌てて通りに出ると、ごはん屋の並ぶ路地の向こうで森ビルがしなるのが見えた。(あとで聞くと、コーヒーが宙を舞い大変だったという)

ランチの支払いだけ済ませて会社へ戻ると、人々は屋外に避難していて、通信もつながらないという話などしていた。状況が落ち着いてからフロアに戻ってしばらくして、常時ついているテレビから津波が陸地に押し寄せる映像を見た。

交通機関が止まっているので、都内の人々は徒歩で帰っているらしいという話を聞いた。
22時かもっと遅い時間だったか、近くで営業をしていた大衆向けパスタの店で夕食をとっていると、日付が変わるころには地下鉄が回復しそうだという話が聞こえてきた。

かくして深夜に動き始めた地下鉄に乗ってぶじ帰路につくことができたのだが、週末にはいって間もなく、原発に問題があることが分かって、報道されはじめた。

放射能は風にのって都内へも流れてくるかもしれない。ドアを閉めてガムテープで目張りするとよいという情報もあったが、こんな小さな部屋に閉じこもって、食べるものもない。長期化したらどうなるのか。
東京は物流や公共交通が止まってしまうと成すすべがないので、いつも駅まで行き来するあの自転車で交通機能が動いている地域まで行って、実家へ移動しようかなど考えていた週末だった。

 
不安冷めやらぬ週明け、会社に行くと案外みんな落ち着いて、私たちをのせた日常はいつもと変わらず進んでいく。ただ、何名かは数週間のうちに会社を辞めていってしまった。

私たちの上司にあたるその人は、入社まだ間もなく、高学歴の育ちの良さが末端企業の気質にあわず、不満を抱いているふうではあった。
この人が退職を打ち明けたのは、そうした時期のことだった。会社には別の理由だったのだろうと思うが、私たちには、東京にい続けるのは危険と感じていると話した。

君たちも考えたほうがいいと心からのアドバイスを受けた。形のない不安だけで日常を飛び出す力などなかったし、東京の日常は、いびつながら徐々に「いつもの日々」に向かっていた。
記憶には薄れているけれど、計画停電などもあっただろうか。街中が暗いので、元気がでないという声など聞いた。

会社からはもう一人、若い女の子が辞めてしまって、「地震の影響で心身を崩してしまった」と彼女に思いを寄せていた男の子からはそんな情報を聞いたけれど、家族でどこか別の土地にいくそうで、やはり東京脱出の一例だったかもしれない。

母が心配して電話をしてくるので、千葉かどこかの小さな医療施設で放射線影響の検査をしてもらったことがある。
検査のあと先生は(当然、身体には影響はなかったが)、カリウム不足ですね、と言うので、バナナを食べるようにしますと返事をした。
待合室の本棚にWedgeが置かれていたのが、ほんの少し気になった。

その後、個人的ないろいろなことがあって、実家に帰ることになるのだけど、母としては「東京はこれからの時代、住む場所ではない」という見解からの「帰ってきなさい」は、それなりに大きな影響があったのかもしれない、と振り返ると、そう思う。

 
原発事故以降、沖縄という地域が、福島をはじめ北関東や首都圏を離れた人たちの受け入れとなってきたことを、帰郷後に知った。
一年かそこら沖縄やその離島で過ごして、また住み慣れた土地へ帰っていく。そこから沖縄との縁がつながり、移住したり、故郷と島を行き来するようになった人たちもいるようだった。

近く北関東へ戻るという知人を囲んでランチをすることになって、個室のあるカレー屋さんでおしゃべりに花を咲かせていると、ふとあの頃の話になった。

経営者を相手に仕事をしてきた人が、あのとき都内にいた外資企業の関係者は一斉に、福岡や遠くの地方都市へホテルをとって避難をしたんだよ、という。

あの時、まさしく私は都内にいて、日々の生活をしていたのだけど。余裕のある人たちは早めに判断をして、身の安全を過剰でも優先できたのかもしれない。

あの頃、インターネットなどでは過剰に心配する人を揶揄して冷笑していたし、先鋭化する感情のはざまで、どちらにも傾かないようにバランスをとって生きていくだけで疲れていた。

 
新型感染症ウイルスが流行った時も、似たような混乱を感じた。

仕事先で、感染した人を公表するか?とのことを決める場面があって、先輩は「職務上、気を付けさせるためにも公表するべき」と言っていたけど、私は「家族経由で感染することもある、感染を悪いことのようにすべきではない」と言って反対した。

ワクチン接種も、「身体上できない人もいるのだから、圧力にならないようにするべき」という意見があって、感染した人、またワクチン接種しない人への社会的な圧が高まらなかったのは、ひとつ良かったと思っている。

けれど、経済活動の抑制も始まると、社会全体が不安や不満でゆがんでいったように感じた。

何が真実かまるで分からないまま、人々は「オールドメディア」の情報を遠くにおしやり、インターネットに真実があるように感じてしまう。
インターネットの情報はなおさら、その検証は自己責任でなければならないが。

国やメディアが、国民が混乱するような情報を避け、安心させる情報を中心に流す。一方で、現場にいる人、専門の人から注意喚起の情報が流れだすと、ふたつの情報の乖離から、人々は「どちらが真実か?どちらに従って行動すればいいか?」と混乱してしまう。

新型感染症ウイルスの対策は、正しかったのだろうか。経済抑制して、積極財政で支援金を放出して、ワクチン接種を一律ほぼ義務のように行い、一年そこらしたら「5類移行」で消えてしまった、あの騒動。

 
また今、戦争を機に海峡を通れなくなったタンカーが、日本に石油を届けられずにいる。石油の備蓄はあるが、価格があがるのは間違いないし、LNGやヘリウムのほうが問題が大きいという。

とくに離島に住んでいれば、貨物船が入ってこないとスーパーは一週間で空っぽになる。価格があがるならまだしも「物がない」事態にもなりかねない。

数か月のあいだ、そういう生活が続くかもしれないと思っている。

人によっては「食糧危機になりかねない」と不安視する声もある。過去にNHKがシミュレーションした番組があるそうで、じつに4千万人の犠牲を出しかねないという。

AIに聞くと、「物流が止まるということはありません、備蓄はあるし物流は優先されるからです。ただ値段はあがる。」みたいな回答を出してくる。

一方で、物流の現場からは悲鳴が聞こえている。このままでは物流を止めざるを得ない。節約するように通達が入った。仲卸から仕入れできなくなった。

政府が「いつもと同じペースで給油」という一方、IEAは石油使用を抑える10項目を発表した。

政府やメディア、また正常バイアス寄りのインターネットの言論と、現場や専門家、海外や、不安寄りの言論でアンビバレンツを引き起こしている。これは人生で三度目の経験だ。

社会がまた引き裂かれていくなあと思う。

と、思っていると、ある国会議員から、別ルートで資源の確保を進めていること、国内の在庫状況を確認して、医療や物流など優先度の確保に取り組むという投稿があった。

たぶん私たちの国に足りていないのは、こういう本質の議論ができる環境ではないかと思う。

議論は絶えない。どう詰めても消えることはないと思う。

だけど、アラスカ産原油や南鳥島のレアアース採掘が、今目の前にある困難をさも解決するかのように報じられる(そしていつの間にか忘れられる)のではなく、この国に住むひとりひとりが判断できるように情報提供することが必要ではないかと思う。

情報が明らかにされない社会では、誰が犠牲をこうむるかは、為政者の手に委ねられることになる。それは公平なことだろうか? もっとも弱い立場、たとえば離島に住む患者が、じつは当人もしらないところでトリアージされてしまいはしないか。

 
「失敗の本質」という言葉がある。最近、この言葉をよく考える。

日本という国のもつ、ある種の傾向。挙げられているのは「戦術はあるが戦略はない」「失敗をなかったことにする」「情報より空気」「能力よりコネ」などいろいろあるけれど、そこに共通するのは、「全体を見ない」ということだと思う。

ザ・ゴールという本があって、製造業のことを書いていて、とても面白い本だ。全体最適解を知るのに良いと言われていたりする。タイトルがすべてであるように、私たちが何か大きなプロジェクトをするときに何が大切か?というと、それはゴールの共有なのだという。

ゴールは何か、そこに向かうために必要な情報はなにか?こうしたことをメンバーが共有して、方針を示す(交通整理は必要)と、おのおのが自分の持ち場で最適な動きをする。
それは自分のポジションを守るだけの保守的な頑張りではなく、ゴールが共有されているので、ゴールにつながるための頑張りをしてくれるようになる。

ひるがえって混乱におちいったときの私たちの社会のストレスや、疑心暗鬼、過剰な不安や、それを嘲笑する空気などは、たぶん最悪の環境だ。

お互いがお互いのために(同時に自分のために)努力をできる環境というのは、ゴールの共有が前提だが、これは必要な情報をしっかり提供して、議論に加わってもらうということが、大事なのだと思う。

かつては地理空間を把握するのに、「自分が立っている場所から見てどうか」という主観的なものが当たり前だったけれど、航海が本格化する時代に緯度と経度をそろえて、客観的に位置を把握する座標の概念を整えてきた。

ゴールにたどり着くための情報を、主観的に(あるいはアラスカ産原油のような、解決できるとは言ってないけどそうと思わせることを意図しないでもない曖昧で解決に資さない情報を大々的に伝える広報など)報じるのではなく、本質的で必要なものをきちんと共有すること。

戦略を立てるときは全体地図をまず確認する。そこから細かい戦術を立てていく。だけど、私たちの国は「全体を明らかにする」ことがまず不都合そうなときは、それを回避して、目の前にあってできることをやるのが精神力みたいな行動方針になりがちになる。

不都合そうなことを明らかにすることが「不謹慎」「失礼」みたいになるのを、田舎にいると目の当たりにするし、別にそれは中央政府を見ていてもあまり変わらない。

「情報」という資源を持っている者が、そこを隠したまま、進捗やすべきことを都合よいようにするために明らかにしない。それは、本質的に民主化をしてこなかった私たちの国の、払しょくされない封建主義体質なのかもしれない。

合理的に話し合いをする前提の情報が明らかにされないので、私たちは情報のドームの中で、大きな変化が世界中で起きていても、変わらぬ毎日を生きることが正解のように、日々を過ごす。

必要な情報を明らかにして、戦略の地図をひろげ、議論を交わして、どの立場の人にとっても(もちろんリソースは限られるので充分とはならなくても)十分な手当てをうけられるように。

といのうが、オードリー・タンがつねづね言っていたことではなかったかと思う。

オープンな議論のできる情報の提示と、それを可能にするシステム、議論プラットフォームの構築。いうは易し、おこなうは難し。世界はむしろ理想から遠ざかっているようにも感じる。

移り変わる季節の風景、秋冬

秋のころから淡い桃色の花がずいぶん街中あちこちに咲いて、あの木は何の木?と人に聞くと、「トックリキワタだよ」と言う。

冬の終わりに控えめに咲く彼岸桜と比べても華やかで、わが故郷はこの花木をもっと効果的に街路樹にしてはと思ったものだったが、はて昨年はこうも目立って咲いていたか。今年ばかりの乱れ咲きだったかもしれない。

新しい住まいを探そうという話が出てから、島のあちこちを車で走りまわりながら見る風景が、以前と変わって映った。

私の育った場所と、その人の故郷とを結ぶ線のあいだに住まいを置くとして、なるべく混雑する市街地を避けて郊外が候補地になった。東の果てから市街地へとまっすぐ一本線で描かれた「島の構図」が、市街地をそらして東と西と二点を結ぶゆるやかな曲線になる。

住む人の場所によって、島の見え方って変わるんだなと、今さらながらに思った。地方と市街地しか世界地図になかったのに、郊外というエリアがずいぶん広大に広がっていることに気づく。そして賑わいはその周縁に作られていくのだ。

新しい住まいは経年劣化の気にかかるマンションだったが、三つの和室とダイニングキッチンがあり、住んでみればまあまあ居心地が良い。市街地から地方を結ぶ国道に面するように建っているけれど、いつかは森になりそうな空き地を隔てて、街の喧噪は遠い。

夜になると、すりガラス越しに車のライトが音もなく行き来する。シンク台の照明だけ薄明るく灯すと、ガラスの向こうはさながらピントをぼかしたスクリーンで、国道の日常をあいまいな記憶のように切り取る。

パトカーや救急車が過ぎ去るときはさすがにけたたましく、チカチカと点滅するライトは、いっそう暗い郊外の向こうへ走り去っていく。この一本線の道は、故郷の周辺のあの地域と市街地を結ぶ生命線なのだとも思う。

一緒に住む人は、気分が良いときには「同期の桜」を歌い、また「沖縄を返せ」を歌っては、私をからかう。家が暗いのが苦手らしく、始終テレビをつけるのだけど、ニュースに向けてごちる一言から喧嘩になることも多く、今では報道の話題はお互い暗黙のタブーになっている。

車に人を乗せる機会が増えてから、仕事の荷物を全部おろして、シートカバーも変えた。こうなると音楽のひとつでもかけたくなるなと、歌いながら聞ける音楽のプレイリストを見直していると、アイルランドの家族に歌ったバラード楽曲が出てきて、なんだか今の気持ちにピッタリくるなと考えてた。

アイルランドという土地は幼い頃にやたらとあこがれたことがあって、中学生の時だったか、当時はまって読んでいたシリーズものの小説もアイルランドが舞台だった。

「ふたりの世界」という小説で、首都ベルファストで、通り一本はさんでカトリックプロテスタントが対立する時代に出会った二人は、幼い時こそケンカ相手だったものの、再会してからは恋に落ち、宗派を超えて愛をはぐくむためには故郷をあとにしなければならなかった。

はじめはアイルランドの複雑な社会を少しでも知りたくて手に取った小説だったと思うのだが、いつの間にか、バンを生活の場にロンドン、リヴァプールウェールズと流浪しながら、その間に生まれた腕白な子どもたちを育てる二人に感情移入していったのを覚えている。どこに行っても、家族がいればそこが故郷なのだった。

しかしながら、両親や兄弟を遠くアイルランドに残していく寂しさは、この年になると身に染みるように分かる。小説ではあまり描かれていなかったけれど、明るく奮闘しながら生きていく彼女ら家族が、その一方つよく愛おしいのは、遠く離れた親兄弟への思慕がより一層そうさせるのだろうと思う。

いくらか古いこの部屋のことを、彼は「暖かい部屋」と話した。それを聞いた私の母は、「じゃあ夏は暑いの?」と聞いていた。

私たちの故郷はそれぞれ東に、西に、車で30分はいらないほどの距離にある。それでも故郷の人のさざめきは遠く、この場所はしんと静かに感じる。小説の二人が流浪したように、私たちのこの部屋も仮住まいに過ぎない。しかし二人が絆を強くした(家と呼ぶには)小さなバンと同じく、私たちの暖かい居場所だ。

年明け早々に車を走らせていたら、登り切った坂の向こうに海がひらけた。東の水平線に、ぎらりと光がのびている。冬の光は鈍色。色をなくして寒々と、しかし鋭く光る。「鈍色」と言って伝わる気がしなかったから「海のむこう、鉛色の光だね」と言うと、分かったような分からないような返事だった。

この季節の光が好きだと思う。雲の切れ間から光のはしごをおろして、冬のきらめきはモノクロームの世界だ。寂しい中に潜んで確かに輝く鈍色は、祈りの光にも見える。

この冬の光が、私たちの故郷の風景なのだった。島の東と西というだけで、まるで違う風に育ってきた二人だけど、苧麻の繊維ほどの細く透明な糸を縒り合わせて、織り上げていく。

今日この光が、二人の記憶になる。折り重ねた記憶のある場所が、故郷になる。そんなことまで伝えたかったけれど、わずかな沈黙だけが刻印になった。


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田舎の夜を歩く(眠い時の雑文)

美術手帖の編集者の方が、東京から地方都市に帰ると美を見つけることができない的なことを書いて、話題になっていた。

posfie.com

イオンモールだけが光を放つ地方都市に美を探し当てることができないといった風にとらえられて、いささか炎上のおもむきだったけど、さらにアルファブロガーさんが「田舎にも美術はあるのにね」と昭和の風景みたいな写真ポストして、田舎オリエンタリズムと言われてたのおもしろかった。

編集者さんのポストは、真っ暗な商店街(はたまた住宅街)の向こうに煌々と灯るイオンモールらしき輝きが対比的な写真が添えられていて、それはそれでアイロニカルでもある。かつて育った街は自分の欠片でもあるし、そこを批判的に眺めざるを得ないことへの感傷。

また、別のポストでは美術家の人が東京でアートの仕事をして帰郷して「平凡に衰退しつつある住宅街」を歩いたときの感慨と重ねていて、なるほど言い方ひとつなのかな。

しかしそう言うときの「美」とは何か。インターネットでは「地方都市に美を見つけられないのはあなたの見る目の乏しさ」という批判が多かったように思うけれど。

美が何かは個々別にさまざまだろうけど、前二者が共通したのは、想定している美が、消費されるものであったことにあるように思う。

美術として認識され価値が生まれるところにあるコンテンツ性、を追い求めつづける消費する社会の私たち。そこが田舎であれ、都会であれ。

コメントで私は「大量消費社会がテーマの美術作品もある」と書いたが、たとえば合理的な一方、画一的な暮らしが詰め込まれる集合住宅を何のエフェクトもなく撮影する写真家とか、大好きで、しかしやはりそれさえも「美として認識され価値がうまれるコンテンツ性」なんだろう。

帰郷した夜、明かりを失った商店街の向こうにあるイオンモールの灯り、その対比もある意味では(その対比こそが)美であったかもしれないし。

しかしこういった論争に巻き込まれてしまうと、そのコンテンツ性こそが貧困な美にさえ見えてきてしまう。

思えば私も、東京を離れて田舎に帰ろうと決めたときに、東京にある(たとえ消費社会由来のものであっても)その豊かさから遠く離れることへの不安ってあった。

マキャベリが役職を追放されて田舎に戻ったあとで、昼間はカードゲームばかりやっているんだけど、夜になると正装に着替えて執筆をつづけた話とか。またあるときは、セザンヌが彼も田舎に引っ込んでのちも、たまにパリにでてきて仲間たちの展示会を観に来ていた話とか。ああいうエピソードに将来の自分を重ねて見ていた。

ひとたび田舎に帰れば、田舎は田舎の社会構造があって、そこでなんとか戦うので人生精一杯。時間もすっかり余裕がなくなって、年一回は東京に行きたいなと考えていた思いからも遠ざかりつつある。

東京はさまざまな消費される価値のあるコンテンツがあつまる場所だ。だから豊かさがそこにあると感じてしまう。また、(消費される価値のある)美の最前線も、東京にある。

東京から飛行機を乗り継いで来てみれば、田舎には、消費社会から取り残されたものが、ただそのままにある。けれども消費という価値観から遠く離れるには、田舎に来るのがいちばん良い。

価値のあるなしを遠くにおいやって、人間性を回復できる気持にもなる。

インターネットで見る都会の風景は、若い男女が、おのれをみずから消費対象にすることに躍起になっていて、さすがに悲しい。(とは言え、田舎にいても消費価値観から離れられない人は沢山いる。田舎のガールズバーの女の子たちは都会からリゾバでやってきて、観光客を相手におもてなしをしている、投資対象になったホテルが続々建つ有様をみていても、悲しいほど資本主義である)

田舎を訪れても、コンテンツとして観光を楽しんで帰っていく人のほうが多い。島に生きる人たちも、ハイソ層ほど美たる価値をもつコンテンツ性には敏感だ。

人はなかなか消費と自らの価値観を切り離せない。今の無関心層の政治状況を見ていても、なにか通底するものがあるようにも思う。生きる規範をどこかに探しているからこそのスピリチュアルだろうかと思う。コンテンツに身の丈を合わせないと不安になってしまうように見える。

そういう私だっておそらく例外ではないけれど、せめて自分を少し突き放して見れたらと思う。

田舎は文化資本が乏しい分、コンテンツ性に自分を合わせないと不安という人は都会よりは少ないかな。最近、カジュアルに浸食するスピリチュアルを見ていると、これって結局「自己啓発」とか「自分探しの旅」とか、「何者かであろうと」とかいう不安や欲求の延長にないかな?と思ったりする。

私は昔から都会に興味がなくて、ずっと故郷で生きてたいと思っていた。沖縄の大学に行って、そのあいだにアイルランドに留学できたらいいなと思っていた。いろいろあって東京にしばらく生活してしまったけれど、「何物かであろうと」する気持ちがあまりなかった(都会の雑踏にまみれて、存在感がゼロになる感じが好きだった)ので、この辺で考察が途切れてしまう。

そんな私でも美たる価値のコンテンツ性には惹かれてしまうし、結局、そこは冷静さで距離をとらないといけないんだろうなと思う。

でもその冷静さってどこからもってこれるのかな。他人に一生懸命になったり、自分がマイノリティだったりすると抵抗力になるのかな。

田舎に帰って、カメラ片手にいろいろまわってみて、初めの頃は何を撮ればいいか良く分からなかった。私にとって故郷の風景は、水のように当たり前にあるもので、透明で、無味無臭。だけどなくてはならないもの。

それをコンテンツに仕立てることは、なかなかできなかった。だけど分からないままに、その辺の風景にレンズを向けていると、季節ごとの風景の変化が見えてきて、光も風も少しずつ変わっていって、それは美たるコンテンツというより記録のような。

そうすることで故郷は少しずつ私のなかに染み込んでいった。

地方都市の夜に美はないだろうか? 田舎の夜にだってたいして美はないのだ。それを美と呼ぶのは文化資本に育てられた都会の人たちだけかもしれないのだし。

潮騒から遠く

ちょうど家に着く時間帯にかかってきた電話でとりとめのない話をワーワーとされて、あと静まった初夏の庭で近所のヤギの声を聞きながら、何の電話だったのかなと思った。でも近いようで遠い別の島からの電話が面白かったので、片田舎のあれこれをスペースオペラみたいな小説にできないかなと小説投稿サイトを久しぶりに開いて二、三話書いてみたのだけど、現実の進むスピードのほうが速くて、すっかり埃をかぶせてしまっている。

秋にかかるころ、仕事仲間で何度か秘密の会合を開いて話し合った。当時のいざこざもすっかりいつかの季節になって、昨日はその小さな居酒屋の個室でなじみの顔で久しぶりに集まって、今の気持ちやこれからの思いなど話し合った。
島の飲み会というのは、ひとりずつ挨拶があるのがセオリーで、私は今の気持ちがまったく空っぽになってしまっていること、それでもこの仕事を担う世代は自分たちでなければならないことは分かっているという話などをした。
私がスペースオペラの小説の中で王として描いたその人は、酒座の誕生日席におじいちゃん然としてにこにこ座って、一緒に戦ってくれてありがとうと言い、これからもおれを頼ってくれと話した。

ひとつの時代を終わらせたその人が、時代をつくった過去の人となっていく。その時に立ち会いながら、舞台裏でどんな思いがそれぞれあったか、何一つ書き残せなかったなと思った。

酒の席が終わったあと、人を迎えに車を走らせた。夜の海の気配のある場所をずっと通って、団地の駐車場に車をつけると、近くの部屋の窓からワーワーと声が聞こえて、ずいぶん賑やかだなと思う。男ばかり三人の家族で缶チューハイをだいぶ飲んでいるようで、一時間ほど同席したあと、大きな声でよく喋るその人を連れて外へ出た。

チェックイン済みの空港近くのホテルまで車を向かわせる。まとわりつく潮騒をやがて遠ざけて、空港周辺の緑地帯から木々の匂いのする場所へとやってくる。収穫時期のサトウキビ畑にやわらかな小雨の降る晩冬の夜だった。

あの小説は、もう完成させることはできないなと頭の片隅で思う。恥ずかしくて読み返しもできないし。けれどもなぜあの時ワクワクして筆をとったのか、分かるような気もしている。あの頃、何度かかかってきた電話の相手の背負った世界への関心とか、小さな港町の、まぶたの裏にいつまでも残る美しい風景とか。

あの冬の夜、お酒を飲まない私が飲み屋から家まで送り届ける途中で、この辺がぼくの育った場所とはしゃぐようにその人が言って、そのあと車を停めて少しばかり身の上話など聞いた。車をわざわざ降りて煙草を吸うその人と、半分開けた車窓越しに会話をした。小説の筆をとるなら貴種流離譚のような話で、「言ったらぼくらは『敗け組』」と煙草を吸うと、青い闇に火が灯る。

ひとつひとつがフィルム写真のように心に焼き付いていく。強く惹かれるけれど、もう他人事のような言葉にはできない。

未来図を描かなければ、前にも進めないことは分かっているけれど、日々が怒涛に過ぎていって、立ち位置の見定まらない大雪の中にいるような気持でいる。冬はまもなく終わるだろうか。雨に濡れそぼる寒緋桜を見て、そんな風に思ったことを思い出した。

季節は変わるし、肌にふれる気温も変わっていく。大気のめぐる中で人の身のどれほど小さく傷つきやすいことか。今はただ深い夜に漂う緑の気配が心地よい。この夜の中に、いつまでも閉じ込められていたいと思う。

悲しみは海ではないから

その日は午後からの予定だったので、犬を散歩させて、ニュースアプリをチェックして、シャワー浴びる前にちょこっとベットに横になったら、いろいろ考え事している間に涙がひとつふたつとこぼれた。

まあ歳をとればこんな朝がないこともない。うるう年で0.2422日のずれを修正するみたいに、日々の心のずれをちょっと泣いて修正できるなら簡単なことだ。何なら東京を出る前の一年ほどは、毎日泣いていた。それが三日に一度になり、一か月になり。

それでかねてから考えていたように帰郷する道を選んだところ、帰ってきてまもなく天からお役目が降りてきて、今はまあまあ忙しい日々を過ごしているのだけど、清廉と生きているわりにはひとりぼっちであるな。と、時おり自分のための涙を流している。

「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」今日読んだ記事の引用されてた山月記の言葉が、不思議と胸に刺さったのもさもありなん。あるとき世の中の見え方が変わってしまった以上、いかにそのことが私を孤独に連れ去ろうとも、もとの天真爛漫とした見え方にはもどれないものだ。

小笠原登という医師の話を知った。世間の常識が間違っている時に、医学的見地から冷静に判断して、恐れず感染症の治療にあたったすごい人だ。

病名を書けば患者は、終生隔離の施設に送り込まれてしまう。あえて病名を「多発性皮膚炎」などと書き、患者を地域に暮らす中で治療することに努めた。いうなれば日本医学界の杉原千畝である。日本円の一万円札の顔は渋沢栄一ではなく、小笠原登にすべきと思った次第。

真実を見る目は、いかにして育つのか。そしてそのまなざしで人々を見れば、まっとうに自分が何をなすべきか分かる。小笠原登が生きている間には制度を変えることはできなかったけれど、彼の薫風を受けた次世代が、制度を変えていくのである。

どうすればあなたのようになれるのか?と問われ、小笠原登は「平凡」であることと述べたという。分かる思いもあるし、分からなさもある。結局私たちは、日々、目の前にあることを精一杯大切にしていくしかないのだ。

けれども、多くの人を助けるために、彼も孤軍奮闘したのではないか。自分が弱い人間のままなら、多くの人を助けることは難しい。現実を知れば知るほど、平凡とはいかに大きく、その前に立つ自分のいかに小さなことか。

もっと強くならなければという思いと、まるで神さまに耐久テストを強いられているような、苦しさと。

またこの日は、知人が映画を観に行きたいというので一緒に行って来た。アイアム・ア・コメディアンという映画だ。時間がとれるか微妙だなと思っていたのだけど、観たいといわれれば仕方ないので、時間をつくっていく。

お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワー村本大輔が政治的発言からテレビでの出演がなくなっていき、同じころに彼はかねてより強い羨望を持っていたスタンダップ・コメディを学ぶためにNYへ留学する、その3年とか4年とかを取材したドキュメンタリーだ。

熊本震災のころのアベマTVは見ていたのでよく覚えている。この頃のそれぞれの土地の人たちと向き合うことから村本さんの芸人人生が変わっていったという。

そのあとのNY留学中の様子も、ちょこちょことインターネットで見たりしていたので、だいたい知っている内容だった。なので、なにかおさらいしている感じだった。

ただ、終盤に差し掛かってからの父親との関係性にふれていくあたりは、ちょっと新鮮だった。自分は自衛隊員の弟に戦争で戦ってほしくないと長男に言われた父親が、何を言っているのか!と怒る。自衛隊を誇りに思わんでどうする!何がしたいんだ!そんなことを言うなら政治家になれ! 口論は続いたけど、帰りのバスの中で涙目の村本さんが、後日このことを面白おかしく話したとしても、父親との距離感とか、その淋しさとか、そういうことは他者である私たちからは量ることができない。

コロナのとき、劇場が「このままではつぶれる」と悲鳴をあげて、私もいくらか寄付をしたものだけど、あのとき芸を生業にする人たちがすごく苦しかったことが改めて伝わってきた。その閉塞感の中ということもあっただろうけど、物語の終盤は少し息苦しかった。

ドキュメンタリーであっても、それが誰かしらを取材していても、じつは私たちが見ているのは被写体ではない。ドキュメンタリーを撮っている人の心象を見ているのだと思う。だからあのドキュメンタリーの中の村本さんは、多様にあるうちの一つの顔でしかない。

なので、大独演会の客席の様子を明るくなるまで映し続けたことも、ミニライブのあと、ひとりになりたいだろう村本さんが地下に降りていくところをカメラが追いかけていったことにも、ドキュメンタリー監督って意地悪だなと思った。

いちばん弱っているところを、物語のラストに持ってくる。意地悪だな。放っておけない人たちが心をつかまれるなら、まあ良い演出かもしれないけれど。

私はこのブログで定期的に村本さんのことを書いていて、初めは私のブログも炎上するんじゃないかとドキドキしたけど、そんなこともとくになかったので安心して、あとはなんかこう連続した一つのテーマみたいになっているのだけど、以前には、そんなに遠くに行けない自分の閉塞感と、きっと遠くへ行けてしまう村本さんのフットワークの軽さとか、人の心に入ってしまえる好奇心とか、自分に持ってないものをたくさん持っていることで、村本さんに対して苦しい羨望があるのだと書いたことがあった。

あれから4年は経ったか、私もずいぶん忙しくなったけれど、閉塞感が晴れたかというとそんなことはない。世界は広く、人々は多様で、私の声は小さくて、手を伸ばして届くものはとても少ない。

自分がもっと強ければ、と思う。虎になった李陵が、臆病な自尊心と尊大な羞恥心にとらわれ、人との交わりを恐れ、心のカーテンを閉じてしまったように、私もまだ世界を恐れているがゆえに、自分の存在が小さく恥ずかしく、そんな思いを押し殺して人前へゆく。

けれどドキュメンタリーの中の、大独演会の幕が閉じたあとの厳しい横顔とか、地下の暗がりで酒瓶を片手にぽつぽつ話すところとか、あのときどこまでも遠くまでいけるに違いないと思っていた村本さんが、東京のあのごちゃごちゃした街の中で、何をするにも壁だらけの街の中で、

小笠原登という医師もまた、良く知る人からは敬愛された人だった。彼に学んだ弟子たちも、彼の生きざまが強く放つ光となって導かれたのだろうと思う。けれども彼が無明が満ちるこの世界に生きるとき、どんな風に迷い、どんなふうに苦しんだのかは、私たちに知る由もない。

小笠原登は生涯独身だったという。死後は生家だった寺に無縁仏として祀られているそうだ。

無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。けれども灯台のふもとは暗いというように、慈しみ世界を照らすひかりになろうとするときに、その人へ慈愛のひかりは差し向けられるのか。

けれど人生は寓話ではないから、実際にはさまざま多様に生きていくのだと思う。ただ、台風の中心はしずかな無風地帯であるというように、穏やかさがあるようであってくれないかと願う。

帰郷して間もなく光のない海へ行ったことがある。心の孤独の部分と呼応するものがあるかと期待する思いもあったが、闇のむこうの咆哮は、冷たく意思のない無からの響きに思えた。

日が昇り、島の生き物たちが目を覚まし始めると、虫の声や鳥の声があふれてくる。

「他力本願」という。私を生かしている他のいきものたちの力を感じるところに命の意味が始まる。朝夕勤行を欠かさなかったという小笠原登の心のうちにあったものに思いをはせる。苦しみは晴れないけれど、少しだけ和らぐ気もする。涙はそういうときに思い出したようにひと粒流れてくる。

六畳一間から見る空は。

このところ、桐島聡氏のニュースばかりタイムラインに流れてくるので、積極的にこの報道を読み込まなくても、なにか言葉にしきれない哀しみのようなものが日がな心に漂っている。

保険証が云々と騒がしい話題がひととおり過ぎ去ったあと、長く残るのは白檀の香り、みたいにしつこく沁みついて離れない。

早々に捕まって刑をまっとうしたほうが、少しは救われた人生を歩めたのではないだろうか。
どこかで読んだところによると、恵まれた家庭に生まれたことに背徳を持っていて、そこが事件の動機に繋がっていたとも聞くから、世捨て人のように生きることが償いだっただろうか。

通っていた店があって、案外普通に生きていたような証言もあって、どこかほっとするものもある。一方で具合が悪くなっても病院には行けなかったし、仕事を辞めるわけにもいかなかった。彼は自分の末路を、それなりに受け止めていただろうけど。

どこか善人の雰囲気や、真面目ゆえにはまり込んだ袋小路にも見えて、あの時の自分たちの起こした事件を、その後の人生でどう振り返っただろうか、知りたいおもいもある。

あの時代に革命と言って行動を起こした人たちの思想を、私じしん嫌っている部分がある。昔は「革命かっこいい」と思ってた気持ちもあったと思うんだけどな。でも、方法を間違ってしまうと取り返しのつかないことになる。むかし、アルカイダがどうして興ったのかって番組を見てて、あのエジプト政府の民衆弾圧の中からテロリストの萌芽が生まれてくるんだけど、その動機には共感しても、手段には同調できない。悲しい選択だと思った。

また権力側は、彼らの過激化する行動を利用して、さらなる弾圧の正当化に繋がってしまうんだよな。だから、どんなに時間がかかっても、どんなに根気が必要でも、われわれは「共感」によって世界を変えなければいけないのだと思う。そこをたやすくもぶち壊してしまうテロの手法には、やっぱり怒りを感じる。

連合赤軍日本赤軍は違うという話でタイムラインがワイワイしてて、そうかと思って眺めていたんだけど、関連記事の中で、テルアビブ空港事件だったか、犯人の証言として犠牲者にたいして、世界が変化することに伴う犠牲だととらえていたという話があった。

どこかで自分たち以外がモブ化しまうような、つまりそれはあまりにも主観的な世界で起きたことなのだと思う。誰かにとっては別のものがたりがあり、別の景色があることを、想像できなかった。その独善的なものの見方を許してしまったのは、「正義」ということなのだと思う。

2022年には、安倍元首相を狙撃した山上徹也氏の事件が起こった。テロか否かでは異論があるものの、事件当初わたしが感じた思いも、テロに対する怒りと同じものだった。

おりしも参院選の投票日直前、選挙の結果に大きな影響を与えるだろうと思ったし、翌日にはもう弔い選挙の様相を呈していた。世界を変えるために、暴力という方法では成せないのだ。

しかし救いは、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題を根気強く追い続けていた弁護士とジャーナリストがいたということだ。

彼らの積み重ねたエビデンスがなければ、あの事件はむしろ反感しか呼ばず、日本があやまちを犯したエバ国として、その主権をかれらの神の国に「復帰」することを信者に説き、政治家に秘書を送りこみ、選挙応援をする宗教と、この国の自民党はじめ多くの政治家が、持ちつ持たれつの関係となっていたさまが問題視される状況は、さらに遠のいたかもしれない。

そういうことから考えても、いかに時間がかかり、突破口が見えないままでも、人々が納得し共感する道を選び続けるしかないと思う。

しかし、あれから半世紀が過ぎ、ぽつぽつと彼らのその後が語られる時代になった。

ついこないだまで統一教会がこの国の首相と懇意であったことを思うと、あるいは裏金還流問題や増える国民負担率など、政権末期と感じるものの、支持率は頑なに他の野党勢力を引き離す状況を見ると、たしかに左派は敗れてきた50年だった。それにはかつて人々の共感が離れることとなったこうした事件の存在は大きいと思う。

理想を目指しながら、権力闘争に堕していく。闘いの中には、つねに敗けもなければならないのかもしれない。立場の異なる人の声を聞き、ある時はそれを飲み込み、粘り強くともに未来を切り拓く努力をする。

良い未来のためにはゴールの共有が必須だと、いつも思う。ともにそのゴールに近づけば、互いに勝利だし、一人だけの勝利にこだわれば、ゴールは遠のく。自分が勝つかどうかは、ほんとうは問われなくていい。そういうのを、まあ、全体最適解というらしいけど。

いろいろ言っても5文字で解決してしまうよね。

で、イスラエルの空港で自爆テロを起こして生き延びた岡本公三氏は、いまも政治亡命者としてレバノンで暮らしているという。

現在75歳、パレスチナ解放人民戦線は彼を英雄として扱い、世話を続けているそうだ。しかしこの事件では26人の乗客が犠牲になり、生還の望みの無い自殺的攻撃だったことが、イスラム過激派の自爆テロという手法へ道を拓いたのだとする説もある。

多くの宗教で自殺は罪なんだけど、日本ではその思想は薄いというか、むしろ「死ぬことと見つけたり」という死の美徳みたいなのはずっとあるような気はするよね。

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イスラエルがガザを攻撃してまもなく4か月になろうとしている。いくらハマスを理由にしようとも、報復も連帯責任も国際人道法では許されていません。幼い子どもたちがミサイル攻撃にさらされて良い理由にはならないのです。

でも、この歴史はわたしたち多くの日本人の知らないところで50年も続いていたのだな。そして50年前にパレスチナの側に立って命を懸けた日本人がいたのだな…… それは、世の中のいびつさを是正するどころか、余計にもっと複雑に、いびつにさせてしまった。評価はしないけれど、でも、と複雑な思いが残る。

繰り返し思うエピソードがある。太宰治はいつも家にあがりこんでくる近所の人がいたんだけど、飯食って帰るみたいな傍若無人を大目に見てたんだそうだ。それは良い家庭に生まれ育ってきた自認のある彼の、貧しく弱きものへの罪滅ぼしであったというような話。

どこで読んだかな。あの思いがずっと胸の奥にある。貧しく弱い者の側に行って、ともに座ることなどできないことも分かっている。だからといって上から施しをやったり、さげすんだりもできない。ただその傍若無人を受け入れることが、自分の贖罪なのだ。

世界のいびつさを眺めながら、その現実にいかに向き合うべきだろうか。欺瞞にまみれぬよう、正義にまみれぬよう。祈る以上に何ができるだろうか。

中村哲さんみたいな生き方ができるといいんだけどね。それにもノウハウというか、技術を学ぶ力は必要な気がするな。

平均を歩く~道の先にあるもの

おれには野心がないんだよ、とその人が言うのを聞いてから、私の中でも何か燃え続けていたものがふと灯りを落としたような気がする。

こんなことを言うと、みんな頑張れなくなるからな。続けるところまでは続けるけど、先の地図は白紙なんだよ。人ひとりの存在の求心力というのは大きいんだなと思った。翌日の、式典の形式ばった挨拶を上の空で聞きながら、この先の道は一人一人が歩いていくしかないんだな、私は別に、一緒に歩こうと思ったわけでもないのに。

それでもあの時、それは賭けのような判断で、結果は勝ちが出てしまった。この場所を箱舟に例えて考えれば助け合うほうが最適解なのに、頑張れと言われて放り出されたような感じもする。それも甘えか、人の倍、成長しないとだめなんだな。

バトンを渡すと決めたら、あとは若いみんなを目を細めて眺めるように穏やかに、期待しているぞと言うのはずるいではないか。

いつだったか仕事を辞める上司が私たちを呼び出して、「僕は誰もやらないことも率先してやった、それが自分の成長にも周囲の信頼にもつながっていったと思っている」というようなことを言ってきたことがあったけれど、どんなに仕事をクソほど真面目にやっても一定の評価の域を出ずくすぶってる私に向けられていたのだと、あの時の息苦しさを思い出す。

彼は正しかったのだと思う。私に天から配られたカードの役は弱く、これでは企業の中ではどう頑張っても認められない。そこを超えるには、人のする努力のその上をいかないといけない。当時もおせっかいにもほどがあると感じたものだが、普段はどこか計算尽くしている冷静な人に見えたから、よほど言っておかねばと呼びだしたのかもしれないと微かに思う。

分かってはいるけれど遅すぎた春で、もうその会社にそれほどの忠誠心を持てなくなっていた私は、それから間もなく会社を辞めた。

けれどもあの言葉は、今でも繰り返し思い出される。影のようにどこまでもついてくる。私を置いて先に行ってしまう人が、ずるいと思う。あなたのように器用には生きれないのに。

二つの道をシミュレーションしている。いっそのこと今の仕事を辞めてしまえば、空っぽになった分、新しいことが私の中に入ってくる。そういうことを望んでいる自分もいる。ある程度、無理の効く年齢のうちに新しいことを始めるのもいいんじゃないかな。

けれども、待て待てという声もある。あなたに賭けた人たちがいたのだ。オセロゲームの重要な位置にあなたがいて、ここをひっくり返されてしまったら、取り返せないことになってしまう。そのことも分かっている。「いちばんやりたくないことをやるんだよ」と、声が聞こえる。分かっている。

なんと未熟なのに、そんな重要な位置に自分がいるなんて。「誰もやりたがらないことを率先してやった」簡単に言うけど、大変なんだよ。やればやるほど、自分の未熟さがさらけ出される。できなさを毎回乗り越えられるほど、そう強くはない。ごまかしながら生きるほどに細かい傷が増えていく。

それなのに、最後に立っていたときだけに、あなたが声をかけてくれるのだとも思う。傷ついていないふりをして立ち続けるしかないのだろう。

なんだ、私はもう、あなたが降りるなら、私も降りてやろう、いつかは分からないけど、その次の道を見て歩いていこうと思ったのに、なんだか逆のことを書いているな。

子どもの頃は大人しくて声も聞いたことないと言われてたけど、社会に出てから、その経験を取り戻すように人と話す仕事ばかり選んだ。一番やりたくないことをやる人生なのかもしれない。

それでも、このレールはどこまでも続いているものでもないかなという気もしている。いや、レールの終わった先を見ている人生の方が、健全のような気がしている。あなたの言った「野心がないんだ」という言葉が、私の中に響いてしまっている。

人の倍やって結果を出そう。誰もやらないことをやって、強いカードに替えていこう。レールが続いていると思うことをやめよう。ゲームは一回ずつ勝っていこう。その先に次のゲームが待っているかなんて、誰も分からない。いつかこのゲームを降りる日だって来る。

その時、あの影のようについてきた言葉が振り切れているように。