日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

ノスタル爺とラ・ラ・ランド

ある種のおたくは「ドラえもんでどの映画が好き?」と一見月並みな質問で相手の戦闘力をはかるらしいので、藤子不二雄あたりの話をうっかりするのは畏れ多いんだけど、ノスタル爺は日がたつに連れ重みが増す漫画だった。今日はそういう感想を書こうとおもう。

時空に隔てられて会えない分身という設定は、新海誠作品に重ならなくもないけれど、作品のトーンは全然ちがうよね。
ノスタル爺には何か悔恨というべきか、どろどろとした感情がある。
と思って、秒速5センチメートルにも似たような重さはあったなーと考えこんだり。
まあ秒速には抱けー!と言ってくる爺さんは出てこないからな...

若いころ比較的たくさんの選択肢がある中で、選ばなかった未来がある。
あの時は自分なりに考えて、真摯に、誠実なる選択をしたつもりだったのだけど、選ばなかった時間軸への思いはうっすらとあって消えない。

泣きながら選んだ道だからとか。この先続くと思ったけれど、次の角は右にしか曲がれなかったとか、どうしようもなさを飲み込んで今がある。

帰郷してすぐ、これまでため込んできた半生の思いを母から聞かされた。たくさんの話のなかで、女性の50代は曲がり角というものがある。
母のことばをいい感じにまとめると、50代に差し掛かるとインスピレーションが強くなり、それが良いようにも悪いようにも自身に影響を与えるのだという。

50代という年齢がある意味で下り坂に差し掛かることをして予感して、取り戻せない過去に向き合う思いなのではないかと、母の話を聞いているとそう漠然と思った。
今まで、自分が頑張ればいいからと気丈に生きてきた支えをふと失って、個としての自分に向き合わされる。
本当の自分はどこに置き去りにしてきたのか。20代の、あるいは30代のあの日に。

もうしょっちゅう書いていることなんだけど、黒澤明に「八月の狂騒曲」という映画がある。
戦争の記憶をもつ婆が、孫と過ごす穏やかな夏の日に、ふとしたきっかけで鮮烈な瞬間を思い出す。その描写がもう見事だった。ピアノの調律がなおっていくと同時に、記憶がよみがえる。

私たちが物事を忘れるのはきっと狂わないようにするためだ。けれど本当は、世界を狂わせることで、私たちの正常を保っているだけかもしれない。
今までうまく世界と私のあいだの調律を狂わせることで生きてきた私たちが、ある年齢になって、社会とのかかわりが緩み、私だけを見つめる時間にすっとはまってしまったときに、忘れることで前に進んできたはずの記憶が鮮明によみがえる。

母の話を聞いてから、なんとなく、そんな日がこの先にあるんじゃないかと、そういう怖れを抱くようになってしまった。
それは夜の庭で鳴く鈴虫の音ほどの、遠くささやかな怖れではあるけれど。

これまでどんな風に生きてきたかなんて、50代に差し掛かったとして、もうどうすることもできない。そんな悔恨の日がある日おそってくるとしても、私は今日この日を、自分なりに誠実に生きるよりほかにない。

その狂気と正常のあいだで、どれだけ自分を保てるかなんて、その時にならないと分からない。
世界と私の調律がふいに整えられていくことをおそれず、ただそれから逃げようとせず、真水のこころで受け止めるしかないかなと思う。

私の住む島には神意を媒介する巫女がいて、神の人と言ったりするので、ここでもそう言おうと思うのだけど、この神人は当人の思いと裏腹に、その使命がある日おりてくるのだという。

そこから逃げようとすればするほど霊障が増えて、当人は辛い状況に追われてしまう。逃げずに受け入れたときは、神の示す道を学んでいかなければいけない。後者を選んだとしても、ウィズコロナならぬ、ウィズ神のような状態で、神の意思とともに生きていかなければならない、生涯修行の身となるのである。

母の言う50代女性の宿命を聞くと、このことが思い出される。世界と私の調整がふとピタッとあって、私自身がクリアに見える。このことの辛さ。今までのようにガウスがかかった世界で生きていければ楽なのに、それができずに、ならばもうこのクリアな世界を受け入れなければならない。あらがう苦しみは止むけれど、自分自身との向き合いは続いていくのかもしれない。

私はまだ50代ではないので、すこし大げさにとらえているかもしれない。
けれどノスタル爺のあの話の中にある悔恨は、再掲載されてインターネットがざわついたあの一日を思えば、誰しもの中に沈んでいる怖れなんだろうと思う。
選ばなかった未来に呪われ続ける。そののろいから逃げることはできないし、のろいとともに私たちは生きなければならない。逃げ続けることに苦しみがあるように思う。

漫画のように物理的に過去に閉じ込められることはなくても、心境としては、ノスタル爺そのものに生きている我々なのだろう。

そんなところで、似たような話として「ラ・ラ・ランド」も同じ系統だなと思い返したりした。
東京に住んでいた頃、最後に劇場で見た映画だった。華やかできらびやかな世界、そういうエンターテインメントと見ていたはずが、ラストで号泣してしまった。
あの眩さや若い情熱すべてが選ばなかった未来だった。
私が東京を選ばなかったように。それはただ、目の前のことに自分なりに誠実でいたことの連続であったとしても。

ああでも、どの道を選んでも悔恨は残ったはずだ。
この苦しみがいつか鮮明な色をもっておそってくるとしても、それがこの田舎の地であるならば、自分自身に懸命であった結果としてこうむる波だとしたら、それは苦しみのなかの幸いにちがいないのだ。