日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

俳句は楽しいけど難しいという話

いつものようについったでダラっと連ツイしてもいいのだけど、多少こころの余裕もあるので、ひさしぶりブログにでもつらつら書いておくかと思った。しばらく書いてないと広告でてしまうし。

元増田のこの句に向き合ってあれこれ考えた時間も、良いなと思う。

仕事のあいまにちょい一息いれて買ったお茶のパッケージに書かれた句を読んで、微妙な気持ちになることも、わりとある瞬間。

夕立が強いときでも象を洗わなければいけないという雇われの身の立場の弱さ、はたまた夕立が凄いので象を洗ったことにして今日の仕事はやめにしたという飼育員という仕事の適当さの表現なのか。
「夕立や象を洗いてまたたく間」
https://anond.hatelabo.jp/20210918185654

こういう視点も、独特なように思う。労働のあいまに読むと、労働者の視点になってしまうのか。俳句ひとつとって個々別の風景があるのが良いと思う。

私は「象」というのは、心象風景として現れたイメージなのかと思った。
「象」が「ゾウ」ならもう少し、サバンナなのかな?とか視覚的想像も広がるけど、漢字の「象」だと抽象的な感じがする。
自分をおしつぶしそうな世間の価値観みたいな大きなものが、ざっと降った夕方の雨に、姿を変えて新鮮にたちそびえる。
社会的な価値観との折り合いを見つけたというような文脈でこの句を読んだのだけど、それもまた、私の心の風景でしかなかった。

正解は、おーいお茶のサイトにあるように、また国語警察の増田が言うように、動物園でみたゾウさんの話だった。

仕事の一息に買ったお茶のパッケージについてきた俳句をしばらく眺めたあと思ったことを軽くディスりながら匿名日記に書きこんだら一流のまさかりに一撃くらった日常の何気なさを、五七五にできる力が私にあれば良かった。

非日常はいつでも日常ととなり合わせにある。
国語警察にぶった切られるのも、日常生きててそうあることではない。
人生のクロスロード。この非日常の先に、少し豊かな人生があるといいな。と思う。

元増田の引き合いに出している種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」は私も好きで(種田山頭火じたいがとても良い)、この句から物語を汲むことは難しいけれど、ただ青々とした色彩だけがあり、もう少し独自に想像力を働かせるなら、山は緑なのであって、青と表現するのは日本の伝統的な色彩の感覚に依っている。

彩度のもっとも高いものはシロ(顕)であり、もっとも低いものはアヲ(漠)である、と考えていくと、くだんの句には、青々とした山の翳りに分け入っていく様子が感じられる。明るい真昼のことではなく、そろそろ夕暮れも近づこうかという午後の、日はもう山の向こうに隠れ、山陰となった側のうっそうとした草木を分け入る。分け入るという行為の終わらなさは、翳りの青に陶酔するようでもある。

西洋絵画に貫かれている論理性とことなって、日本の絵画には、感覚だけが響き合う情景のものがある。種田山頭火がロジカルではないということではないのだけれど、こういう感覚的な心地よさに耳をそばだてるような作品が、日本では好まれるという印象も個人的にはもっている。

象と夕立の幻視に閉じ込められていた詠み手が再び現世に返り、我々読者もその爽やかな読後感を共有できる…そんな終わり方です。幻は一瞬であり、一瞬であるがゆえに永遠。この句はそんなことまで感じさせてくれます。
いろいろ間違っています
https://anond.hatelabo.jp/20210919002338

創作において「日常」と「非日常」の交差は頻繁に描かれ、一瞬の永遠性もまたありふれたテーマである。

というところにおいて、増田のこの評論の箇所はたいしたことは言っていないのだけれど、それでもこの「日常」「非日常」の交差、そこに生まれる永遠たる一瞬を、空間と時間意識をもって、おそらく瞬時にとらえただろうその心の動きを、この文章をもとになぞると、正直のところ心打たれる思いになる。

だいぶ前に見た俳句なのだけど、皮をむくときに、光をあびて回転するりんご、という感じの描写の句があって、解説で、病院にお見舞いに来た時にりんごの皮をむいたときの場面で、りんごは地球に見立てて、くるくるまわすと球体には朝と夜が交互にくる。運命の軽やかさと重さのようなものが、この場面に濃縮されているようで、記憶に残っている句だ。

俳句の良し悪しってずいぶん難しくて、もちろん質の良い句というものもあると思う。重層的で、省略の美がうまく作用して、音のリズムにも妙があるというような。でも実際的には、その句から自分がどういう風景を読み取るかが大きいのではないかなと思う。つまり、名人が書けばよい句、素人のものは悪い句というものではなくて、素人の句や評の中にもそれぞれにユニークさがあって、それこそが近代俳句や近代短歌の良さなんじゃないかなと思ったりする。

この辺、明治の頃にどっと入ってきた西洋絵画の影響があるんじゃないかと思っていて、西洋の美術や文学や制度などを学ぶ中で当時の知識人たちは、個の確立というものを吸収していったというような思いがある。吸収したというより、個人主義に親和性を感じる人たちが、そこによりどころを見出したのかもしれない。

自由律俳句などは、句の中に美しさとか整いというより、人間くささを見出すところがある。

そんな諸々の歴史を継いで、近代俳句というもの、大衆が雑多にそれぞれ眺めた風景に、読み手もまた乗り移って眺めるような愉しさがある。

それでは俳句に良し悪しなど無用ということにならないか。と言われそうだけど、そうとも言えない。私も俳句や短歌が好きで、いざ書いてみようとするけれど、あんなふうに美しく、あるいはユーモラスに、リズムをうって、あるいは余韻をもたせて省略する文章というのは、なかなか書けるものではない。

それなので、ついったーとかブログとかに取り留めなく書き連ねるのがせいぜいのこと。いつかあんな抒情性をもった風景の切りとりができるようになるといいのにな、と思う。

終わらない夏休みの終わり

シティ・ポップに関する記事を読んで、私はシティ・ポップは世代ではないんだけど、思うことも雑多とあって、好き勝手に雑感をまとめてみようかなと思った次第。

日本の「シティ・ポップ」世界的人気のナゼ…現象の全貌が見えてきた(柴 那典) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

ミレニアル世代を魅了する奇妙な音楽「ヴェイパーウェイブ」とは何か(木澤 佐登志) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

ヴェイパーウェイヴは、80-90年代の商業BGMを実験的手法で再構築したものだそうで、当時に描かれた理想的ヴィジョンの再現に、亡霊のようなノスタルジーを見るのだという。

テレビコマーシャル、リゾート地、ネオン、ショッピングモール、ミューザック。
無機質な理想郷というイメージから、長野まゆみの「テレヴィジョン・シティ」を思い出す。
ドームに映し出されるカナリアン・ビュウの碧い海。平穏という虚像と、終わらない夏休み。

押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」にも同じイメージがつきまとう。
この先に待つ希望なき時代を予見するかのように、失われた未来――仮像の世界をループする。

ノスタルジーは喪失をともなうものだ。この場合の喪失は、未来にかかるのだと思う。
ヴェイパーウェイブは2010年代になって、かつて描かれた「来ることのない未来」をアイロニーを込めて再現する。

シティ・ポップの源流はAORにある、と個人的には思っている。
AORをあらためて聞き直してみると、ソウル・ミュージックの継承がしみじみと感じられる。

ジャズの隆盛期をになったスウィング・ジャズが白人主体だったように、AORもブラック・ミュージックたるジャズ、ソウル、ファンク、ダンス・ミュージック等々の流れを大きく受け継ぎながら、主体となったのは(そして我々一般聴衆からの担い手の印象は)白人であった。

華麗で粋な都会の音楽というものの実は、ブラック・ミュージックの要素を主として洗練した白人音楽の側面があり、ソウルとは真逆の生活を感じさせない風合いなのは、一種アイロニカルでもある。一方で理想をおえばだんだんと平均化していくように、80年代商業が描き出したバカンスのための理想郷は、型で抜いたように均一で記号的なものになっていった。

と、AORからの流れをおさえつつ、さらにシティ・ポップを考察すると、経済成長を経た日本において、商業主義と大量消費社会の極みに現れた画一的な理想郷の幻影をともなうのだった。...などと、2020年からのメタ的視点でヴェイパーウェイヴを踏まえれば、そんな風に見ることもできるかなと思う。

当時、日本でシティ・ポップがどんな風に受け止められていたか、世代が違うので分からないけれど、「テレヴィジョン・シティ」や「ビューティフルドリーマー」のもつ独特な世界観を思えば、あながち、当時も「ループし続ける仮像の理想郷」のイメージは存在したのかもしれない。

先の記事のブックマークコメントに、ICEとかSPIRAL LIFEの再発見につながらないかな?ということを書いたのだけど、ひと呼吸ついて考えてみると、ICEなり渋谷系シティ・ポップの系譜をなんとなく引いてはいるけれど、やはり別物だろうな。

おもえばインディーズ・レーベルという言葉が隆盛になったのは90年代で、渋谷系にしてもマスを対象とした音楽ではなく、小規模でディープなクラスタ向けになっていたように思う。

だから、傾向は似ていても、背景に共有する景色が変わってくる。多様な音楽の水脈が流れ込んで、雑多で、変化に富んだ時代だった。人によっては嫌われるようなスタンスの人たちがコアなファンを獲得した。

SPIRAL LIFEはみんな大好きになると思うけど。
90年代って、30年前なんだぜ。30年前から音楽って進化してんのかな。してないんじゃないかな。とか思ってしまう。

まあでも、90年代が再発見されてフューチャーされることもなくはないかもしれない。隠れたカッコいい曲たくさんあるし。ちなみにNokkoのi will catch uはテイトウワが作ってる。原曲をyoutubeで聴くことは今のところできなさそう。

90年代がどんな時代だったか?というと、TKがいてヴィジュアル系がいて、スピッツミスチルがいたんだけど、渋谷系的な話でいえば、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年)が、すごく90年代後半って感じで、そしてそれがなぜ90年代的なのか、言語化できそうにない。

2000年代に入っていくと、あの空気はあたりに散って薄まっていく。

いろいろ書いたけど、AOR系譜の曲、私は大好物で、それこそデイヴィッド・フォスターとか。今井美樹の黄色いTVもいいんだけどなと思いつつ話題を眺めていたり。この曲を作曲してる上田知華さん、早瀬優香子「キッチンから見える月」も作っていたりして、こういう甘いメロディすごい好き。

でも80年代って超絶ダサいみたいなイメージが定着してるけど、2010年とか2020年になってリバイバルしてるの、80年代の逆襲って感じする。

おまけ

ノスタルジックな過去への逃避とは?――猫シCorp.インタビュー|Vaporwave 特集 #2 | TABI LABO

ノスタル爺とラ・ラ・ランド

ある種のおたくは「ドラえもんでどの映画が好き?」と一見月並みな質問で相手の戦闘力をはかるらしいので、藤子不二雄あたりの話をうっかりするのは畏れ多いんだけど、ノスタル爺は日がたつに連れ重みが増す漫画だった。今日はそういう感想を書こうとおもう。

時空に隔てられて会えない分身という設定は、新海誠作品に重ならなくもないけれど、作品のトーンは全然ちがうよね。
ノスタル爺には何か悔恨というべきか、どろどろとした感情がある。
と思って、秒速5センチメートルにも似たような重さはあったなーと考えこんだり。
まあ秒速には抱けー!と言ってくる爺さんは出てこないからな...

若いころ比較的たくさんの選択肢がある中で、選ばなかった未来がある。
あの時は自分なりに考えて、真摯に、誠実なる選択をしたつもりだったのだけど、選ばなかった時間軸への思いはうっすらとあって消えない。

泣きながら選んだ道だからとか。この先続くと思ったけれど、次の角は右にしか曲がれなかったとか、どうしようもなさを飲み込んで今がある。

帰郷してすぐ、これまでため込んできた半生の思いを母から聞かされた。たくさんの話のなかで、女性の50代は曲がり角というものがある。
母のことばをいい感じにまとめると、50代に差し掛かるとインスピレーションが強くなり、それが良いようにも悪いようにも自身に影響を与えるのだという。

50代という年齢がある意味で下り坂に差し掛かることをして予感して、取り戻せない過去に向き合う思いなのではないかと、母の話を聞いているとそう漠然と思った。
今まで、自分が頑張ればいいからと気丈に生きてきた支えをふと失って、個としての自分に向き合わされる。
本当の自分はどこに置き去りにしてきたのか。20代の、あるいは30代のあの日に。

もうしょっちゅう書いていることなんだけど、黒澤明に「八月の狂騒曲」という映画がある。
戦争の記憶をもつ婆が、孫と過ごす穏やかな夏の日に、ふとしたきっかけで鮮烈な瞬間を思い出す。その描写がもう見事だった。ピアノの調律がなおっていくと同時に、記憶がよみがえる。

私たちが物事を忘れるのはきっと狂わないようにするためだ。けれど本当は、世界を狂わせることで、私たちの正常を保っているだけかもしれない。
今までうまく世界と私のあいだの調律を狂わせることで生きてきた私たちが、ある年齢になって、社会とのかかわりが緩み、私だけを見つめる時間にすっとはまってしまったときに、忘れることで前に進んできたはずの記憶が鮮明によみがえる。

母の話を聞いてから、なんとなく、そんな日がこの先にあるんじゃないかと、そういう怖れを抱くようになってしまった。
それは夜の庭で鳴く鈴虫の音ほどの、遠くささやかな怖れではあるけれど。

これまでどんな風に生きてきたかなんて、50代に差し掛かったとして、もうどうすることもできない。そんな悔恨の日がある日おそってくるとしても、私は今日この日を、自分なりに誠実に生きるよりほかにない。

その狂気と正常のあいだで、どれだけ自分を保てるかなんて、その時にならないと分からない。
世界と私の調律がふいに整えられていくことをおそれず、ただそれから逃げようとせず、真水のこころで受け止めるしかないかなと思う。

私の住む島には神意を媒介する巫女がいて、神の人と言ったりするので、ここでもそう言おうと思うのだけど、この神人は当人の思いと裏腹に、その使命がある日おりてくるのだという。

そこから逃げようとすればするほど霊障が増えて、当人は辛い状況に追われてしまう。逃げずに受け入れたときは、神の示す道を学んでいかなければいけない。後者を選んだとしても、ウィズコロナならぬ、ウィズ神のような状態で、神の意思とともに生きていかなければならない、生涯修行の身となるのである。

母の言う50代女性の宿命を聞くと、このことが思い出される。世界と私の調整がふとピタッとあって、私自身がクリアに見える。このことの辛さ。今までのようにガウスがかかった世界で生きていければ楽なのに、それができずに、ならばもうこのクリアな世界を受け入れなければならない。あらがう苦しみは止むけれど、自分自身との向き合いは続いていくのかもしれない。

私はまだ50代ではないので、すこし大げさにとらえているかもしれない。
けれどノスタル爺のあの話の中にある悔恨は、再掲載されてインターネットがざわついたあの一日を思えば、誰しもの中に沈んでいる怖れなんだろうと思う。
選ばなかった未来に呪われ続ける。そののろいから逃げることはできないし、のろいとともに私たちは生きなければならない。逃げ続けることに苦しみがあるように思う。

漫画のように物理的に過去に閉じ込められることはなくても、心境としては、ノスタル爺そのものに生きている我々なのだろう。

そんなところで、似たような話として「ラ・ラ・ランド」も同じ系統だなと思い返したりした。
東京に住んでいた頃、最後に劇場で見た映画だった。華やかできらびやかな世界、そういうエンターテインメントと見ていたはずが、ラストで号泣してしまった。
あの眩さや若い情熱すべてが選ばなかった未来だった。
私が東京を選ばなかったように。それはただ、目の前のことに自分なりに誠実でいたことの連続であったとしても。

ああでも、どの道を選んでも悔恨は残ったはずだ。
この苦しみがいつか鮮明な色をもっておそってくるとしても、それがこの田舎の地であるならば、自分自身に懸命であった結果としてこうむる波だとしたら、それは苦しみのなかの幸いにちがいないのだ。

宇宙と存在の震え

ツイッターの良いところは瞬発的な思いつきを発散できることであるが、時間がすぎれば記憶の霞のむこうに消えいってしまう。
セルフまとめしたりもできるけど、それもそれでなんだか恥ずかしいしな。

というわけでブログにつらつらと書いておくことにした。
ツイッターでつぶやいたばかりの話を。

仕事中にBGM的にYoutubeを流したりするけど、ドキュメンタリーとか講義とかは、単調な仕事のおともにとても良い。

はてなブックマークでひろった認知療法の講義、実際に自分が試すかどうか別として、認知や人の記憶の仕組みなど、体系立てて知っていくのは面白い。

まだ半分くらいしか見てないので総評はできないけど、とくに印象に残ったのは、考えすぎる人はうつ病になりやすいということだった。「考えすぎる」というのを自動思考ともいうようで、たんなる好き・嫌いから、なぜあの人は、なぜ私は…と深く深く考え始めてしまうようなことで。

それが「あの人がいるから私は」「あの人がいないと私は」みたいな、自分の存在の危機におきかわっていったりする。
聞いていて自分で「!」とおもったのは、こういう考えすぎる人は読書ができなかったりするんだそうだ。

その理由は、本を読んでいるとべつの考えが浮かんで来たりするから。それに、速読するときは、ページをぱっと視覚に入る一瞬の情報で理解するらしくて、それには文字を読むときの頭のなかの音はじゃまになるのだという。

これ私じゃんってめちゃ思った。集中できればいいんだけど、集中するまでに時間がかかる。自分では50ページくらいと思ってるけど、50ページ読めれば雑念がきえて本の世界に入り込める。それまではけっこう苦痛だったりする。おもしろい本はもちろん別だけど。

それに頭のなかにずっともう一人の自分がいて、その自分と会話してる感じがある。これは大変。

講義してる先生は、この自動思考についてよい例え話をしてくれた。

シロクマの話だ。
3分だか5分だか、シロクマのことを絶対考えないでください、という。
即答で「むりでしょ」って言ってた。Youtube画面に向かって。

考えない方法はあるんだそうだ。それは別のことを考えること。楽しいこととか。
たのしい...美味しいもの食べるとか、美味しいもの...白くまアイス......

もし無事シロクマのことを考えなかったとしても、3分だか5分たって、はい、よくできました、ってなった瞬間に、頭の中はシロクマ増殖されている。

~してはならない、が逆効果であるゆえんである。

どうすればいいかというと、シロクマのことを考えてもいいけど、あまり気にせず、頭のなかにシロクマがいることを放っておくことなのだという。

考えるとストレスになるようなことがあって、それに対して「考えちゃダメ」となると、さらにストレスになってしまう。
だから、あーなんか考えてるな私、まあいいか、と。考えている自分を感じながらも、それ以上かんがえない。

こういう自分が世界にふれている接点を意識しながら、その先、それ以上思考を進めないことは、マインドフルネス的な思考なのだそうだ。

マインドフルネスが何か知らなかったので、マインドマップとか書いてセルフコントロールしてくことなのかと思ったら、ぜんぜん違って、禅とか仏教とか東洋の瞑想を取り入れたもので、自分の知覚とか五感で感じているものに集中して意識を変えていくことなんだそうだ。

この「知覚」というものについて、たしかに東洋的だと思うんだけど、哲学的な見方もどうもあるらしくて、その辺また稿をあらためて書きたいなと思っているところ。

あと、時間と記憶の話もおもしろかった。
時間は未来にむかって流れるけれど、じつはそれは人間がそう認識してるだけで、時間には前も後ろもないという説がある。
なにが時間を時間たらしめているのかというと、人の記憶なのだそうだ。
記憶がうすれ、おぼろげになっていくと、過去だと認識する。

トラウマはその逆に、時間がとまってしまったようなもので、いつまでたってもその記憶が当時のままによみがえる。過去になってないのだという。
なので治療などを受けてトラウマが軽減されると、患者はだいたい、もうだいぶ前のことだから(今は何とも思ってない)という思いに変わるのだそうだ。
その治療のあいだに、何年もの時が過ぎていったのだろうと聞くと、記憶と時間の関係の不思議さを思ってしまう。

記憶は思い出すだけ不安定化するというのもおもしろかった。
繰り返し思い出すうちに、少しずつつくりかえられてしまう。たしかに...普通に生活していてもあるなあと思う。ああ言った記憶はあるけど、言ったつもりになっているかも。誰かの言葉を自分の思ったこととすり替えて記憶してしまっているかも、とか。

人間はなんてあやふやなものなんだろう。
私は変化していくことが、おわりに向かっていくようで怖いけれど、時間が止まったままというのも怖いことなんだなと思った。
人は前に進むために過去を忘れる。時間が止まったままというのは、何もかもが鮮明であり続けることで、それにはなかなか耐えられないかもしれない。

3日ほどまえにニーチェ量子力学的時間のブログを書いてたこともあって、時間というものが深淵に感じられる。

今日はさらに多元宇宙についてのドキュメンタリーも見た。
量子力学も多元宇宙もなんど聞いても意味不明である。

多元宇宙説を支えるのはいくつかの分野の推察らしくて、多元宇宙たってどうせ観測できないんだからと思うんだけど、超弦理論によると、宇宙はすくなくとも9次元はあるらしい。

すべてのものの基本単位を、粒ではなくて、弦(振動)とするのが、超弦理論だという。
なぜかstringsがひもと訳された時期があったということなのか、超ひも理論と呼ばれることもあるけど、なんだよひも理論って。

しかしすべての物質の最小のものが物体ではなくて振動というとらえかたをして、宇宙の根本は(物体ではなく)振動なのであり、宇宙とは弦楽器が奏でる音楽の調べなのだといわれると、単純な私は感動してしまう。

この世界の根本は静止したモノではなく、つねに動き、揺れ、震わせる動きなのだ(たぶん)

この説明にちょうどいいのが、「もの派」と呼ばれた70年代ごろのアートだと思っていて、その理論のまとめ役となった李禹煥など、直島の李禹煥美術館の存在で知ってる人も多いかも。

「もの派」というネーミングが逆説的なんだけど、作品となる物質自体ではなくて、その物質をどこにどう置くかで、ものと環境の対話を試みる。ひいてはそれが、作品と観察者の対話へとつながっていく――というのが、私の「もの派」への理解なのだけれど。

物質そのものに意味があるのではなくて、外界との関係性によって、ものに意味がたち現れるのだ、とする。

おっと、これは、さっき延々のべた認知療法にも通じるものではないか。

つまり、自分の存在とは何なのかと悩むとき、人はいつも「私は」「私は」と自分の核に価値を探そうとする。
でもじつは、人に核なんてものはなくて、あるのは「揺らぎ」や「振動」なのだ。

揺らぎだの振動だのいうものは、それ一つでは成り立たない。
他の存在との共鳴や、共振によって、あるいは反響によって、形をなしていく。

音楽を聴くときに、天才がつくった音楽だとか何とか、素晴らしい理由を探そうとしてしまうけれど、そうではなくて、音楽が素晴らしいのは、そこにかかわる人々と音楽という事象でつながっているから。

だから、つながりとか、誰かにふれあっている、共鳴する、反響する、その瞬間ずつの感覚に耳をすませる。
ということが大事なのかな。とおもうと、ちょっと生きやすくなる気がする。

李禹煥について過去記事。ものと観察者の対話というのが分かるかなと思う。

認知療法は自己流でやるとよくないこともあるとブックマークのコメントにかいてあった。
講義では実際の治療法もすこし織り交ぜながら進めてくけど、そこまでしなくても、ちょい考え方を知るだけでも大きいかなあと思った。

※そういえば米津玄師さんも、灰汁の強い作品を作っていた十代からうって変わって、今は「変わり続けることを楽しむ」など、人とのつながりの中に自分の作品性を見出している気がする。自分を手放すことというか...

※そう考えるとニーチェは天才たる自分を手放せなかったのかな...仏教へ深く敬意をもっていたようなのに、寂しい話だ。

永劫回帰と時間の矢

永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しが際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!
いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?

『存在のたえられない軽さ』(ミラン・クンデラ

ニーチェの”永劫回帰”の考えを冒頭に持ってくることで、クンデラの言いたかったことは、"永劫回帰"などありえないということだった。

永劫回帰は熱力学の第二法則から言っても明確に否定されるのである。冷えたコーヒーは温まらない。熱は拡散し、時間は一方向にしか進まない。ニーチェの想像した”回帰しつづける時間”は成立しないのだ。

そのことは人生の不可逆性を想起させ、ゆえに存在はたえがたいほどに軽いものとなる。世界の前では。あるいは時間の前では。

ニーチェはなぜ”永劫回帰”というビジョンを信じたのか(信じたのか?)。その考え方は仏教の輪廻を思い起こさせるけれど、人生こそが修行で、生まれ変わるごとにステージアップしていく想定の観念というもと、ものの順番もそのままに同じ時を繰り返す”永劫回帰”とは異なるものなのらしい。

この小説を読んで、小説の冒頭とは思えない出だしに惚れ惚れしてしまったのだが意味は分からず、それから数年がたってしまった。

そんなあるときに、ほとんど啓示のように、思いつくことがあった。

「メッセージ」というSF映画がある。映画というのはたいてい子どもの頃に見たものが至高になっているものなのだけど、この映画はずいぶん大人になってから出会ったにも関わらず、マイ・ベスト映画のかなり上位にいる。

この映画には未知の地球外生命体がでてきて、言語学者である主人公は彼らにコンタクトをとる任務を与えられる。しかし彼らが敵か味方か判断できない人類は、一刻も早く彼らを排除しなければという声を大きくしていくのだった。許された時間がほとんどない中、彼女は未知の生命体と対話することができるのか――

という内容で、地球外生命体・ヘプタポッドの送ってくるメッセージには、環が印象的に使われている。環といえば禅宗でいう「円相」であり、輪廻をあらわすものである。

メッセージ (吹替版)

メッセージ (吹替版)

  • 発売日: 2017/07/21
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けれど、今からおもえばそれは、輪廻をあらわす「円相」ではないのだろうと思う。あの環こそが、ニーチェの言う「永劫回帰」なのである。

なお、以降はネタバレにふれるので、もう見たよという人か、今後も見ることはないだろうという人か、読んでもすぐ忘れるから気にしない人で読み進めてほしい。

考えてみてほしい。主人公ルイーズは、話が進むにつれてある能力を身に着けていく。それはヘプタポッドの授けた言語により、その感覚に目覚めるのであるが、その能力は、たんに未来を見れることなのではない。時間がまっすぐに前方向に進むという概念から解放された彼女は、ゆえに過去にも、未来の彼女じしんにもアクセスすることができるのである。

さらに言うなら、今日は明日と一体であり、過去もまた、未来のいつの日かと一体なのであり、すべての時間がひとつに繋がり、また無数に散らばっている。

この辺は映画を見るなりすると感覚的にわかると思う。

「ときおりヘプタポッドB(ヘプタポッド言語)が真の優位を占めるとき、わたしはひらめきを得て、過去と未来を一挙に経験する。(中略)それは、わたしの残りの人生を抱含する期間であり、あなたの全人生を包含する期間でもある。」
映画『メッセージ』哲学的SFの直系、そして一期一会。ネタバレ・詳細レビュー。 — in movies

私がここで言いたいのは、この映画に現れる印象的な「環」とは、当然時間のことを指すのであるが、しかしそれは東洋的な輪廻転生を表すものではない。むしろそれは、西洋的な価値観からの解放としての永劫回帰的な循環なのだということである。

そこには本質的な進歩も堕落もなく、「最後の審判」もなく、ただ、この地上の生が、かたちを変え、違った姿で永久にめぐり、戻ってくるだけのことである。
この発想を、ニーチェは、根本的な生の肯定の文脈の中で着想した。「神」が死んでも、人間は生き続けるのだった。永遠に流れる時間の中で。
ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎 第64回 | 集英社学芸部 - 学芸・ノンフィクション

ニーチェ永劫回帰説は、キリスト教進歩主義への批判として現れたものなのだ。

キリスト教の束縛からの解放が進んだ19世紀には、自由に思考し人間や社会の本質に迫る哲学が生まれていった。[...]フリードリヒ・ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』で永劫回帰で進歩を否定し、繰り返されていくだけだとした。
7月26日の文化:世界史に残る思想と文学#4 | まいにち世界の文化史 | WANI BOOKS NewsCrunch

「神は死んだ」と言ったニーチェは、キリスト教以前のヨーロッパの哲学、あるいは仏教など東洋の哲学などの影響があったと見受けられる。19世紀の西洋美術に次第に現れてくる傾向*1にも重なるように思う。当時絶対であったキリスト教的世界観からの脱却である。

ダーウィンが記した「種の起源」(1859年)による進化論は、本人の意思と乖離して、のちの社会ダーウィニズムの参照となった。その背景となったのは、世界は低次から高次へと進化するという進歩主義の思想ではなかったか。

ダーウィンの進化論で示されたはずの、自然界に善や悪の区別のない「あるがゆえにある」という見方は、ニーチェの「永劫回帰」の思想にも通ずるものである。彼は神の国による救済を否定し、時間はただ永久にめぐり続けるのみと言ったのだ。

映画「メッセージ」がニーチェの「永劫回帰」を引用したとまでは言えないが、時間が未来に向かって進む、という、ある種、進歩主義のベースになる世界観を壊し、それゆえにおこる虚無主義と、そこから立ち上がる生への強い肯定は、図らずもニーチェの理論に重なるものがある。

ニーチェの思想が新しさを見出され少なからず評価を得た一方で、永劫回帰説を信奉したものは、ほとんどいなかっただろう。しかし、21世紀になった今日、SF映画で「時間は一方向ではない」「時間は連続しない」「ミクロレベルで見れば過去も未来も同じである」との見方を提唱されても、笑う者はいない。

物理学においてもすでに「時間に方向性はない」とされ、時間の矢が未来に向かって一定方向に進むというのは、私たちがそう認識しているに過ぎない。とすると……アインシュタインによる一般相対性理論(1915年)より以前に、ニーチェ量子力学的な時間概念のヴィジョンを得ていたのだろうか。

それは妄想の域ではあるが、狂気にいたるほどの孤独な思索者の人生に思慕をよせて、そんな勝手な空想も個人的なものならば良いのではないかと思う次第である。


カントについてはまたちょっと書きたいことがたまってきたけど、言語化難しいよね。


関連URL
映画『メッセージ』言語SFを映像化するむずかしさ - エキサイトニュース
ダーウィン進化論に生じる誤解 | NHKテキストビュー
「現在」と「連続性」の崩壊~『時間は存在しない』概説【前篇-2】|ばる|専業読書家(人文学)|note

www.youtube.com

*1:19世紀の西洋美術には東洋趣味はもちろん、ギリシャ美術からの影響は大変大きく、ゴーギャンタヒチへ渡ったように、南半球の国々への憧れも強く表れた。このあたりの雰囲気を手軽に知るにはジョジョの奇妙な冒険の第一部を読むのが良い。

自分を知る方法とふたつの語り

本当はついったーで連投しようかと思ったけど、それもそれで何だかなという気もして、ひっそりブログに書くことにした。

村本さんのnoteは他にも良い記事がある。

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