日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

俳句は楽しいけど難しいという話

いつものようについったでダラっと連ツイしてもいいのだけど、多少こころの余裕もあるので、ひさしぶりブログにでもつらつら書いておくかと思った。しばらく書いてないと広告でてしまうし。

元増田のこの句に向き合ってあれこれ考えた時間も、良いなと思う。

仕事のあいまにちょい一息いれて買ったお茶のパッケージに書かれた句を読んで、微妙な気持ちになることも、わりとある瞬間。

夕立が強いときでも象を洗わなければいけないという雇われの身の立場の弱さ、はたまた夕立が凄いので象を洗ったことにして今日の仕事はやめにしたという飼育員という仕事の適当さの表現なのか。
「夕立や象を洗いてまたたく間」
https://anond.hatelabo.jp/20210918185654

こういう視点も、独特なように思う。労働のあいまに読むと、労働者の視点になってしまうのか。俳句ひとつとって個々別の風景があるのが良いと思う。

私は「象」というのは、心象風景として現れたイメージなのかと思った。
「象」が「ゾウ」ならもう少し、サバンナなのかな?とか視覚的想像も広がるけど、漢字の「象」だと抽象的な感じがする。
自分をおしつぶしそうな世間の価値観みたいな大きなものが、ざっと降った夕方の雨に、姿を変えて新鮮にたちそびえる。
社会的な価値観との折り合いを見つけたというような文脈でこの句を読んだのだけど、それもまた、私の心の風景でしかなかった。

正解は、おーいお茶のサイトにあるように、また国語警察の増田が言うように、動物園でみたゾウさんの話だった。

仕事の一息に買ったお茶のパッケージについてきた俳句をしばらく眺めたあと思ったことを軽くディスりながら匿名日記に書きこんだら一流のまさかりに一撃くらった日常の何気なさを、五七五にできる力が私にあれば良かった。

非日常はいつでも日常ととなり合わせにある。
国語警察にぶった切られるのも、日常生きててそうあることではない。
人生のクロスロード。この非日常の先に、少し豊かな人生があるといいな。と思う。

元増田の引き合いに出している種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」は私も好きで(種田山頭火じたいがとても良い)、この句から物語を汲むことは難しいけれど、ただ青々とした色彩だけがあり、もう少し独自に想像力を働かせるなら、山は緑なのであって、青と表現するのは日本の伝統的な色彩の感覚に依っている。

彩度のもっとも高いものはシロ(顕)であり、もっとも低いものはアヲ(漠)である、と考えていくと、くだんの句には、青々とした山の翳りに分け入っていく様子が感じられる。明るい真昼のことではなく、そろそろ夕暮れも近づこうかという午後の、日はもう山の向こうに隠れ、山陰となった側のうっそうとした草木を分け入る。分け入るという行為の終わらなさは、翳りの青に陶酔するようでもある。

西洋絵画に貫かれている論理性とことなって、日本の絵画には、感覚だけが響き合う情景のものがある。種田山頭火がロジカルではないということではないのだけれど、こういう感覚的な心地よさに耳をそばだてるような作品が、日本では好まれるという印象も個人的にはもっている。

象と夕立の幻視に閉じ込められていた詠み手が再び現世に返り、我々読者もその爽やかな読後感を共有できる…そんな終わり方です。幻は一瞬であり、一瞬であるがゆえに永遠。この句はそんなことまで感じさせてくれます。
いろいろ間違っています
https://anond.hatelabo.jp/20210919002338

創作において「日常」と「非日常」の交差は頻繁に描かれ、一瞬の永遠性もまたありふれたテーマである。

というところにおいて、増田のこの評論の箇所はたいしたことは言っていないのだけれど、それでもこの「日常」「非日常」の交差、そこに生まれる永遠たる一瞬を、空間と時間意識をもって、おそらく瞬時にとらえただろうその心の動きを、この文章をもとになぞると、正直のところ心打たれる思いになる。

だいぶ前に見た俳句なのだけど、皮をむくときに、光をあびて回転するりんご、という感じの描写の句があって、解説で、病院にお見舞いに来た時にりんごの皮をむいたときの場面で、りんごは地球に見立てて、くるくるまわすと球体には朝と夜が交互にくる。運命の軽やかさと重さのようなものが、この場面に濃縮されているようで、記憶に残っている句だ。

俳句の良し悪しってずいぶん難しくて、もちろん質の良い句というものもあると思う。重層的で、省略の美がうまく作用して、音のリズムにも妙があるというような。でも実際的には、その句から自分がどういう風景を読み取るかが大きいのではないかなと思う。つまり、名人が書けばよい句、素人のものは悪い句というものではなくて、素人の句や評の中にもそれぞれにユニークさがあって、それこそが近代俳句や近代短歌の良さなんじゃないかなと思ったりする。

この辺、明治の頃にどっと入ってきた西洋絵画の影響があるんじゃないかと思っていて、西洋の美術や文学や制度などを学ぶ中で当時の知識人たちは、個の確立というものを吸収していったというような思いがある。吸収したというより、個人主義に親和性を感じる人たちが、そこによりどころを見出したのかもしれない。

自由律俳句などは、句の中に美しさとか整いというより、人間くささを見出すところがある。

そんな諸々の歴史を継いで、近代俳句というもの、大衆が雑多にそれぞれ眺めた風景に、読み手もまた乗り移って眺めるような愉しさがある。

それでは俳句に良し悪しなど無用ということにならないか。と言われそうだけど、そうとも言えない。私も俳句や短歌が好きで、いざ書いてみようとするけれど、あんなふうに美しく、あるいはユーモラスに、リズムをうって、あるいは余韻をもたせて省略する文章というのは、なかなか書けるものではない。

それなので、ついったーとかブログとかに取り留めなく書き連ねるのがせいぜいのこと。いつかあんな抒情性をもった風景の切りとりができるようになるといいのにな、と思う。