その日は午後からの予定だったので、犬を散歩させて、ニュースアプリをチェックして、シャワー浴びる前にちょこっとベットに横になったら、いろいろ考え事している間に涙がひとつふたつとこぼれた。
まあ歳をとればこんな朝がないこともない。うるう年で0.2422日のずれを修正するみたいに、日々の心のずれをちょっと泣いて修正できるなら簡単なことだ。何なら東京を出る前の一年ほどは、毎日泣いていた。それが三日に一度になり、一か月になり。
それでかねてから考えていたように帰郷する道を選んだところ、帰ってきてまもなく天からお役目が降りてきて、今はまあまあ忙しい日々を過ごしているのだけど、清廉と生きているわりにはひとりぼっちであるな。と、時おり自分のための涙を流している。
「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」今日読んだ記事の引用されてた山月記の言葉が、不思議と胸に刺さったのもさもありなん。あるとき世の中の見え方が変わってしまった以上、いかにそのことが私を孤独に連れ去ろうとも、もとの天真爛漫とした見え方にはもどれないものだ。
小笠原登という医師の話を知った。世間の常識が間違っている時に、医学的見地から冷静に判断して、恐れず感染症の治療にあたったすごい人だ。
病名を書けば患者は、終生隔離の施設に送り込まれてしまう。あえて病名を「多発性皮膚炎」などと書き、患者を地域に暮らす中で治療することに努めた。いうなれば日本医学界の杉原千畝である。日本円の一万円札の顔は渋沢栄一ではなく、小笠原登にすべきと思った次第。
真実を見る目は、いかにして育つのか。そしてそのまなざしで人々を見れば、まっとうに自分が何をなすべきか分かる。小笠原登が生きている間には制度を変えることはできなかったけれど、彼の薫風を受けた次世代が、制度を変えていくのである。
どうすればあなたのようになれるのか?と問われ、小笠原登は「平凡」であることと述べたという。分かる思いもあるし、分からなさもある。結局私たちは、日々、目の前にあることを精一杯大切にしていくしかないのだ。
けれども、多くの人を助けるために、彼も孤軍奮闘したのではないか。自分が弱い人間のままなら、多くの人を助けることは難しい。現実を知れば知るほど、平凡とはいかに大きく、その前に立つ自分のいかに小さなことか。
もっと強くならなければという思いと、まるで神さまに耐久テストを強いられているような、苦しさと。
またこの日は、知人が映画を観に行きたいというので一緒に行って来た。アイアム・ア・コメディアンという映画だ。時間がとれるか微妙だなと思っていたのだけど、観たいといわれれば仕方ないので、時間をつくっていく。
お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワーの村本大輔が政治的発言からテレビでの出演がなくなっていき、同じころに彼はかねてより強い羨望を持っていたスタンダップ・コメディを学ぶためにNYへ留学する、その3年とか4年とかを取材したドキュメンタリーだ。
熊本震災のころのアベマTVは見ていたのでよく覚えている。この頃のそれぞれの土地の人たちと向き合うことから村本さんの芸人人生が変わっていったという。
そのあとのNY留学中の様子も、ちょこちょことインターネットで見たりしていたので、だいたい知っている内容だった。なので、なにかおさらいしている感じだった。
ただ、終盤に差し掛かってからの父親との関係性にふれていくあたりは、ちょっと新鮮だった。自分は自衛隊員の弟に戦争で戦ってほしくないと長男に言われた父親が、何を言っているのか!と怒る。自衛隊を誇りに思わんでどうする!何がしたいんだ!そんなことを言うなら政治家になれ! 口論は続いたけど、帰りのバスの中で涙目の村本さんが、後日このことを面白おかしく話したとしても、父親との距離感とか、その淋しさとか、そういうことは他者である私たちからは量ることができない。
コロナのとき、劇場が「このままではつぶれる」と悲鳴をあげて、私もいくらか寄付をしたものだけど、あのとき芸を生業にする人たちがすごく苦しかったことが改めて伝わってきた。その閉塞感の中ということもあっただろうけど、物語の終盤は少し息苦しかった。
ドキュメンタリーであっても、それが誰かしらを取材していても、じつは私たちが見ているのは被写体ではない。ドキュメンタリーを撮っている人の心象を見ているのだと思う。だからあのドキュメンタリーの中の村本さんは、多様にあるうちの一つの顔でしかない。
なので、大独演会の客席の様子を明るくなるまで映し続けたことも、ミニライブのあと、ひとりになりたいだろう村本さんが地下に降りていくところをカメラが追いかけていったことにも、ドキュメンタリー監督って意地悪だなと思った。
いちばん弱っているところを、物語のラストに持ってくる。意地悪だな。放っておけない人たちが心をつかまれるなら、まあ良い演出かもしれないけれど。
私はこのブログで定期的に村本さんのことを書いていて、初めは私のブログも炎上するんじゃないかとドキドキしたけど、そんなこともとくになかったので安心して、あとはなんかこう連続した一つのテーマみたいになっているのだけど、以前には、そんなに遠くに行けない自分の閉塞感と、きっと遠くへ行けてしまう村本さんのフットワークの軽さとか、人の心に入ってしまえる好奇心とか、自分に持ってないものをたくさん持っていることで、村本さんに対して苦しい羨望があるのだと書いたことがあった。
あれから4年は経ったか、私もずいぶん忙しくなったけれど、閉塞感が晴れたかというとそんなことはない。世界は広く、人々は多様で、私の声は小さくて、手を伸ばして届くものはとても少ない。
自分がもっと強ければ、と思う。虎になった李陵が、臆病な自尊心と尊大な羞恥心にとらわれ、人との交わりを恐れ、心のカーテンを閉じてしまったように、私もまだ世界を恐れているがゆえに、自分の存在が小さく恥ずかしく、そんな思いを押し殺して人前へゆく。
けれどドキュメンタリーの中の、大独演会の幕が閉じたあとの厳しい横顔とか、地下の暗がりで酒瓶を片手にぽつぽつ話すところとか、あのときどこまでも遠くまでいけるに違いないと思っていた村本さんが、東京のあのごちゃごちゃした街の中で、何をするにも壁だらけの街の中で、
小笠原登という医師もまた、良く知る人からは敬愛された人だった。彼に学んだ弟子たちも、彼の生きざまが強く放つ光となって導かれたのだろうと思う。けれども彼が無明が満ちるこの世界に生きるとき、どんな風に迷い、どんなふうに苦しんだのかは、私たちに知る由もない。
小笠原登は生涯独身だったという。死後は生家だった寺に無縁仏として祀られているそうだ。
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。けれども灯台のふもとは暗いというように、慈しみ世界を照らすひかりになろうとするときに、その人へ慈愛のひかりは差し向けられるのか。
けれど人生は寓話ではないから、実際にはさまざま多様に生きていくのだと思う。ただ、台風の中心はしずかな無風地帯であるというように、穏やかさがあるようであってくれないかと願う。
帰郷して間もなく光のない海へ行ったことがある。心の孤独の部分と呼応するものがあるかと期待する思いもあったが、闇のむこうの咆哮は、冷たく意思のない無からの響きに思えた。
日が昇り、島の生き物たちが目を覚まし始めると、虫の声や鳥の声があふれてくる。
「他力本願」という。私を生かしている他のいきものたちの力を感じるところに命の意味が始まる。朝夕勤行を欠かさなかったという小笠原登の心のうちにあったものに思いをはせる。苦しみは晴れないけれど、少しだけ和らぐ気もする。涙はそういうときに思い出したようにひと粒流れてくる。