日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

他力本願と世界の調和

仕事を辞めるとき会社の先輩に「地元に帰ったら何かしたいこととかあるの」と聞かれ、「ストイックに生活したい」って答えて、「田舎なのにストイックって笑」と言われたことがあるのだけれど、毎朝早起きして基礎体力づくりしたり、夜になったら正装して執筆してたマキャベリみたいに机に向かってコツコツと何かしら生み出すこともしてみたいと思っていた。まあちっとも出来てないのだけど。

仕事ではある程度自分のタスクをPDCAできる私もプライベートはてんでダメで、朝も弱いし、さて出かけるかと思うともう午後になってて、今日が終わろうとしている、余計な体力など使わないでいいのではないかと思い、タスクを明日に回してしまい、その罪悪感からスケジュールに向き合えず...と悪循環に陥るなどしており、そういうダメさから「ストイックな生活」に惹かれるものがあるのだろうと思う。

サラ・コナーがいつか来る終末に立ち向かうため、刑務所で体力づくりをしているシーンがあるが、ああいうおばさんになりたさを抱えている。それと同時に、自己を完全にコントロールしたい欲求にも危うさを感じている。理性で心身を制御下におき、実践的にはトレーニングで身体を改良し、より進歩していくのだという理想と欲求が、漠然と心の奥底にある。その矛盾や脆さのようなものを思う。

この危うさをうまく説明できない。いつだか三島由紀夫とボディビルをあつかった美術作品を見たことがあるのだけど、何も彼が特殊だったのでもなく、時代背景としても高度成長期にあった日本は、牛乳を毎日飲む、ジョギングをするなどして、進歩していくことがより良いとして啓蒙された時代でもあったのだ。

強くあることに憧れる心理を時代とその表出のあちこちに見出すことができる。これも美術館で出会ったもので、YMOのCDジャケットが、改めて眺めると戦前イタリアなどでおこった未来派のデザインそのものだったのには驚きがあった。坂本龍一など今ではリベラル言論人の先頭にいる印象だが、若いころは尖っていたのだなあ。より強く、より合理的に、より進歩的にと前進するイメージは、やはり当時の右肩上がりに経済成長した日本の価値観でもあったのではないだろうかと想像する。

あるいは岡本太郎の爆発する芸術の中にも、核に対する畏れや告発を表しながらも、根幹のところには原子力に対する憧憬を感じずにはいられない。こういう心身をコントロールしながら、より強く、より前進していく欲求は、現在の維新やれいわといった比較的新しい政党が支持される原動力にもなっているように思う。

そのような強さや前進する精神性に惹かれながらも、ブレーキを踏んでしまうのは、そこに一抹の違和感を覚えるからだ。近代民主主義において個々人の判断には理性が優勢になるようでなければならず、そのために万人に平等な教育の機会が与えられることが必須である。その理解のほど、私も文明社会において理性が大事であると認識している。しかし真にすべての人々が高い理性をもって行動し判断できるかというと、そうではない現実があって、そして必ずしもものごとの正解というのも、理性的な中から出てくるものでもない。

物事すべてが理性的であり、改善改良され、進歩していくという考え方には、なにか独善的なものを感じる。すべての人が理性的にふるまえるほど、世界はそこまで人々に機会均等に教育や文化資本やなにやらを分配してはいないし、改善改良され進歩していくものの裏側には、搾取があり、切り捨てられるものがあり、多様性を削いでいくものがあるように感じる。

だからいつも自己をコントロールしより良いものをめざす欲求に向き合うと、一方でブレーキを踏んでしまうのだ。この違和感をどう解消していけばいいのか。田舎に帰ってきて、少しだけ分かるような気がしている。

初めて東京に出たとき、あまりに風景が灰色で、これから本当にこの街で生きていくのだろうかと心配になった。それまで生活していた京都でには、季節ごとに色を変える木々の風景があった。空気の匂いも季節ごとに変わる。繊細に移り変わっていく時とそれを知らせる風景。その風景に立ちながら、自分の心との調律をとってみる。賀茂川のせせらぎ、うっすらオレンジを引く夕暮れと山際の青い影、しんと冷えて引き締まる空気。

心の在りかは土地の風景が教えてくれた。風景と心の対話が心地よかった。自我は消え、世界と調和する透明な自己がある。私の心身は水鏡になって、夕焼けの薄紅色の空や、青葉を渡る風が震わす空が映る。何千年も重なってきた時の重みもまた身体にのしかかってくる。遠い人々の声もさざめいて聞こえてくるような気さえする。

東京の生活をへて、生まれ故郷の離島に帰って来たとき、もう少しダイレクトに「他力本願(自分ではないものの力に生かされていること)」を知ることになった。小さな畑をもらって私も露地栽培でもやってみようかと思って耕して、やっと出た芽がことごとくカタツムリに食べられてしまったあのとき。

母は都会生活になれた私を笑って、農業というのは自然が相手だからね、という。当時、自分でつくった酵母菌からパンを作るのにはまっていた母は、パン作りの日は朝起きて、その日の気温や湿度を見てどんな具合で種を作るのか決めるのだと、楽しそうに話すのだった。その自然との対話が、たまらなく幸福なのだと言う。

結局、農業もパン作りも手掛けずのままの私だけど、自己をコントロールするだけがすべてではないという感覚は学んだと思う。世の中にはたくさんの他の力があって、その中で私は生きている。天候の力、土の力、鳥や虫たちの力。それらを制御するのではなく(そういう農業もある)、生きとし生けるもののまま、その力の網の目をよい感じに保たせて、その中に立つ自分を調律する。

それから、田舎ではどうしても人の力を借りないとやっていけないという究極の不便さがあって、しかしその不便さを受け入れるときに、生きるということの種をぽんと体の中に置かれたような気がしたものだった。たとえば車のバッテリーがあがって動かなくなったときに、助けてくれる人が現れて、バッテリーを繋いで回復させるということがあったり。人にお願いするというのはほんとうに面倒で、今でも苦手なのだけど、そのことを欠いたまま生きてきたことそのものが、危うさだったというような気づきがあった。

他者と有機的につながっていくということ。さまざまな要素を活かしていくと、自分自身の制御はそう遠くまではおよばなくなり、思っていることのだいたい腹八分で、あとはまあいいかと気にしないような緩やかさ。物事と物事のあいだのすき間のあるつながりが、変化や偶発的なできごとへの柔軟な対処に繋がったりもする。

今でも大きな物事を動かすときには、一人のひとが隅々までものごとを制御するというような強さが必要だと思っている。でもそのこと一辺倒というのには危うさがあって、上手く使い分けていくのが良いのだろうなと思う。