日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

雨の日の森美術館

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雨降る土曜日に、六本木ヒルズへ行ってきました。

ジブリ展も始まったことだし、前に見に行ったとき時間の足りなかった六本木クロッシング展の後半も、ちょっと見ておくかな。森美術館ではちょうど、アーティスト・トークなるものも行われていて…って、ちょうどなんていうのは嘘で、この日に合わせて行ってきたんですけど。

トーク・イベントの時間に六本木ヒルズについたら、ジブリ展で30分待ちっていうから、森美術館だけ見る人優先受付で入らせてもらって、ジブリは結局行かなかった。

この日、来場されていたのは(前に私が長々と感想を書いた)「花の名前」のミヤギフトシさんで、キュレーターの荒木夏実さんとのトークが半ば過ぎたところから話を聞いて、映像作品を改めて見て、ミヤギさんご本人とちょこっとだけお話させてもらったのでした。

こういうの苦手で、声が小さくて届かないんじゃないかとか、急に日本語組み立てる能力が欠けてしまったらどうしようとか考えてしまうんですけど、なんとかお話しまして、ミヤギさんの作品ってタイのアピチャッポン監督に似てると思うんですけど…っていう話をしたら、影響ってわけじゃないけど影響受けてるかも、みたいな、ふんわりしたことを言うので、影響っていうほどじゃないけど影響あるってことなのかな、と思いつつ、その場で言葉にできなくて、なんだかふわふわした会話になってしまった…w はあ。

ミヤギさんにとってのアピチャッポン監督って、どういう風に見えているんだろう、もっと聞きたかったな。と思っていたら、光りの墓の上映のときに、トークイベントとかけっこうやってたんですね。自分のブックマークの中から、ホンマタカシさんとの対談まで出てきて、あれっ、後で読むつもりでブックマークしたのかな。

最近ジャズについて調べたりしてたので、それになぞらえて言うと(絵画も同じですが)、西洋には美術や音楽の理論があって、ジャズや20世紀の絵画は、その理論を解体することであったと思うのです。アピチャッポン監督の映画は、いっけん分からなさすぎるんですけど、欧米的な物語の作り方から逸脱していることは確かだと思う。

映画を見るほどに思うことですが、ハリウッド映画って、すごく論理的にできてるんですよね。登場人物は何かのメタファーであって、その象徴とするものの担う業を背負っている。バットマンvsスーパーマンは、メタファーであることに忠実すぎて失敗している例だと思うんですが。

アピチャッポン監督はそういった欧米の論理的な作りではなく、多様なイメージが多様に現れるように描いていて、でも実は芯の部分に独自なイメージの構造があって、だからよく分からなくても、「なんかすごいものを見た」という気持ちになる。

そんなことから、去年あった森美術館でのベトナムの美術作家ディン・Q・レ展を思い出したりして。ベトナムの人たちの心に深く刻まれたヘリコプターへのトラウマを、ただそのように描くのではなくて、自作で農業用ヘリの開発に挑戦する男性を通して、未来へと進もうとする力と、それに触発されて反発を表す人と、両方の心の動きをとらえる。

すごく政治的なことに触れているのだけど、毒を交えて辛辣に問うのではなくて、ひとつのイメージを多面的にとらえようとしている。加害者と被害者の構図を超えて、その向こう側へ目を向けた時に出会う、また別の風景。そういう可能性をさぐるような問いかけがある。

ディン・Q・レとアピチャッポン監督を知って、アジアの美術作家って面白いんだなあと思っていたところにミヤギさんの作品を知ったので、なんかとても嬉しかったのです。

もう一つ印象的だったのが、トークで「同性婚を認めようという動きも活発になってますが」と話題をふられて、いいことだと思いますが…と言葉を濁しながらも「表面的なことだけ変えても、根本が変わらなければ」と答えたミヤギさんに、聞き手の荒木さんが、そうですよね、と。

女性嫌悪の感覚が、私たちの社会に根深く残っている。LGBTの問題を解決しようというのが、一種のファッション性になっていて、問題の根本であるフェミニズム女性嫌悪の問題はそのまま残されてしまう。荒木さんの熱っぽくお話されていたのは、女性としての視点よりも、美術の世界にたずさわる者の視点からではないかと感じました。

今日のアート作品がどうというより、巷にあふれる表現…映画やコミックや文芸作品の中にある女性嫌悪ホモソーシャルの価値観。

女性嫌悪は、女性の中にこそ深く沈殿しているんじゃないかなと思うのです。というのも、私じしんがそうだったから。私たちの社会は男性視点の価値観が強くて、それはもちろんエンタメの世界にもあって、その価値観を内面化してしまっている自分がいるのではないか。

そういう自分に気づくのはとても難しい。頭では分かっていても、自分の気づかない局面では、弱い誰かを女々しいと決めつけて、虐げる側に立ってしまうかもしれない(あるいは過剰に褒めそやす、とか)。自分の感覚を、外側から見れるきっかけがたくさんあればいいのだけど。

ハードボイルド、ブロマンス、萌コンテンツ、どれも私はわりと好きなんですが…そういったコンテンツがダメとかではなくて、ただそこにある「男性だけの視点」には気づいていたいというか。その逆の視点のもの、たとえば女性によって描かれた女性の物語にも接することが、男性視点の価値観からの呪縛をとく、方法のひとつではないかと思ったりします。

そういえば、那覇市でも同性パートナーシップ制度がはじまるんだそうです。

前回も参考にした小田光雄さんのブックレビュー。女性嫌悪と、絵画・言論など表現の歴史。
ダイクストラ『倒錯の偶像』は絶版なのか、中古で高い。最近、気になってる分野です。

そんなこんなで、美術館を出るともう夕方。帰りに日比谷線秋葉原にでて、ヨドバシカメラで前から買おうと思ってた一眼レフを買いました。

本当はCanonのミラーレス機を買おうと思ってたのだけど、周辺機器はゆくゆく揃えていきたいって話をすると、お店のお姉さんが、レンズの種類が多いのは一眼レフのほうだっていうから、安いボディにレンズを種類つけて…レンズ欲のほうを満たしてしまった。

さっそく帰って、いろんなボタンを押したりして、なぜだかシャッター半押しでピントが合わないんですけど、親指のあたるボタンでピント合わせする機能も試して、結局、距離リングのほうが微調整きいて扱いやすかったりして、どうせ花とか街並みしかとらないし、まあいいか。

コンパクトデジタルカメラでごまかしごまかし撮ってたボケとかがきれいにでて、やっぱりちゃんとしたカメラは良いですね。