日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

マウンティングするヤギ

いやよいやよも好きのうち、というと怒られるにちがいない昨今である。しかしヤギの世界でメスヤギはしばしば「いやよいやよ」をしてみせる。

オスがその気をもよおしてマウンティングを試みるとき、メスヤギはその気があってもなくても、さっと逃げる。人の目から見てヤギたちが「いやよいやよも好きのうち」をして見せるのは、あんがい判別がつくもので、そういうときのメスはオスからそう離れず、それどころか誘うそぶりさえみせる。

なぜメスヤギたちがイヤイヤするのか考えると、おそらくオスヤギを焦らして興奮を高めるためである。興奮度が高い方が何かしらの精度があがるのかどうか、生物学的なことは分からないが、文学的にいえば「本気の愛がほしい」といったところで理解できるのではないか。

三日三晩じらされ続けるオスヤギを眺めていると同情心まで抱いてしまうが、ともかくメスヤギはかんたんに体を許さないのである。もちろんヤギたちの行動様式を安易に人間にあてはめることはできない。ヤギと人間と、いったい何が違うのだろう。

彼らをよく観察した結果の私の答えは、ヤギのメスには強い決定権があるということである。つまり「いやよいやよ」が誘いをふくんでたとしても、メスが「いいわよ」という気持ちにならない限り、性交渉には至れないのである。

オスがマウンティングを試みても、メスヤギは前進するだけで交渉を不成立にすることができる。だからオスヤギたちは三日三晩であろうが、恋におちたメスヤギの「いやよいやよ」にめげずに根気よく追いかけまわすのである。

人間が性行動に動物の本能を残しているとして、相手の興奮を引き出すために「いやよ」の小技を使う局面もあるだろう。しかし四つ脚動物とちがって人間は、最終的な決定力を女性が独占しているわけではない。雌雄が分かれた生物の本能と、二本脚動物の力の性別差による矛盾がここに表出するのである。

話がそれるが、少し前にオスにマウントするオスライオンの記事が話題になったことがある。哺乳類界での同性愛的行動は、ボノボなど霊長類に参考することができるため、ライオンもそうなのかと憶測がとびかった。

ヤギもオスに対してマウントすることがある。メスの子ヤギがおじさんヤギにマウントしているのを見たときには「どういうこっちゃ」と思ったものだが、動物のマウンティングというのは、たんにじゃれあいとして、あるいは威嚇としてなされることがあるという。

ヤギどうしを戦わせる闘ヤギにおいて、この光景はまれに見られる。オスがオスの後ろにのりかかる行為は、闘ヤギの解説者によると「屈辱を味あわせる」のだという。乗りかかられたオスヤギは嫌がって逃げる。このとき、逃げるオスヤギが反撃をしないばあい、戦う意思を放棄しているとみなし、勝負がつく。

なるほど、動物のマウンティングにはそのような意味合いもあるのかと納得した。しかしそうかと思っていると、待機している闘ヤギの選手たちが、他の選手ヤギを隣に、そわそわとしているのに気づかされる。中には念入りに隣のヤギの匂いを嗅いでいるものもいる。

そのうち一頭が、べつのオスヤギにのりかかって腰をふりはじめた。その行為がじゃれあいや優位性を主張するものだったのかどうか。これは大変に私感がはいった見解なのだが、私の目にはホモソーシャルな世界においてのオスの興奮に見えたのだった。

ヤギコミュニティというのは一般的に序列をつくる。その縦社会の中でオス同士は行動範囲が重ならないよう配慮するものなのだ。しかし同等レベルのオスどうしが近接した空間にいるとき、ヤギはオスである自分自身に酔って、極めてオスらしい行動をとることがあるのではないかと感じさせられた。

これは印象にすぎない。しかしマウンティング文化ひとつをとっても、ヤギの世界は大変奥深いのである。