日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

[書評]瓜を破る

子ども時代以来ほとんど漫画と縁遠く過ごしてきたのが、このところ履読数が増えているのは、たぶん漫画を読む電子環境が整備され普及してきたから。

とくにTwitter(現X)では電子コミックのプロモーションばかりが流れ、週末の午前中など読みふけってしまうこともあり、ずいぶんと良い顧客になっている。

込み入った設定やハードなテーマの多い少年コミックはSNSと紐づくには少々分が悪いように思う。息抜きに読むには、意外な二人が恋に落ちる恋愛コメディくらいがとっつきやすく、少年ジャンプと少年ガンガンで育ったアイデンティティはどこへ行ったやら、最近は過去イチ、少女コミックを読んでいる。

しかし少女コミックというのは、並べれば1から10まで「ハイスペイケメンになぜか好かれてしまう平凡な私」ものである。ヒロインが愛想のないマイペース女子なので、割合さっぱり読めるのだが、相手方のステータスの高さは捨てられない設定なのだなと思う。

女性向けコンテンツほどポリコレ批判から不思議と安全地帯にあるものもないなと思うことがある。別に表現物すべてがポリコレに従う必要はないのだけど、歌劇「サロメ」とそれに感化された19世紀絵画が、ミソジニーの典型であるわねと思う程度には、女性向けコンテンツにも昭和の時代から変わることのないコンサバティズムを感じるものである。

そこを踏まえて表題作は、確かに異色である。恋愛の相手がおおよそハイスペック貴人である他の少女コミックと比較して鑑みれば、見紛うことなき弱者男子である。しかしながら描かれることは、やはりコンサバティブの範疇にあることは否めない。

1話には、主人公の香坂さんの「30代になっても処女のまま、恋愛音沙汰なしで、このままでは結婚もできそうもない」という呪詛にとらわれ苦しむ姿が描かれるが、物語を通して呪詛から解放されていくかというと、そういうこともない。

むしろ呪詛たる「既存の価値観」の中で救われていく物語であり、既存の価値観の呪詛の強化にもなりかねない。いや確かに香坂さんは「体が目的ではないから」と思いとどまり、まず先に相手のことを知ろうと努める。この描写がまた丁寧に描かれているのも印象的で、半ば無理を言って鍵谷さんの部屋に上がった時の、その人となりがそのまま伝わる一人部屋に言葉を失くす場面では、相手の生きてきた時間への「知らなさ」に気づかされる彼女の心理が描かれる。

友人の理乃にも釘を刺されるとおり「焦らず、大切にしてくれる人とやったほうがいいよ」と、それなりに「大切なのは、お互いに大切にしあうこと」というような教訓はあるのだけれど。

さらに言えば、鍵谷さんサイドから考えると、出会いに関して努力があったかというと、むしろ恋愛に向かう展開に引いている経緯がある。この物語は「既存の価値観」の中で救われていく物語ではあるのだけど、読み手に自己変革を示したり、新しい価値観を提示するものではなく、慰撫され癒されていく物語であろう。

そこを差し引きながら読んでも、時代をとらえる鋭敏な感性と丁寧な心理描写に引き込む力がある。正直1話を読んで、2話を読もうと思う人は少ないのではないかと心配するが、鍵谷さんなるキャラクターが出てくるあたりから急に面白味が増してくる。

というか、この物語は、とある企業の広報部で働く香坂さんとその周辺の人たちの多様な人生模様を描いているのだが、登場人物各々の「恋と仕事、それぞれの物語」を飛ばし読みしてしまうくらい香坂さんと鍵谷さんの展開が良い。

ひとつには「既存の価値観で救われていく」癒しの物語であるということもあろうし、今一つは、鍵谷さんというキャラクターの中にあるそこはかとない氷河期世代感に、私じしん共鳴しているのかもしれない。

大人しく冷静な反面、社会に擦れることを避けて育った鍵谷さんは、26歳の時に夢を諦め、それ以外に生きていく道を見つける器用さもなく、半ば余生を生きるように契約社員として都内近郊で細々と暮らしている。

その生きづらさは「個人の問題だろう」と言われそうだけど、何か、レールを外れてしまったときの生きて行けなさとか、それを当人が自覚している、そういう生き方の人を何人も見てきた。

厳密に言えば、氷河期世代よりは、その後のリーマンショック期に社会人になりたての世代かもしれない。ブラック企業に入り、逃げるように辞めるか、病んで辞めるか、会社がつぶれるか。その不遇を、努力が足りなかった、または自分の生まれつき何かが足りなかったと諦めて、「既存の価値観」の中で幸福を得ていくことを、遠い幻想として向こうに押しやる。

非モテ論争というのはインターネットの由緒あるお題で、非モテが救われるためには煩悩から解脱すればいいのだ論と、おれたちは今の価値観で救われたいんだよ論があるのだなと昔思ったことがある。

ネットの人たちは「煩悩から解脱せよ」という趣旨の主張に「リベラルの非モテ論」と言って批判していたけれど、救われたさがあるうちはまだ良いのではないか。煩悩から解脱したほうが、楽だなと思う域というのもあるのだ。

ただ、あの時代が誰かと出会って恋愛をして、結婚をするという時期だった頃、既存の価値観の中で、もっと救われる人がいたらよかったと思う。

私も思えば、無職の人をときに叱咤し励ましながら、ぶじ就職して社会に戻っていく人に付き合ったことがある。ブラック企業を辞めようとして違約金のようなものを請求され、裁判をして和解したあと、しばらく立ち直れず、長らく無職となっていたのだった。

悪いのは会社だったかもしれないけれど、立ち直るのには個人の力が必要なのだった。そしてそこに友人や恋人や、誰か支える人がいることは幸いなことなのだ。

そういう時代だったなと思う。今の若い人がどうか、分からないけど。あの頃を振り返って重ねて見れば、香坂さんの振る舞いや価値観に多少コンサバティブなきらいはあっても、鍵谷さんが救われていく過程は、どこかしら「私たちの物語」でもあるのだ。

知らなかったけど、来年からドラマ化されるらしい。ちょっとマイナーな感覚の漫画だなあと思っていたので、ドラマ化とな。どんなふうになるのか見たいような見たくないような。

最近好まれるお仕事ドラマは、ちょっと大変でもキラキラしているものだけど、鍵谷さんみたいな冴えないお仕事ドラマも見てみたいよね。週末の過ごし方とか、初デートでひとりで良く行くお店につれていったら、あ、一人で行く店ってそこ?みたいなのとか、良いよね。

コミックのほうも物語は進行中だけど、一見幸せそうな二人に見えながら、不穏な陰りもあって、割と当初から丁寧に差し込まれて描かれる香坂さんと鍵谷さんの社会的格差も、今後ひとつのハードルとして立ち現れてくると思われる。

単語にすればきついテーマを持った物語だけど、ストレスフルな展開は少なく、孤独や生きづらさを柔らかくほぐしていくように描かれるので、何度も読んでしまうのかもしれない。

週末に三回読みなおして、急に昔あったあれこれ思い出して、最後にちょっと泣いた。あのとき出会ったみんなが、いま幸せだといいな。