六本木クロッシング2016展:「花の名前」ミヤギフトシ ほか @ 森美術館
いくつかの展示のうち「花の名前」は良かった作品のひとつだったのだけれど、家に帰って感想にまとめようとすると、どうやら壮大に解釈がちがってた様子。
花の名前を軸に展開される物語、その中心にいる精霊クロリスについて掘り下げて、数日間すっかりその世界に浸ってしまったので、この映像作品について文字数を割いて書いてみようかと。
精霊クロリスの話に始まり、"僕"と"彼"の親交を通じて綴られるプルーストとアーンの交流、そして米軍基地内のドラッククイーンが歌う「A Chloris(クロリスに)」…米軍基地のある沖縄と同性愛と、ふたつの事情にまつわるイメージが、花の名前を通じて交差する。
はじめ私は、"僕"が、成長するにつれて文芸作品の中に同性愛の断片を見つけてゆき、文学や音楽の世界に共感を響かせてゆく、という物語だと思っていたのでした。
ローマ神話の精霊クロリスは、西の風の神ゼピュルスによって強引に奪われ、地位を引き上げられて女神フローラとなる。ボッティチェリのプリマヴェーラにも描かれるクロリスの物語。絵の中で怯えた顔を見せる彼女は、しかし後には「今ではなんの不満もない」と話します。
クロリスのフローラへの転身は、ギリシアのローマ化という文化的な変化を表しているのだそうです。ミヤギさんはこの物語に、沖縄の今ある姿を重ね見たのでした。
クロリスの物語は作者に、ある小説*1のくだりを思い出させます。米兵にレイプされ悔し涙を流した少年が、のちに綺麗な服を着て彼の愛人となっている。その間にある、他者からの暴力を受け入れる過程は詳しくは描かれない。…クロリスの心情は、本当はどうだったのだろう。
場面は変わって、"僕"が"彼"と交流を深め、東京で再会する物語。2人の間で語られるのはモーツアルトの詩劇「アポロとヒュアキントゥス」そしてプルーストとレイナルド・アーンの親交。
モーツアルトの詩劇においてヒュアキントゥスとアポローンの物語は、ヒュアキントスの妹とアポローンが結婚することにより、同性愛という解釈をまぬがれます。同性愛がタブーであった時代、その愛のかたちは隠されてしまったのでした。
「A Chloris」は、17世紀の詩にメロディをつけたレイナルド・アーンの美しい楽曲。アーンはプルーストと一時友人以上の関係であったとされ、プルーストの「失われた時を求めて」には二人のやりとりが、スワンとオデットのやりとりに替えて描かれます。
プルーストはまた、クロリスとフローラの物語を小説に取り入れています。クロリスが導く、ヨーロッパ文学史の中の同性愛のありかた。しかし、その関係をプルーストとアーンの関係に重ね置きながら、”僕”は”彼”と並んで歩くことができない。
クロリスをめぐる物語、沖縄と同性愛という異なるふたつのイメージは、最後の章で米軍基地のドラッグクィーンがリップシンクで歌う「A Chloris」へとつながっていきます。
「A Chloris」を沖縄の誰かに歌ってもらいたいと思いながら、最終的に米軍基地のドラッグクィーンを選んだのは、彼もまたセクシャルマイノリティの立場だったから。文化的な同質化を求められる側にいる点で、彼女(彼)もまたクロリスである。
私たちは誰しも、文化の同化を求める側にも、その逆にもなりうる。私はゼピュルスであるし、クロリスでもある。
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「A Chloris」をとても気に入って、しばらく家でも聴いてたのだけど、美しい愛の歌とばかり思っていた楽曲が、クロリスの物語をへてみると、ゼピュルスの叶うことのない切ない愛の歌ようにも聴こえくるのでした。
私はそこにゼピュルスの消えない怖れを見ます。力づくで彼女を奪ったこと、その潜在的な罪の意識により、彼にはクロリスをほんとうには手に入れることができない。
浅田彰さんの文章に、ミヤギフトシさんとタイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンを比べて書いているものがあって、ちょうど私も2人はどことなく似てるなあと思っていたので、面白く読みました。
私が思うのは、どちらも個人的なことがらを描いているということです。政治的な視座はたしかにありながら、あくまで私的な世界を起点にしている。だから親密さのある繊細な物語になる。
もうひとつ書いておきたいのは、ミヤギさんの経緯…離島に育ち、米軍統治下時代も遠くなった世代であることへの、個人的な共感が私のなかにあるということです。基地のある沖縄本島よりも、基地を意識する機会はずっと少ない。けれども内地で生活することで、沖縄という歴史を背負った自身に、否が応でも対面させられる。
ミヤギさんのプロジェクト「American Boyfriend」は、"沖縄で沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちること"と語られます。この"もしも"の物語に私が感じるのは、近くて遠いアメリカという国を見ようとしたとき目に前に立ち上がってくる、複雑な光と影です。
米国と沖縄、あるいはヘテロセクシズムとセクシャルマイノリティ。こちらと向こうを隔てる境界線が消え去るとき、それは性のありかた、人々の接点のありかたいずれからも(庇護という名の支配という)政治性が消えることなのかもしれません。
モーツアルトの詩劇のテーマになったのは、ヒュアキントスをめぐるゼピュルスとアポローンの三角関係の物語。これは沖縄、米国、日本の関係に重ねている面もあるそうです。男どうしの恋愛関係とは、政治的に緊密な関係性とも見ることができるかなと思いました。
ここから見えるもうひとつの側面は、この詩劇は同性愛の解釈を避けるため、ヒュアキントスの妹という新たな登場人物を設定しながら、当時演劇に女性演者はタブーだったため、男性の演者が妹役を演じたのだそうで、結局そこでは同性愛的な関係性を再現している。
そうした性役割のねじれのようなものは、日本でも歌舞伎などでありますが、西洋という強固な場所に現れるとちょっと面白い。男が女を演じるといったような演劇のなかのトランスジェンダーは、クロリスを米軍基地のドラッククイーンが歌ったり、ジョニ・ミッチェルの曲を沖縄の男性が歌ったりする、作品の中での展開へもつながっていきます。
六本木クロッシング2016展
3000字も近くなったところで、展示の中で気に入った作品を、なるべく短めにまとめますよ!
キセイノセイキ展で印象深かった藤井光さんの作品が出ていました。1940年代に米国が制作した日本の教育制度を紹介するビデオと、ソウルで韓国の学生たちと行われたワークショップを交互に見せる構成。制作側の意図通りにならない、ワークショップならではの? 緊張感があります。
西欧を模倣すること、決められた型を覚えるように漢字の書き順を覚えたり、整列して歩いたりすること。教育制度の中にある「演じること」が、ワークショップで学生たちが見せられた映像を「演じること」に重ねられる。
演じることでおこる受容のありかたは、決して一様ではなく、ワークショップの学生たちの表情もさまざま。けれど最後、解放された人々を演じるときにおこる彼らの素直な感情には、はっと心を打たれる。あの一瞬への解釈はいろいろできると思うけれど、つらい演技もいくらかあった中で、暗示をとく暗示のような気がしたのでした。
民衆が自主的に暮らしを守り、作ってゆくこと。1970年代に発刊された旗をモチーフにした本のコンセプトに触発されて、庶民が掲げる旗をテーマにつくられた映像作品。
思い入れのある布から旗をつくっていく女性たちを左のスクリーンに、作者がいたるところで旗を振る姿を右スクリーンに映して。もっと丁寧に見ればよかったけれど、私は旗を振る佐々さんに釘づけでした。
日常に現れた非日常的な姿は飄々としてユーモラス。商店街や公園で旗を振っていると、通行人たちはだいたいスルーするんだけど、たまにおじいちゃんとかが話しかけてくる。
旗を振ることに重大な意味はなくても、大きな工場を向かいに旗を振ると、とたんに社会活動家みたいになったりして。場面で旗の意味が変わってしまう感じとか、面白かったです。
自分のふたりの祖母に、相手のことをどう思っているかインタビューするという作品。
叙述トリック的なつくりになってて面白いんですけど、まさにネタバレの瞬間から見てしまって、ああーってなってしまった。
人間の感覚ってけっこうアバウトなものなんだなあと、映像ならではの面白さがありました。
3つのスクリーンに映し出される映像は、少しずつ異なって、別次元を並べて見ているよう。パチパチいってる無機質な音も良かったし、洗練された映像も良いのだけど、いかんせんこの辺から閉館のアナウンスが流れだし、そわそわしてコンセプトまではよく分からなかった。
気になった作品だけに残念です。
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美術館で見る映像作品って、ストーリー性のあるもの時間が長いものに関しては、入れ替え制とか、上映時間の告知、今何パーセント再生中の表示とか、なにか工夫できないものでしょうか。
この日は、ほとんどの作品を1.5回見てしまい、時間が足りず、最後の方はつまみつまみ見た感じになってしまいました。
森美術館の3年に1度の日本のアートシーンを総覧する定点観測的な展覧会とのことで、バーチャルコミュニケーションな現代における歴史や身体、性、風景についての新たなイメージというコンセプトですが、展示作品は個々それぞれな感じでした。そんな中で自分の好きな作品に出会う感じでいくと良いのかもしれません。
2016年3月26日(土)-7月10日(日)
会場: 森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
料金: 一般 1,800円
開館時間: 10:00-22:00(火曜は17:00まで)
※会期中無休
*花の写真はイメージ画像で本文とは関係ありません。
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帝国主義において占領地はホモソーシャルな価値観においての女性と同様である。また、ホモソーシャルな価値観を内面化した社会は、セクシャルマイノリティをも抑圧してきた。文化が自らの主体性を求めるときに、男根主義的な価値観が強まることがある。(外からの抑圧に抵抗する社会が、彼らの内側の別のマイノリティを抑圧する方向に進むことがある)
ヘテロセクシズムがセクシャルマイノリティにせまる同化とは、異性愛かどうかよりも、男らしくあれ、または女らしくあれということが大きいのかもしれないと思いました。
http://bitecho.me/2016/03/19_856.html
American Boyfriend | Futoshi Miyagi
*1:豊川善次「サーチライト」(1956年)