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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

映画の感想 - 「カルテル・ランド」「ボーダライン」

カルテル・ランド

米国とメキシコ、両国で麻薬組織に対抗すべく立ち上がった自警団を取材する。今年見たドキュメンタリー映画はどれも面白いけれど、この映画は超一級に面白い。

監督はカメラをもって米国とメキシコと両方の自警団と行動をともにしているが、とくにメキシコ側の事情はすさまじい。両側を取材しているところから、自警団の是非を問う構想があったのだろうと思うのだけど、取材をすすめるうちに、予想を超えた状況に巻き込まれていく。

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© 2015 A&E Television Networks, LLC

麻薬カルテルテンプル騎士団」が実質支配をするメキシコ中部ミチョアカン州。徴税に応じなければ家族、親戚ごと見せしめに惨殺するなど、住民はカルテルの暴虐のもとに暮らしていた。彼らに対抗するために立ち上がった人々が、銃を片手に自警団を結成する。

自警団の活動先にやってきた軍隊が、違法行為だから武装解除するようにと言ってくる。命令に応じざるをえない自警団のメンバーを見て、住民たちが軍隊に向かって帰れコールをあげはじめ…軍や警察が守ってくれない状況では、家族を守るのは自分たちでしかないのだ。

しかし、自警団が彼らの町からカルテルを追い出し、勢力を広げていくにつれ、リーダーの医師ホセ・ミレレスはヒーローとして注目を浴び、同時に命を狙われる危険にもさらされる。また、自警団の組織が大きくなると、彼らの中に地域の住人に乱暴をはたらく者も現れてくる。そんな中、政府から「政府の監視下に入れば、活動を合法化する」という話が出てきて――

地域の自警活動という小さな違法行為を、大きな合法組織が飲み込んだはすだったが…冒頭のシーンがラストで繰り返されたとき、その意味するところが分かって、思わず声が出そうになる。どこまでが善でどこまでが悪なのか、最後には完全に分からなくなってしまう。ノンフィクションということに驚かされるラストだった。

ボーダライン

すっかり見そびれたところを、新文芸坐で上映してくれたので、遅まきながら見てきました。
悪く言えばロマンスも遊びもない、超ハードボイルド。それだけに主人公ケイトと、彼女が対立するコンサルタント、アレハンドロとのささやかな情が、哀愁となって淡い印象を残します。

FBIの誘拐即応班のリーダーとして活躍していたケイトは、ソノラ・カルテル追跡の専任チームにスカウトされる。彼女の担当した残忍な未解決事件とも関わりがあり、ケイトは志願という形を承諾してチームへの参加を受けるのだった。

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© 2015 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved.

しかし作戦が始まってみれば、不審な点がいくつも出てくる。リーダーのグレイヴァーは作戦の全容を説明しようとしない。エル・パソに行く話のはずが、向かった先はFBIが活動できるはずのないメキシコ、シウダー・フアレス。民間人のいる場所での発砲など、法を逸脱した捜査。

捜査に同行するアレハンドロという男も、内情に精通したコンサルタントという話だが、背景が見えず信用がおけない。不信感がつのる中、彼女を捜査の囮に使っていることまで判明し――捜査を拒否しても良かったが、事態を見届けたい思いから、ケイトは継続を決心するのだった。

法の及ばない地域、そこで悪と戦うためには、自分もまた悪にならざるをえない。そこにあるものが、もうすでに正義でなくなっていたとしても。ケイトも自分の信念を貫こうとする。悪を問うために自ら悪になっては、正しさはなにも残らない。法のもとで捜査を行うべきだ、と。

大きな悪の前の小さな悪は必要である、という結論になりがちだけど、アレハンドロの視点から見ると、必ずしもその答えだけが真実ともいえない。ケイトへ向ける眼差しが、冷たさだけでないことは、物語の中でぽつぽつ描かれる。

汚れるしか生き残る術のなかった彼の目から見れば、彼女の信念は一種の清涼感にも映っただろう。最後のシーンのあの対峙は、彼女がこちら側になるかどうかの境界線であり、それが彼女にはできないことも、アレハンドロには分かっていた。しかし、それこそが希望であり、彼女のような正しさもこの世界に必要なことを、誰より知っているのも、また彼であったはずである。

まとめ:ヴィジランティズム(自警主義)と法のもとの正義

どちらもアメリカを市場にメキシコから流入する麻薬カルテルを描いていますが、海外ドラマ「ブレイキング・バッド」でもこのあたりを扱ってて、主人公の義弟ハンクが、エル・パソに異動になってトラウマ抱えてしまったり…米国のエンタメ作品において、メキシコ国境の存在感が大きく感じられる今日このごろです。

自警主義については、私が毎回見ているニコ生の映画を解説するチャンネルでですね、詳しく話していて面白かったのですが、もともとアメリカ合衆国の建国じたいが市民が武器を手にとって(英国という)国家に立ち向かったことに始まるのだから、米国人は今でも自警主義を根本に持っているという話でした。

カルテル・ランド」はまさに、そこに問いかけた作品でもありました。映画「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」も、スーパーヒーローたちに「政府の監視下に入れ」と言われるところから物語が始まるなど、ほとんど同じことをテーマにしてるんだなあと面白かったです。

またその視点で見ると、"自警主義は、ずっと彼のキャラクターの一部だった*1"とされるバットマンの事情も大変おもしろく、ジョーカーを殺せないことに示される信念も、思えば彼の自警団的活動が、違法行為であることに基づいているのかもしれません。

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」では、非合法的正義バットマンと、合法的正義スーパーマンの対立を描いていましたが、「ボーダーライン」のテーマそのものですよね。

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Courtesy of Warner Bros. Pictures/ TM & © DC Comics ©2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC., RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC AND RATPAC ENTERTAINMENT, LLC

"正義を分配するにはやり方があり、それは正しくなされるべき*2"と考えるゆえにスーパーマンは、市民の怖れから法廷に呼び出されて、のこのこ出かけて行ってしまうわけです。しかし法への絶対信頼というのも、ひとつアメリカ合衆国市民のアイデンティティではないかと思います。

映画「ブリッジ・オブ・スパイ」では「(もとは移民だった)僕らをアメリカ人たらしめているものはなんだと思う。僕らが同意しているおなじひとつの規則、アメリカ合衆国憲法があるからだ」というセリフがあります。自警主義と同様、法に対する信頼もまた、彼らの根本を支えるものではないか。

案外、ハリウッド映画というものは、この二律背反のアイデンティティ「自警主義」と「法への信頼」のテーマをぐるぐると描きつづけているのかもしれないと思った昨今でありました。


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