日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

映画の感想 - 八月の狂詩曲/夕凪の街 桜の国

今週のお題は「映画の夏」、ということで。新文芸坐の8月はお約束の戦争映画特集、題して「8.15終戦の日特別企画 反戦反核映画祭」を開催中です。

庵野秀明監督も100回以上見た「激動の昭和史 沖縄決戦」、去年見そびれた「軍旗はためく下に」など見に行こうと思っているのですが、その前に、原爆を題材にした静かなドラマを二本立てでやってましたので、行ってきた次第。

八月の狂詩曲」は言わずと知れた日本映画の巨匠、黒澤明監督の晩年の作品ですが、基本不評でして、しかしその印象的な映像や根底に流れる詩情など、子どもの頃見て以来、忘れがたい作品でした。当時は何が良かったのかな、という思いもあって見てきました。

八月の狂詩曲(ラプソディー)

調律の狂ったオルガンを弾くシーンから、この映画は始まります。

夏休みに祖母の家に集った孫たちと、久々に孫に囲まれて喜ぶ祖母と、はじめは心の距離がありますが、日々を過ごすうちに、都会の孫たちも祖母を理解するようになっていく。

祖母の話は、駆け落ちした兄の話、河童に助けられた弟の話など、幼い孫たちには怖い話ばかり。祖母が「怖い話はなんもしとらん」と言うのは、それが人生そのものだから。生きていくことの内側にある、なにか理解し得ない深い闇のようなもの。それらが向こう側から触れてくる。

縦男と従妹のたみが探し当てた、駆け落ちした恋人たちの辿り着いた二本の木は、朝陽をあびてとても美しかった。落雷を受けて、腐食することのない、哀れでしかし毅然とした二本の木。

末の孫の信次郎は、祖母の弟に似ているという。原爆の光を見た日から、"ピカ"の眼を描きつづけた弟の繊細さは、信次郎の繊細さにもつながります。初めは祖母への無理解を、隠すことなく見せていた信次郎こそが、原爆で被害を受けた人たちへの共感をもっとも強く表しもします。

縦男がオルガンで弾く、シューベルトの「野ばら」は、ラストシーンで印象的に流れます。
なぜ「野ばら」なのか。『わらべはみたり 野なかの薔薇』の歌詞どおりの場面があります。祖父の命日、原爆投下の日に念仏堂に集まった人々の中で、信次郎は蟻の列の先に、美しく咲く赤い薔薇の花を見るのです。

オルガンの狂った調律は、物語の進行とともに、正しい音階を取り戻していきます。そうして赤いバラは美しく咲き、ラストの豪雨のシーンにつながっていく。この物語は話が進むにつれ、「その瞬間」に向けて、時を巻き戻していきます。やがて、鮮明によみがえる記憶。

あの日、祖母が愛する人を失った日。それは恐ろしい瞬間でありながら、しかし彼女がもっとも美しく幸福だった時期に、燃え上がる感情の瞬間でもあった。風にあおられ傘が逆さに咲くとき、野ばらの楽曲によって、祖母の傘は、末孫が見た赤い薔薇に重ねられます。

二人の孫が見つけた二本の木とおなじく、末の孫が見た赤いバラは、さまざまな感情とともに生きてきた老女の生そのものです。不条理にとらえられながらも色鮮やかな人生の像なのです。

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作中では「ボケ」ということを、正しい調律を取り戻していくことで表現しています。正気の狭間にのぞかせる、眩い夏の記憶。果たして私たちの、この世を生きる感覚は正確なのだろうか。記憶や認識をぼやかしながらこそ、私たちはこの世界を生きていけるのではないか。

原爆のあったことを忘れていこうとする日本人、祖父が原爆で亡くなったと知って長崎を訪れる日系人の孫との間にある種の和解、といった表向きのテーマで、その魅力が分かりづらくなってしまっているようにも思いますが、時間がたてば、森羅万象とともに花開いていく、ひとりの老女の鮮やかな記憶、その不穏さと美しさばかりが印象に残るのでした。

夕凪の街 桜の国

お涙頂戴は苦手なんだよな、と思いつつも、けっきょく涙、涙で見たのですが、終盤に今度は周囲のおじさんたちの鼻をすする音とか聞こえてきた。名画座のお客さんって暇があれば映画館にきているような達人? たちかと思いきや、こういう展開やっぱり泣いちゃうよねえ。

予告で見た「父と暮らせば」とテーマが重なるところあるかな。広島で被爆した女性が、果たして自分がこの先も生きていていいのかと戸惑う。それは、あの地獄を自分だけ生き延びてしまったことへの罪の意識や、さらには体に残された被爆という傷。

「夕凪の街」の主人公、皆実は、その心境を「誰かにいなくなってしまえと思われた」と表現します。実際は単なる政治の結果であったとしても、個人が受ける傷は、日常の感情に置きかえて消化される。彼女が言う「13年たって(被爆症で)命を奪うことができたこと、喜んでる?」という言葉は、理論的に破綻してるんだけど、でも感情ってそういうものかなと思う。

この作品の大きな特徴は、女性の視点から物語が紡がれていくことだと思います。被爆という傷を抱えた女性が「私は幸せになってはいけない」と思い込む。子どもを産む性としての、ある喪失(あるいは怖れ)とともに生きる。

被爆をおのれの罪に感じるのは、性暴力を受けた子どもが、その傷を内面化して、自傷的な感情とともに生きる姿に似ています。「桜の国」では構図が逆転して、被爆二世の恋人との交際を反対する両親に悩む東子に、傷を受け止める側としての女性を描いているのも、秀逸だなと思う。

恋人との関係の修復を、彼の姉とのやり取りの中に描くのも、面白いなあと思いました。「夕凪の街」からも女性の心情が感じられましたが、「桜の国」では、二人の女性が、広島への小旅行を通して、被爆という傷に向き合っていく姿を、女どうしの友情の中に描いている。

いわゆる百合っぽさを感じながら、考えすぎかなと思っていたけど、七波(田中麗奈)と東子(中越典子)がホテルで一緒にお風呂に入るシーンで、ある確信がありましたよ。

世の中にはブロマンスという呼称があって、同性愛ではないけれど、男どうしの絆を描くものがあります。ブラザー・ロマンスでブロマンスなわけなので、「桜の国」はシスター・ロマンスとも言える物語だと思うのです。

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漫画が原作とのことで、そっちも読んでみたいと思いました。広島の街や原爆スラムを再現したセットや、方言で語られる演技が良かったりして、映画としての良さもあるとは思うのですが、根底にある女性の物語感は、原作のもつ性格なんじゃないかなあ、という気がしています。