日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

ちいさな星のための [後編]

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生まれて二日目の子ヤギのシアには、母ヤギとの別れを理解できなかったかもしれない。

初乳は昨日のうちに飲んでいたけれど、これからが問題だ。とにかくお乳をのませなきゃと気持ちが急いた。祖母ベティの大きなお乳にあやかろうと画策したが、ベティの抵抗は強かった。我が子が乳を飲もうとするのに紛れこませることができたが、長くはもたない。しばしの格闘のすえ、ベティもシアも、私も疲れてしまった。

途方にくれてシアを抱きかかえていると、孤児となった子ヤギは私の腕のなかでうとうとと寝入ってしまった。そのうち飼育者のおじさんがやってきたので、事情を話し、子ヤギが草を食むようになるまで面倒をみることになった。

子ヤギの代替乳には人用の粉ミルクが良いという。さっそく120ccの哺乳瓶を煮沸消毒してミルクをつくる。哺乳瓶の口は穴を大きめにしたほうがいいらしいので、アイスピックを通して広げておいた。作ったミルクを与えてみるが、少し飲んだだけで、あとは寝入ってしまうのだった。

その日は在宅の仕事があったのだが、かといってシアのこともほおっておけない。子ヤギのうちは低体温の心配も欠かせないので、結局毛布でくるんで膝の上で寝かせる。途中もぞもぞと起きると、外に出させて排尿するのを待った。午後になって、膝の上にたってぼんやりするシアに哺乳瓶を近づけると、今度はみずからしゃぶりついて、ごくごくとミルクを飲んだ。

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生後二日目のシア。赤ちゃんヤギは一日の大半寝るので、少し遊んで眠たくなっている。

午前中弱々しかっただけにびっくりした。これだけ生きようとする力があるのなら大丈夫、と確信をもった。おしっこの気配のたびに庭に出して、そのあいだミルクをつくる。外に出たシアは、草むらをくんくんにおって、その辺に座り込んでうとうとする。またあるときはミルクをねだってメーメー鳴いたりした。

二日間は心配で、新聞紙と乾燥草を敷いた段ボールをベットにして、私の部屋で夜を過ごさせたのだけど、粉ミルクのせいか便が水っぽく、寝床がすぐに汚れてしまうのだった。段ボールの暗がりに座らせると、すっと寝てしまうので楽だったけれど、衛生上問題があると判断して、三日目からは外に出した。

物干し場にある猫車の影がシアの隠れ場所だった。段ボールと毛布を敷くと、そこがすっかり子ヤギの寝床になる。そうとはいっても風の強い日は気が気でなく、けっきょく部屋に連れ込んでしまうこともあったけれども。そわそわして寝付いてくれないときは、仰向けになって腹のうえに座らせると、数分のうちにおとなしくなった。こういう日は、犬用のオムツがとても役にたった。

ミルクを飲む量も日に日にふえた。小さい体で変なところに入り込んで見つからなくならないように、鈴のついた蛍光タイプの首輪を買ってあげた。シアはすっかり私たち家族が保護者であることを理解し、おなかが空いているときはメーメー鳴いて催促し、母が畑に出れば、ぴたりとついてまわって、草や土の匂いを楽しんでいるようだった。

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畑で遊ぶシア。親しい人のそばにいると安心する。

いつかは群れに返さないといけない。とかくほかのヤギたちと仲間であることを認識させないといけなかった。

朝は牧場まで連れていって少しのあいだ過ごさせる。週末になれば、庭に出したヤギたちと一緒にシアを遊ばせた。空気を読まず大きな体で走り回るケニフおじさんに突き飛ばされると、まるで権利侵害をうったえるようにメー!と叫んで庭へと逃げ帰るありさま。群れになじむには時間がかかりそうだった。

シアに遅れて数日後に、リリーが赤ちゃんを産んだ。四匹目の子ヤギだった。

すっかり大きく育って牧場や庭を闊歩するヴァネッサとウィニーとちがって、体の大きさも近い子ヤギ、ユーリとはきっと友達になれるはず。ユーリは姉たちのいる牧場からのがれて、倉庫のほうでまるまって寝ていることが多かったので、シアをつれて倉庫へも行ったが、生後数日の子ヤギはシア相手に発情のそぶりをみせて、シアのほうがびっくりしてしまった。

かと思うと、ユーリは臆病で気まぐれなところがあって、次に倉庫につれていくと、メーメー鳴いて母ヤギのところへ逃げて行ったり。ちょっと気むづかしいヤギなのだ。

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倉庫でひとり遊びするユーリ。ひきこもり属性がうかがえる。

しかし私の思いは杞憂だったようで、そのうちにシアは自分で牧場のほうへ遊びにいくようになるのだった。

あるときなどは、はしゃぎまわる他の子ヤギと一緒に盛り上がったか、まったり座り込むベティの背中にあがって、ぴょんと飛び降りたりする。驚いて観察していると、次はタマラの背中にチャレンジだ。「ダメだよ!」と呼びかけたが遅い。野生の王女タマラは猛烈に怒ってシアにツノを向けてきたので、あわてて抱きかかえて保護した。

シアが群れになじむようになったのには、乱暴者ヴァネッサによるところが大きい。このボスのように権力をふりまわす年長ヤギは、うとうと寝ているユーリに近づいて、つんとツノの生えてきた頭をふりふりして追い払うなどするとんでもないヤギだったが、その一方で、ひとりぼっちのシアにも興味津々で、牧場の柵をすりぬけては、こちらへと遊びにくるのだ。

ヴァネッサとシアが一緒になって遊んでいるのをみると、親心に涙が出そうだった。ときおりは牧場へいって昼寝をすることもあるらしいシアが、群れのなかが自分の住まいだと理解する日も遠くないと思われた。

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ヴァネッサと遊ぶ。右側はたぶんウィニー。でもこの日はシアも後からついて遊んでいた。

乳離れするまで三ヶ月はかかる。次第に庭の草を食べるようにもなったけれど、相変わらずミルクの時間が待ち遠しいようで、朝、庭に出た私の姿をみつけると、全速力で駆け寄ってくる。その姿を見て母は「犬みたいなヤギ」と評した。また通りをしばしば通るおじさんも「あの犬みたいなヤギは元気か」と聞いてくるほどだった。ヤギはさほど人に甘えないのであるが、人の手で育てられたシアは、犬か猫かというくらいに、人に懐くのだった。

島の冬は風が強く、内地ほど気温はさがらなくても、12月の寒さには凶悪さがある。その日も仕事場から帰るあいだ、風のことが気になっていた。この北風は二、三日続くかもしれない。それにしてもおそらく、今日がピークの強さだろう。今日はシアをこっそり部屋にいれてあげようか。

帰宅するといつもメエ!と鳴いて姿を見せるシアが、この夜は静かだった。隠れ家をのぞきこむと、縮こまってじっと座っているのが見える。鼻先をさわってみると、体温が下がっているのが分かった。良くない予感がした。母が言うには、午後からミルクをほとんど飲まなかったのだという。

低体温症が起きているとすると、そのままにしてはおけない。部屋に連れ帰って、毛布でくるんでやった。それだけでは心配で、膝の上にのせて温める。呼吸の荒いシアを抱きかかえて、気が付くと夜の10時ごろになっていた。この時間からシアはときおり声をあげて苦しみをうったえ、私の腕から逃れようともがくのだった。

夜を超えられないかもしれない。その思いがわいて、私も混乱していたのかもしれないけれど、シアを抱いて小屋へ行かなければならないと思った。最期の瞬間を迎えるのに、母親とさいごにいたあの場所へもどらなくては。まだ風のやまない中、庭に出て暗がりを小屋へとむかった。けれども、そこにたどり着くことはできなかった。シアが身をよじると私の腕からこぼれ、芝のうえに体が投げ出された。鳴き声をあげるその子をふたたび抱き寄せる。強い抵抗は二度目はなかった。そのまま子ヤギは私の腕の中で息をひきとったのだった。

声を聞いて家から出てきた母も、その様子を見て、おさない子ヤギの最期をみとると、信じられないとつぶやいて落胆した。子ヤギにミルクをいちばん多くあげていたのは母だっただけに、喪失感はよほど大きかったらしい。私はというと、自分でも意外なほどに、動揺がなかった。

原因はいったいなんだったのだろう。今でもはっきり分からないけれど、虫などを食べてしまうと、あっけなくしんでしまうと聞いたことがある。それくらいしか理由が思い当たらなかった。

シアを救うために私にできることがあったか。草を食べるようになった子ヤギに、それを制限することなどできない。運が悪かったとしかいいようがないのだ。何かを後悔するとして、さかのぼれば、シアの母をしなせてしまったこと、もっとさかのぼれば妊娠をさけるよう隔離させなかったことに行き当たる。けれども”もしも”を責めてもしかたないという思いもある。小さな選択がレールを、子ヤギをしなせるほうへとむけてきてしまった。

時おり、こんな風に考える。私がしんだあとの向こうの世界で、私が世話したヤギたちと再会することがあるだろうか。そのとき、私がその死にかかわったメルやニーナは、リッキーは、私を許してくれるだろうか。私は彼らに許してもらうためにひざまずき、地に頭をすりつけて謝るだろう。でもその思いつきこそが、人間の欺瞞そのものでどうしようもない、とも思う。謝って許すなどということがヤギたちにとってどういう意味があるというのか。

シアとの短い思い出のなかで、こういうものがある。ヤギの飼育主であるおじさんからは、この孤児の子ヤギを「あんたがもらいなさい」と言われていた。うれしい反面、迷いがあった。この先何年も、自分のライフスタイルが変わらずにいるとは思えない中で、10年以上生きるヤギの世話ができるだろうか。

シアを牧場に返すプランを本格的に考えはじめたある休日、芝生のうえに寝転がっていた私のうえを、小さな体のシアがのしのしと歩いた。その子ヤギの腹を見上げるかたちになって気づいたことがある。彼女の妊娠のサインをしめすことになる乳首をさがすのだが、見当たらないのだ。その代わりに、ちいさな睾丸が下腹のあたりについていた。

声が出るほど驚いた。排尿するとき、メスヤギならどのヤギでもそうするように、シアはいつも屈んでしていたはずだった。それでてっきり女の子だと思っていたのだ。

驚きとともに、失望もあった。父親ヤギに似れば間違いなく大きく育つ。そうなると、私の力では彼をコントロールできなくなる。人の手で飼育するために、彼の自由を大幅に制限しなければいけなくなるだろう。それでも私はシアを引き取るだろうか?
それに、オスヤギは牧場に長らく置いておくことはできない。近親交配になってしまうからだ。他の牧場のオスと入れ替えるなどして、調整する必要があるのだ。

シアとこの先長らく一緒にはいれない。そう理解ができても、事実をうまく受け止められなかった。すぐに答えを出す必要も、まだなかったからだ。

あの夜、シアの体を抱いていた寒い冬の日、私自身に問いかける声を聞いていた。もしこの子を救えるなら、この先ずっとこの子を守る?私の答えは、たぶんそれはできないだろうということだった。そうしてシアは私の手を離れていってしまった。

月のない風の強い夜。その日はたしかに新月で、月と太陽が地球をはさまず一列に並ぶその日、ふたつの球体の引力で、地球の水はおおきくうねるのだという。そして命ある生きものたちも闇夜の晩にひっぱられて、この地上にひきつける力がかなわなかったときに、あるものは向こう側の世界へとつれられていく。そんな話を、芝生のうえで思い出していた。

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あのとき、苦しみから解放されて、シアは芝のうえに立ったかもしれない。座り込む私たちの悲しみに気づいただろうか。けれどそれよりも、小屋のあのあたりから姿をみせた母リッキーの白い影のほうが、シアの気をひいただろう。リッキーは我が子をむかえて、はねるように駆け寄るシアに鼻であいさつをする。そうして二匹ならんで、私たちから踵をかえして去っていく。その映像を心に描く。どこかに救いを見つけようとしている。

リッキーをころしたのは私だっただろうか。シアを死においやったのは。物理的なことは何も分からない。でも心情の問題としては、その罪は逃れられないように思う。それはすべてほんの些細なことに過ぎなくても、仕方なかった、ほかにやりようがなかったといいながらも、最終的には、命になんらかかかわった立場として、罪を罪として受け止めなければならない。言葉をかえれば、救いはそこにしかないように思えるのだ。

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