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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

[雑文]浮気性の女は純粋実践理性を思考するか

考察

浮気性の女が浮気をやめるとき。:犬山紙子のイラストエッセイ

常に数人の男性との関係を維持している浮気性の女性は、いっけん自由に生きているように見えるが、18世紀ドイツの哲学者カントによれば不自由である。なぜなら彼女は「欲にまみれた男の目で見られ」たいという欲求に束縛されているからだ。

カントにとって自由とは、自己を律することであった。たんに欲望に従うことは動物にもできる。欲望にとらわれず理性で行動を決めることは、人間に与えられた特権なのだ。
しかし、わたしたちが欲求から真に自由になることは可能なのだろうか。

「なんで浮気すんの?」
「じゃあなんで浮気しないの?」
「え、だって、軽い女だって思われたくないもん」

このような会話がされたとき、友人の浮気を批判している女性の動機もまた、周囲や恋人に「軽い女と思われたくない」という欲求に基づいている。
「周囲によく見られたい」「罪の意識を背負いたくない」「彼氏を悲しませたくない」などの理由は、どれだけの賛同を集められるかに違いはあるにせよ、「私がそうしたいからそうする」という域を出ていない。はたしてこの女性に浮気性の友人を批判することができるだろうか。

浮気性の女性が考える「正しい行為」は、最大多数個人の最大幸福にもとづいている。
「バレなければ」という条件がつくが、「自分も楽しいし浮気相手も楽しい」。たとえ恋人が真実を知って悲しみに暮れても、残る5人の浮気相手と彼女は幸福なのだから、幸福の総量は、恋人の悲しみを差し引いてもあまりあるかもしれない。

最大幸福にもとづいて考えた上で、これに反対票を投じる人もいるだろう。
浮気性の女性の行動を容認することは、他の人の浮気をも認めることになる。浮気が当たり前の社会でカップルが互いを信頼しあうことができるだろうか。婚姻を結び家庭をもつことに積極的になれるだろうか。
つまり長期的に見ると、結婚制度は破綻し社会規範を維持できなくなり、幸福の総量は減るのだから、浮気をするのは良くない。

この考え方は結果主義的なものだ。
もし浮気を認め合った結果、出生率の上昇などの好影響があったなら、浮気することはむしろ善いことになるだろうか。
1990年代から少子化対策に力を入れたフランスは、以降出生率を緩やかな上昇で保っている。政府の育児支援の他に、結婚してないカップルでも税制・社会保障面で結婚と同等の権利が得られるなど、多様な家族形態を受け入れる社会土壌が、その一因だと言われている。*1

フランスの少子化対策

意志の力で自分を律することが真の自由であるとカントは考えた。その意志は欲求をよりどころとしてはならない。いったいカントのいう意志とはどこからくるのだろうか。

アメリカの哲学者ジョン・ロールズは、「正しさ」を知るために「無知のヴェール」という思考実験を考えた。
ひとりひとりがヴェールで目隠しをする。そのときあなたも私も自分が何者であるか、どういう家柄に生まれ、どういう性格や容姿の持ち主か、などの情報は忘れ去られる。その状態で選択されることが「正しい」ことである。

あなたは浮気を楽しむ美人な女性かもしれないし、一途なためにいつも浮気をされてしまう男性かもしれない。もし後者であったら、浮気が容認される社会では割をくうだろう。
浮気をしてもよいという格律を、他の人にもあてはめ、自分もつねにそれに従えるか。そうでないとすれば、「浮気をしてもよい」は、たんに個人的な利益であって、普遍的な正しさではない。

普遍化できる格律に従うとき、はじめて私たちは個人的欲求の束縛からのがれられる。それがカントの考えた自由であった。
さらにカントは「理性ある存在」であることは、手段ではなく、それ自体が究極的な目的であるとした。人格の中には理性が存在し、それゆえの価値がある。人格そのものが尊厳に値するのだ。

浮気をしている女性は、浮気相手を「欲求を満たす手段」として扱っている。また彼女自身も浮気相手にとっての「手段」に成り下がっている。そのとき彼女と5人の浮気相手は、互いの人格を「物」に貶め、人間性の尊厳を失わせているのだ。
彼女の恋人に対してはどうだろう。浮気をしているという事実を隠し、関係を続けていくことは、彼を理性ある人格として扱い、尊重しているといえるだろうか。

たとえ幸福になる個人の数が多くても、社会的によい結果を導いたとしても、人類みずから「理性」への尊厳を失ってはいけない。カントならそう考えたかもしれない。
 
というのが読後の感想です。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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*1:家族形態が多様な社会が、イコール浮気を容認している社会であるわけではないが、「婚姻制度にこだわらないほうが出生率に与する」という事例としてみれば、浮気の容認により結婚制度が破綻することで、社会規範が維持できず「幸福の総量が減る」事態にはならない、という推測の支えにはなるかもしれない。