日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

新春 朝生炎上によせて

年末年始の休暇中にいちばん見たニュースは、ウーマンラッシュアワーの村本さんの炎上にまつわるものでした。

わたしは普段テレビを見ないのですが、あまりにも炎上する芸人がいたので、自然と目につきました。もともと町山智浩さんのBSの番組を定期的にみていたので、興味をもったのはそこがきっかけです。年末に放送されたThe MANZAI のネタはとりたてて面白いとは思わなかったのですが、どうしてこんなに情報を追いかけてしまうのかと不思議に思いました。

過去のネタや記事などたくさん見て、これまでゲスい芸人として華やかに活躍してきたこと、相方はもっとゲスいこと、同期の芸人たちから嫌われていること、昭和の漫才ブームをならった早口スタイルであることなどを知りました。(他の芸人もたくさん見ましたが、あらためていろいろ見ると中川家が好きだなと思いました)

南海キャンディーズの山里さんがラジオで「(ウーマンのネタは)面白いかどうかではなく、番組で話させたら面白そうだなと思わせる、もっと先を見越している」と言っていて、わたしが感じていることも、この言葉に近いかなと思います。

わたしはもともと美術館に行くのが好きなのですが、その作品が美しいとか、うまく描けているかよりも、自分の価値観をゆさぶられる、新しい発見がある作品のほうに刺激を受けます。そういう瞬間が好きで美術館に行っているんだろうなとよく思っていました。

村本さんは今この時すごい面白いとか、正しいとかではないですが、でも、どこに向かうのか、どこまで行けるのかが未知数で、そういうところに興味が惹かれているのかもと思っています。それに、「価値観を揺さぶられる」「自分の知らない新しいものに出会える」ことを楽しんでいる感じが村本さんにもあって、そういうところも、この先この人がどこまで行くのか見てみたいという気持ちにさせられるのだと思います。

年始に放送された朝まで生テレビを見て、安全保障について、わたしなりに考えました。
沖縄には「武器を捨てて楽器を持とう」というスローガンを大切にする人も少なくありません。沖縄に生まれ育ったひとりとして、わたしもこのスタンスを心情的に理解します。

太平洋戦争をへて、日本の軍隊が守るのは日本国であり沖縄の住民ではないと、沖縄の戦争経験者たちは身をもって経験しました。それは今現在につづく基地の問題を見ても分かりますし、ネットでわたしたちにむけて「中国のスパイ」とののしる人たちからも学ばされます。

また、わたしは「平和のためにすべての武器を捨てる」という非武装主義をも尊重します。一個人のとりうるスタンスとして、わたしも可能ならそういう選択をとりたいと思っています。ただし、番組で井上達夫さんがおっしゃっていたように、それは個人の信条として評価するという話で、現実的に今の国際情勢でそのポリシーに皆が従うことは難しいでしょう。

いつか小林よしのりさんが「(武器を持たずに殺される平和主義者も)思想に殉教しているのと同じ」と言っていましたが、これはその通りだと思います。「武器を捨てることが平和への道」という主張のために命を張ることは一種の殉教です。わたしは非武装主義を否定しませんが、しかし、それは他人におしつけられるものではないと思っています。

さいきん見た映画「メッセージ」でちょうど、非ゼロ和ゲームという言葉がでてきました。わたしたちが目指す国際社会は、互いが利益を奪い合うゼロサムの発想ではなく、互いに与え合うことでより発展して行く非ゼロサムの発想に変えていくのが理想なんだろうと思います。

けれどもそのステージはまだ遠すぎる、というと問題を先送りしていることになるでしょうか。しかし、非暴力主義は急進派の誘発しやすさをはらんでいるというのも、わたしが感じていることでもあります。

抑止力のための軍拡競争には歯止めが必要ですし、そう言えなければ北朝鮮の核開発を批判できないでしょう。核放棄が国際社会とともに同調しながら進めていかなければならないように、武力の放棄もまた国際社会と協力しあいしながら進めるべきものだと思います。

心情として非武装主義は理解しますが、日本人がじぶんたちの防衛力をもつ権利を、わたしは尊重したいと思います。わたし自身は中国脅威論を信じていませんが、潜在的敵国が攻めてこないにしろ、主権国家として自主防衛の機能をもつことは、ごく自然なことだと思っています。

ただし自主防衛に限るという条件付きで、国家の三権分立が機能していること、日本が米国と対等に交渉できる立場であることなどの前提はあり、すでに集団的自衛権を容認している現在の政権下での改憲には賛成しないと思います。

朝まで生テレビを見て、この二三日、そういうことを考えていました。

番組で井上達夫さんが、村本さんに対して「きみには愚民観がある」と言っていたことが印象に残りました。あのくだりを今日、出かけ先で考えていたのですが、あの言葉は村本さんに「愚民」と言ったのではなく、村本さんの中に「愚民観」があると言ったのだと思います。

愚民観というのは、大衆は知識が浅く、決断する能力がないとする見方のことです。大衆を見下しているというのではなく、大衆は知識が浅く決断できないものと自ら決めつけるのも、一種の愚民観であるかもしれません。

国民投票EU離脱が決まった英国ですが、その判断が彼らを厳しい結果に導いたとしても、その決断は必要だったのでしょう。たとえ間違いを選んでも、自分たちで決めるということの大切さがそこにはあります。どんな結果でも、その責任をみずから引き受けねばならないからです。

知識の浅い大衆を偉い人たちが教え導いてほしいというのは、逆にいうと、判断に間違いがあったときの責任を大衆がとらないということにもつながります。わたしたちには、民衆が自分で政治判断をするという歴史的な体験が少ないように思います。

井上さんのいう、決断する機会をあたえれば国民自身おのずと考えるという意見には、賛同できるものがあります。たとえ間違った結果をみちびいても、国民が自分自身で考えて答えを出す。この繰り返しでしか、民主主義は育たないのでしょう。

一方でわたしは、村本さんの中に「愚民観」があるとは思っていません。熊本や沖縄のそこに住む人たちとお酒を飲みながら遅くまで話したり、居酒屋で隣になったおじさんやタクシーの運転手、たまたま出会った人に選挙や9条の話を聞いたり。村本さんは大衆に判断する力がないと考えているわけではないと思います。博識者に導いてくれというのではなくて、もっと対話をしようと呼びかけているのではないですか。

博識な人から物事を教わることもあるし、破綻のない論理をのべる博識者が、明日の食べるもので精一杯の人たちから学ばされることもある。トランプが大統領になったときに、ポリコレの棍棒で殴られるのを怖れて支持を表明できなかった労働者階級の思いもトランプが勝ったために顧みられたというブックマークコメントに星をつけて、IDをツイートでさらされた経験のあるわたしですが、大衆と知識人の対話が欠けていたのではないかという思いは、あの時わたしが感じたことでもあります。

アメリカやヨーロッパのコメディアンは宮廷道化師を起源にしているといいます。またタロットカードに宮廷道化師が描かれる「愚者」のカードは、トリックスターとも強く関連づけられ、この役割は、世界の秩序をやぶり、世界をひっかき回すものとされています。

しかし愚者に引っかき回されて世界は流動し、あらたな展開を生み出す力にもなるのです。大衆と知識人の対話による意識の対流がおこったとき、世界は少しだけ変わるかもしれません。

そんな愚者としての役回りを村本さんに期待している面がわたしにはあります。けれども芸人である前にひとりの人間でもあるので、どうぞご自愛されながら、たくさんの人に出会い、対話をして、芸人あるいは人としての器をもっともっと広げていただきたいと思っています。


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