日々帳

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映画の感想 - 沈黙 - サイレンス -

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2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved. Photo Credit Kerry Brown

長崎のキリシタン弾圧をポルトガル司祭のまなざしから描いた、遠藤周作歴史小説「沈黙」。その映画化であるマーティン・スコセッシ監督「沈黙 - サイレンス -」を見てきました。

小説のほうは長い話ではなかったと記憶しているのですが、今見てみると300ページあるんですね。三行でかけそうなほど、あらすじもシンプルですが、作品で語られるものの深みは、その隙のない文章に宿るといった感じで、ストーリーを述べてみても作品の本質は伝わりません。

なので映画化の話を聞いたときは「大丈夫なのかな」と思ったのですが、もう、全然大丈夫でした。159分という時間は、上映時間が短い作品の好まれる昨今を考えると、「作りたいから作る」型の作品であることは間違いなく、何よりも自身もクリスチャンであるスコセッシ監督が、原作にふれて映画化の構想を持ったのは、28年前にさかのぼるのだといいます。

ほぼ原作にそった内容で、ロドリゴ神父の心の変化を丁寧に描いています。なんとなく、スコットランド独立運動を描いた映画「ブレイブ・ハート」を思い出しました。美しく厳しい自然と人間の尊厳。あと拷問シーン。主題は「沈黙」のほうが、もうすこし複雑ではありますが。

ふだん配役に目を向けないのですが、今回は人物一人ひとりが強烈で印象に残りました。

筑後守を演じるイッセー尾形は本当にいそうなラスボスで、ロサンゼルス映画批評家協会助演男優賞次点級の存在感を見せていますが、個人的には、五島灘*1の荒波に身を打たれるなど、決死の演技を見せた塚本晋也の、朴訥として信念の強さをもつモキチに感情移入しました。

私の中のキチジローはどうしようもない人物なのですが、窪塚洋介が演じることで、どことなく無邪気さのあるキャラクターになっていました。キチジローに自分を重ねたという遠藤周作は、だからこそキチジローを醜く哀れに描いたのだと思いますが、スコセッシ監督は、愚かであろうが生きようとする一人の男に、ポジティブなイメージを与えたかったのかも。

危険をおかして師フェレイラを追い日本に密航する二人の司祭は、アンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライヴァー。誰か、ピーター・パーカー(スパイダーマン)とカイロ・レン(スターウォーズ)じゃん! と言ってて、たしかに、今や豪華キャストの二人です。

アンドリュー・ガーフィールドメル・ギブソン監督の沖縄戦を描いた「ハクソーリッジ」(2017年夏公開)の主演もつとめて、日本が舞台のシビアな歴史ものと縁があるなあと思いました。顔立ちや声の優しい雰囲気が、苦難という風景に合うんでしょうか。

配役に関してばかり長くなりましたが、感想はもっと長いので章を改めて書こうと思います。

魂の自由

小説をすでに読んでいると、当時の追体験として見てしまう面もありますが、それでもやはり、以前とはちがう発見もありました。

小説では文章や構成の巧みさを凄いと思っていたのですが、映画になると物語が伝えようとしたことに心が傾きます。涙もろいので、上映中だいたい泣いていたのですが、その初っ端が、司祭を迎え入れる村人のモキチが、嬉しそうに「わしら切支丹です」と打ち明けるシーン。

話がそれますが、島原の乱の抵抗者たちが聖人に列せられていないのは、諸説ありますが、一揆が宗教的なものばかりではなく、農民の反乱という側面も強いからなのだといいます。けれども裏を返せば、彼らがキリスト教を篤く信仰したのも、貧しさゆえではないかと思うのです。

百姓は”死なぬように生きぬように”という言葉がありますが、江戸時代の農民たちは年貢をおさめるだけの存在で、はたしてひとりの人間としての生存の意味を持っていたか。そこにもたらされたキリスト教は、一人の貧しい農民に生きる意味を与えたのかもしれせん。

とかく序盤はその描写が丁寧に続くので、涙が枯れそうでした。彼らは裕福も名誉も望んでいません。ただ人間として生きること、主という存在にそのことを赦され、そこにある魂を受け入れられること。農民が一個の魂をもつ。筑後守がおそれたのはそのことではないでしょうか。

なぜ彼らが命の危険にさらされても信仰を捨てなかったのか。死さえいとわないとき、魂は生も死も超えるからです。他に何を奪われても魂だけは縛られない。当時の権力者に対する抵抗がそこにはあります。それは一種の美しさでありますが、しかし物語はその先へ向かうのです。

弱き者として生きる

物語が到達する答えを、言葉で安易に解説するのはとても難しい。先に美しき殉死があり、そこをさらに通り抜けなければ見えてこない風景のように思います。

あいちトリエンナーレで美術作家のミヤギフトシさんが出展していた、五つの海を映し出す映像作品は、キシリタン弾圧の歴史を辿るものでした。「沈黙」は読んだことがないとおっしゃっていましたが、、作品のテーマは「沈黙」といくらかかぶります。

映像作品のひとつに、キリシタンの一団とともに旅を続けるアイヌの少女の物語をもとに、オホーツク海をたずねるくだりがあります。自分が一点のたしかな存在であることへの切ない願望。しかしミヤギさんもまた、殉教者たちの、死と引き換えに人間性を得る栄光を理解しながらも、自分ならはたしてそれを選ぶだろうか、と自問自答するのです。

親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉がありますが、形だけではその本質は伝わらないものです。言葉にたどり着くまでの葛藤を経てこそ、自分だけの答えとして得られるものがあるのだと思います。

イッセー尾形さんのインタビューに、筑後守の役を演じていて、百姓たちをモノとしてしか見ていない彼もまた、人間性を失っていたのではないか、と感じたのだと語っておられました。キチジローも筑後守もひとしく、この世界に敗けながら生きる存在なのでしょう。

ある意味で、この世界をつむぎ、物語を語るのは、魂の敗者たちであるのかもしれません。

映画の中で、とても好きなシーンがふたつあります。ひとつはロドリゴ神父がモキチから十字架を受け取る場面。もうひとつはキチジローの告悔を受ける最後の場面です。モキチは信仰をつらぬく強さの象徴であり、キチジローは愚者としてでも生きる弱さの象徴です。

彼らに向かい合うロドリゴ神父の心もまた、強さと弱さに対比されます。過酷な弾圧にさらされるとき、信仰の炎は激しく燃え上がり、またじっと耐えるとき、静かに燃える。どちらも胸を打ちますが、とりわけ暗闇にじりじり燃える火には、情念をおびた色ほどの切なさがあります。

沼という土壌

この作品に忘れてはならないのは、遠藤周作という作家が日本人であり、クリスチャンであったということでしょう。あらためて気づいたのは、作家のおのれへ向ける眼差しの厳しさです。

作中に「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」という言葉が出てきます。よく似た言葉を別の小説で読んでいたので、はっとしました。「琉球王国衰亡史」という歴史小説で、19世紀、清国と薩摩の二重支配にあった琉球王国が、黒船来航に先んじて諸外国からの開国をせまられ、右往左往する物語です。

ここに作者の嶋津与志は、琉球の人々の性質を「のっぺらぼうのような」と称しています。何を言ってものらりくらりとうわべだけでかわし、本心を見せないということです。しかしそのことが「曖昧な国」の「沼のような」やまとの人々とあまり差がないことに気付かされます。

"沼のような日本"に、木を植えれば花は咲くが、根ははらない。こういった日本の姿を指摘している例をあげるときりがなく、翻って言えば目新しい言説でもないですが、思えば日本の戦後*2の姿と19世紀の沖縄の姿は、そう変わらなかったのかもしれない、ということを思いました。

沼という表現にこめられた失望のような、怒りのようなものは、日本人として生きるときに受ける世間の要求と、クリスチャンとして受ける要求の間の葛藤が生んだものだったのでしょうか。

スコセッシ監督が日本のそのような性質に洞察を向けていたかどうか。欧米の視点からすれば、そのくだりは必ずしも必要でないように思えますが、原作に忠実であったことで、遠藤周作の描こうとした"日本人"と"キリスト教"という主題を、たしかに掬い上げているように思いました。

深淵をのぞく問いかけ

帰宅の途で「沈黙」を読んだきっかけを思いだしたのですが、叔父の家に兄妹で泊まりに行ったときに、ベットの脇の机に見つけたのがこの本でした。たまたま誰かに勧められたのか、読みかけだったのか、大切な一冊だったのか分かりませんが、数年たって本屋で見つけたときに、記憶がよみがえって買ってみた次第。叔父の心を辿りたい思いもありました。

けれども誰かにとっての一冊がどういうものなのかなんて、結局は分からないものです。この小説は、その魅力を言葉で説明しづらく、というのも読む人の心の次第で、どうとらえるかが大きく変わってくるように思うからです。

皆が苦しんでいるのに、神よ何故あなたは沈黙しておられるのですか

深淵をのぞく問いに、見つめ返す淵の深さは、その人の心の深さに関わるように思います。だからこそ、一人ひとりにとってのこの作品の重みは異なるのではないか。"神の語り"に耳を傾ける人の心は、他者には計り知ることができない。まさに「その心は神だけが知っている」のです。

撮影のほとんどは台湾の花蓮だそう。ここのところ長崎をGoogleEarthでひんぱんに見ていたのですが、五島列島の浅瀬の碧い海や、霧の立ち込めた外海地区の海岸線など、現地の雰囲気がよく出ている、気がします。でも台湾までは遠いので、映画巡礼の地として長崎に行きたいな。

モキチのいるトモギ村のモデルとなった外海地区に建つ黒崎教会、遠藤周作文学館。

大小の島嶼からなる五島列島。キチジローの故郷です。外海から潮にのると、たどり着くのは中通島奈良尾港あたりなんでしょうか。福江島がひらけている印象がありますが、中通島上五島)には起伏ある地形に教会がたくさんあるようで、だいぶ行きたい。

ガルペ神父がロドリゴと別れて向かった平戸。北松浦半島平戸大橋でつながる平戸島には鉄道はなく、公共の手段はバスだけだったりして、そういうところほど心がひかれます。平戸港のあるあたりもいいですが、奥まった土地にある春日棚もいいな。

http://bitecho.me/2016/06/30_1023.html

ミヤギさんのフォトエッセイ、青来有一の『私は以来市蔵と申します』、遠藤周作『沈黙』から長崎の外海をたずねる。初夏の雨と境界線の分からない五島灘の風景。こういう旅をしたい…。

長崎にはキリシタンにまつわる史跡が多いですが、全部行こうと思うとけっこうきりがないのです。長崎県が映画の巡礼地をつくってくれたようで、これを見ると、やっぱり外海あたりが映画とはゆかりが深そう。

追記

プロテスタントからの「沈黙」評。教義的な愛と実践的な愛という比較をしています。

この記事もとても興味深く読みました。「神はいるのか/いないのか」「殉教は正しいのか」といった答えは、すでに作家の中では出ていた。「沈黙」は出版関係者の友人の勧めたタイトルで、であるからして作品のテーマは「沈黙」ではない。遠藤周作の育った戦後という背景でのカトリック信仰、母との関係、魂の同伴者…。あと、遠藤周作の他の作品(「深い河」「侍」など)も読みたくなりました。

いろいろと「沈黙」評を読んで、ミステリー的な展開や映像美(映画の場合)など単純に楽しめはするのだけど、作家と信仰、その解釈、というところになると、とたんにレベルが高くなる作品なんだなあと思いました。

ひとつ言えそうなのは、キリスト教の正統の解釈からは距離があって、物語から普遍性を取り出そうとするのは危ういのかなと。あくまで、遠藤周作にとっての信仰の体験という個人的なものが基盤にある、一回性の物語なのかもしれないと思いました。

参考URL

遠藤周作が『沈黙』で描いたのは、当時のローマ・カトリックイエズス会の宣教師であり、高名な神学者でもあったクリストファン・フェレイラ(1580-1650年)と、棄教した彼を再びキリスト教信仰へと取り戻そうとキリシタン禁教令と鎖国下にあった日本に密航してきたジョゼッペ・キアラ(1602-1685年)の姿で、特に、ジョゼッペ・キアラを作品では「セバスチャン・ロドリゴ」という名前で描き、「コロビ」を通してのキリスト教信仰が伝える深い神の愛を描いたものである。ここには日本と西洋という風土的にも情緒的にも全く異なった世界での「生き方の問題」も深く描き出されている。
独り読む書の記: 山本音也『コロビマス』

「コロビマス」は、コロビ伴天連を描いたもうひとつの物語。実在した二人の司祭、フェレイラとキアラの生き様の中にある葛藤に思いが向きます。

『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。[…]上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。
島原の乱 - Wikipedia

常道の著であるとされる『昇平夜話』に見える、「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意」とのくだり(「昇平夜話附録」『日本経済叢書 第2巻』238頁)は、『本佐録』の「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり」と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる。(『江戸時代の支配と生活』105頁)
高野常道 - Wikipedia

当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極(ほりえ あらしろう ただとう)と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた。
神尾春央 - Wikipedia

*1:撮影は台湾?

*2:遠藤周作が戦後の作家だったことにかかっています。