日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

自分を知る方法とふたつの語り

本当はついったーで連投しようかと思ったけど、それもそれで何だかなという気もして、ひっそりブログに書くことにした。

村本さんのnoteは他にも良い記事がある。

まえに書いたブログ。炎上芸人の人について書いたので飛び火が怖くてだいぶ丁寧な文章で書いてる。

ブックマークコメントでも書いたとおり、村本さんがまえに炎上したきっかけの朝生では、法学者の井上達夫さんにこっぴどく叱られ「君には愚民観があるね」とまで言われていたけれど、その「愚民観」について当時いろいろ読んで、とくに井上達夫さんの書かれた記事など、たいへん感服した覚えがある。

番組内でそう饒舌に語ったわけではないけれど、井上さんの、たとえば徴兵制にたいする考え方などを読むと、今回村本さんがnoteで書かれていることにつながってくる。

完全につながるわけじゃない。無知に開き直って識者が導くべきと言った村本さんに、井上さんは「愚民観がある」と指摘したのだった。そこは何だか変わっていないような気がするけれど、ほんらい民主主義とは一人ひとりが社会に参加して、判断し、その責任を負うことで、そのためには一人ひとりが世の中への高い意識をもたなければいけない。

人だれしも生まれながら賢いわけではないから、失敗して、間違って、その中から成長していくしかない。

村本さんを知ったのは町山智浩さんのBSの番組だったけれど、知っていく中で抱いた感情は、たぶん嫉妬に近いんじゃないかと今では思う。

私は失敗するのがものすごく怖くて、石橋をちょっと叩いて、もうわたるのをやめるような人生だった。でも村本さんは失敗をおそれず、向こう見ずで行動して、ものすごいバッシングされたりするけれど、本人はしっかり成長している。そしてたくさんの人との縁をつないでいる。

馬鹿に見られたくなくて、賢くふるまって、知識で武装するけど、人生の経験はけっきょく薄いような自分として、ああこの人はおなじ10年を過ごしたとして、私の半径50mから向こう側にいけないような人生を置き去りにして、世界を100周くらいするんだろう。

でも私は嫉妬をメタ的にみることができるので、これは羨望なのだととらえなおしている。

むかしニコニコ超会議のニコニコ学会のブースで見つけた生物工学の本を読んで、とても面白かったのだけど、その本からたくさん受けた発想の中にこういうものがある。

生物の空間把握のシミュレーションとしておこなわれるテストの中では、トライアンドエラーを繰り返して、外界と自己のデータを収集していく。

現在はスマホの地図アプリをひらけば自分が今どこにいるか示してくれるけれど、その客観的な空間把握は歴史的にもずっと最近のもので、原始的な空間把握とは、すべて主観のものだった。そしてある生物が自分がどこにいるのか、のみならず、どんな形をしているのか、結局、動き回って壁にぶつかったりして、ようやく自己認識ができてくるのだ。

ちょうどそのころはブロガーなどというものが流行っていて「何者かになりたい」みたいな言葉なんかもゆるく流行ってる時期だったので、重ねて考えたりしたのだった。

「自分は何者なのか」「今どこにいるのか、これからどこへ行けばいいのか」といったふんわりした疑問の答えも、私の中では、そういうことだと思っている。つまり、自分が何者か知るためには、外界にぶつかっていかなければいけない。

いろいろなものにぶつかり、自分の形を知る。そして世界を知る。右にいくか、左か、選択する方角でぶつかるものも異なってくるかもしれない。どこへぶつかってみるかで、見える自分の形も違ってくる。そして「どこにぶつかったのか」というそれこそが、自分が何者かを形づくる要素となるのだ。

村本さんは芸人になり、政治的な発言で炎上し、スタンドアップコメディに挑戦した。その経緯から得られる自分のかたちは彼だけのものだ。

私は相変わらず怖がりで、人に背中をおされないと踏み出せないことの方が多いけれど、でも半径50mでも動きまわることを大切にしたいと思う。少しずつ私を囲む世界の壁へむかってボールをなげて、はじめは小さく、身近なところで、少しずつ遠くへ投げられるようになるといいなと思う。そして、同じように、外側の世界の壁へボールをなげることを試している友人たちを、尊重し、彼や彼女たちを応援し、その姿に学びたいと思う。

もう一つ書きたいことがある。村本さんはメディアでは炎上してばかりだけど、noteなど文章ではとてもいいことを書いていて、物書きになればいいのにってコメントがあった。たしかに村本さんの文章はとても丁寧で、言葉によって顔の見えないだれかが傷つくことがないような配慮が注意深くされている。

語り手となるときにふたつのスタンスがあると思っていて、ひとつは寓話的に語ること。もうひとつはドキュメンタリー的に語ることだ。

寓話としての語りは、ステレオタイプにおとしこんで誇張して語ること。そしてそこには答えがある。ドキュメンタリーな語りは、個々人の事情を解剖して語ること、語りはむしろ答えを解体してしまって、何が正しいのかなど、空中でバラバラに砕けてしまう。

フィクションに向いているのは寓話的な語りだ。ステレオタイプに依存しない物語は成立しない。寓話の中のキャラクターたちが何かのメタファーである以上、属性を背負うものだし、そのアンチテーゼとして全く別の役割を与えられることがあったとしても、結局属性のメタファーを逃れることはできない。寓話は教訓を語る。私たちは物語の中から道徳を学ぶ。

ノンフィクションの語りはその逆となる。登場する人々は属性をもって現れても、語りの中でそのロールは解体されていく。ある主婦が出てきたとして、語りが終わるとき、その人は多様なロールをせおう、またそのどれにも属することのない個人であることに気づかされる。そして私たちが語りを聞く以前にもっていた「答え」らしきものは、語りの終焉には散ってしまっている。

そういう視点で映画など見ていると、その制作者がどちらのタイプなのか分かって面白い。もちろんどちらかにはっきり分かれるわけではないけれど、ドキュメンタリータイプの制作者は安易な答えをみちびきだすことを避けるし、せっかく良いまとまりに向かっていても、けっきょく最後には何が正しいかを解体させてしまう。

見ていてすっきりして痛快になるのはフィクションの寓話的語りに決まっている。ドキュメンタリー的語りは、その分、つかみどころがなくて物足りなく感じる人も多いと思う。ベクトルが逆方向のふたつの語りは、どちらも大切なものだ。

村本さんの語りは、一貫してドキュメンタリー的語りなのだと思う。炎上芸人としてのふるまいからはそう見えないかもしれないけれど、彼はいつも答えを語らず、むしろ答えを解体させていく方の言論を好んでいる。それがただのまぜっかえしでないことは、報道番組での取材の姿勢や、noteの記事を読めばわかると思う。

個々人のミクロの問題に入り込んでいく、世界には多様な人がいて、さまざまな事情と思いがある。それをマクロに結び付けて答えを出すというのは、仕事がちがう。方向軸が別のものを同時にやると、結局なにもできなくなってしまう。大きな枠でとらえて答えを出す作業も必要ではあるけれど、それは別の人がやればいい。

民主主義とはマジョリティのものではなく、多様な個人をどうすくい上げるか、そのための仕組みである(からそれぞれの党があって議会で議論をする)。マクロの数字をもとに明快な答えを出したい人からは、めんどくさく思えるだろうけれど、個々人の物語へもぐっていく視点も欠かせないものなのだ。

いつかまた書いてみたいと思うのだけど、田舎に帰ってきて、田舎の農家の人や海に潜る人、個人で商売をやっている人などなど、田舎の人の話はおもしろい。どんな分野であってもひたむきに、熱心に打ち込んでいる人の言葉は豊かになる。私もそんな風になれるだろうか、とときおり思う。人の縁というものはきっと、そんなところから育まれていくものなのだろう。

けっきょく3500文字も書いてしまった。ツイッターで書かなくてよかった。