日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

モダン・ウーマン―フィンランド美術を彩った女性芸術家たち @国立西洋美術館

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7月、東京美術館めぐりの旅行。幕開けは西洋美術館のモダンウーマン展から。
朝早めに出て、上野公園のスターバックスで前日見た映画の感想をちょいまとめ。時間があえば足をちょっと伸ばして、上島珈琲店でもよかったんだけど、効率を考えるとここかな。

開場少し前に西洋美術館へ行くと(田舎の人からすると)すでに長い列! 企画展の松方コレクションが人気のようでした。

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モダンウーマン展は常設展の一部で展示。フィンランドで活躍した女性美術家たちを紹介するものです。ロシアの自治公国だったフィンランドは、ロシアからの自立をめざして、文化面でも独自性を必要としました。女性にも教育の機会をひらくことは、その一環であったのだそう。

無償で美術教育を受けることができたヘレン・シャルフベックは、いちはやくフィンランドを代表する女性画家となりました。晩年に向かうにつれ、彼女の表現は、線や色彩をきりつめるものへと変化し、古典的な絵画からモダンな手法へと道を切り拓きました。

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とくにそのシャルフベックの作品を、素描を含めて見ることができるのが、今回の醍醐味。

横浜美術館での大規模展示では、彼女がひとりの女性として、悩みながら生きた人生にふれることができました。そのため、彼女に銘打たれた「モダン」の評価に、摩擦のようなものを感じてしまう面もありました。

シャルフベック自身も「モダンを意識したことはないけど、つねに前に進もうと(新しいことをしようと)している(のだから、その結果モダンになっているかもしれない)というようなことを答えていて、彼女の「モダン」という評価への姿勢が窺い知れるような気がします。

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シャルフベックと同世代を生きたマリア・ヴィーク。彼女の作品も、シャルフベックについで多めに展示されています。

とくに2人の素描を比べると、違いが見えて面白い。シャルフベックは線も太く、大まかにとらえて描くのに比べて、マリア・ヴィークは質感を完成させる程度には描き込む。そのため、単純に2人を見比べると、マリア・ヴィークのほうが上手いと思わされます。

もちろんシャルフベックの簡易で的確な線と色彩こそ、彼女のデザイン性のあるセンスにつながるので、どちらが優劣というものでもないけれど。

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そのほか印象につよく残ったのは、エレン・ステレフ。初期には彩度の低い色使いで、北欧の冷えた空気を描いているのだけど、カンディンスキーとの出会いで変化したという色彩は、音楽を奏でるような明るさをはらむ。紫を基調としてピンクと青に変化していく階調が美しく、筆は踊るように跳ね、色の喜びにあふれています。

個人的に好きだった作品。夕暮れ、空は赤みをおびてほの明るいけれど、山の峰は青の影に沈み始めています。斜陽をうけた草原や木々が金色に輝く。その時間、わたしたちは色彩と、夕暮れのひとときの静けさとを、一体にした空気を感じている。

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そのほか、常設展も観れてお得です。

美術になんの知識もないときに訪れたことのある西洋美術館。中世の宗教画からバロック時代の重い色調をくぐって、モネなど印象派の明るい色彩と理知的な構図にぬけたときの衝撃は忘れられない経験です。

けれど、ある程度、知識がついてきてから再訪しても、それはそれでまた違った面白さがあるなあと思いました。

バルトロメオ・マンフレーディ「キリスト捕縛」は、カラヴァッジォの同名の作品とほぼ同じ構図の作品です。これを描いた作者は、カラヴァッジォの追随者であり、彼の作風をひろく伝えた画家でもあったそうです。

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カラヴァッジォ「キリストの捕縛」は、1991年にダブリンの教会で発見されました。修復を依頼されたアイルランド国立美術館の担当者がカラヴァッジォのものではないかと気がついたのがきっかけ。しかし実際にカラヴァッジォが描いたかどうか、証明するには様々な証拠を集める必要があったといいます。

このいきさつをBS朝日BBCの番組を放送するプログラムで観たのですが、こういう美術系のドキュメンタリーはほんとうに面白いので、もっとたくさん放送されるようになるといいのに。

カラヴァッジォは卓越した技術や冷徹な観察眼、バロック時代を切り開いた光の効果など、天才と呼ぶにふさわしい画家でしたが、弟子を持たなかったこと、短命であったことに加え、あまりの素行の悪さに、長らく歴史的な評価から外されてきました。しかし西洋美術史をひもとくと、むしろ歴史が彼の存在を証明するほど、大きな影響を残していることに気づかされます。

「キリスト捕縛」は、ヨーロッパ世界がカラヴァッジォの不在のままに(私淑の弟子の模写などを通じて)彼の影響を強く受けていったことを思わせて、とても興味深い一枚でした。

その向かいにはエル・グレコの作品、その影響にあった作品などが並んでいます。当時の価値観からすると、相当に異様であったはずのエル・グレコですが、その影響が歴史的に継がれてきた部分もあったのかなあと、マイナーな感性に共感するところなど、不思議な感動がありました。

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モダンウーマン展をはさんで、後半展示は印象派前後の作品へと移ります。ロマン主義から自然主義へ。クールベの描いた裸婦の肖像がありました。

当時、ヨーロッパの価値観では裸婦像は聖なるものの文脈でしか描けなかったはずですが、それを聖性をなんらまとわない、ひとりの女性(おそらく娼婦)として描いたことは、おそらく当時相当に反発を引き出したのではないでしょうか。

それをやってのけるクールベの不遜さが、世紀を超えたはるか東洋の地でも、ひしひしと伝わってくる一枚でした。

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今回ぜひ観たいと選んだ展示会に、モダンウーマン展が外せなかったことで、「女性という表現の担い手」「女性という感性」が、今わたしの中で必要としていた視点なのかなと感じました。

彼女たち誰ひとり、女性であることをことさらに取り立ててるわけではないけれど。自然体のなかから生まれてくる「女性らしさ」は男性性と相対していない、ただ隣にいる人を愛おしく見つめる視線だったり、自分の内面深くを見つめる静かな時間だったり、私的で、ささやかで、物静かな作品たち。

わたし自身、男の子の遊びに憧れが強い子どもだったので、ある程度の年齢になってから、女性としてどのように自分に向き合えばいいか、長らく戸惑ってきた部分があります。

女性であることの意味、あるいは社会的な評価は、歳を重ねるごとに変化していきます。どの年齢においても、自分が女性であること、そのことに無関心でいられない。そのことは、あるいは一生続いていくものなのかもしれない。

その価値観の揺らぎ、ある種の自我の危機感に日々ふれながら、女性として、自分が今どうあるのか、そのことをどうとらえて受け入れていくのか、その価値観を、北欧の女性作家たちにかいま見ようとしたのかもしれないなと、帰宅してしばらく、そんな風に考えたりもしました。

話題になっていた展示も他にもっとあったけれど、モダンウーマン展は観に行けてよかった展示です。

参考URL

www.nmwa.go.jp
collection.nmwa.go.jp
archives.bs-asahi.co.jp
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