日々帳

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映画の感想 - ブレードランナー2049

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5月の長い連休にいくつか映画を見た。「ブレードランナー2049」は昨年上映されて、ようやく配信サイトでもみれるようになったので、Youtubeでありがたくレンタル視聴した。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は「メッセージ」なども恐ろしく良い映画で、その反面、期待しすぎないように心得ていたのだけど、結論から言うと、メッセージ以上に好きな映画かも、と思った。(以下はネタバレあり)

ブレードランナー」や「エイリアン・コヴェナント」しかり、リドリー・スコット監督の作品には創造主への禁忌とあこがれというテーマが通底していると思うのだけど、そのリドリー・スコット固有とも思えるテーマを太く軸にしているところなど、それは共鳴なのか技量なのか。

それでいながらしっかり自分の作品にもしている。ハードボイルドな演出にパズルのピースがピタリと揃うラストと、「ブレードランナー2049」もドゥニ・ヴィルヌーヴおなじみのストイックな完璧さで整えられている。

物語は専任捜査官のKと、農夫としてカルフォルニアに潜伏していた旧型レプリカントとの対面、戦闘シーンから始まる。この冒頭の数分間は、物語が芽を息吹く前の種の状態で、この先展開していくすべての要素がつまった数分でもある。農夫レプリカントに言われる「お前は奇跡を知らないからだ」という言葉は、本作の枝葉の先まで行き渡る重要なテーマとなる。

荒廃したカルフォルニアでひっそり生きたレプリカントの生活の痕すみずみにひそむ生き様に、Kは足を止めてしまう。捜査の過程で目にした木の根に刻印された日付に、ある記憶がフラッシュバックする。ここから物語(あるいはKの運命)が転がり始める。

その記憶が何なのか、言葉で語られるのはもっと話が進んでからだ。それまで視聴者は絵としての情報の積み重ねで推測するしかない。そこがこの映画のライトな鑑賞者をよせつけないところでもあり、察するのが早い鑑賞者をひきつけるところでもある。

雨にふれる仕草をするホログラムAIのジョイ、LAに降る雪を手のひらで感じるKと、作品の冒頭とラストに配された場面はシンクロし、被造物は本当に雨を感じているのか(いないのか)というありきたりな問いかけは、序盤と終盤ではまったく重みの違ったものに変わってしまう。

あるいはこの重みは、アンドロイドが見た夢の代償といえるかもしれない。

デッカード元捜査官をウォレス社の航空機から取り戻す戦闘で、嵐の海に投げ出されたKに、デッカードが手を差し伸べる場面も忘れがたい。「ガタカ」のあの夜の海のシーンがどこか思い起こされる。そこには生き直すための生と死が描かれている。

暗い波間からデッカードがKを引き上げたとき、これは家族の物語なのだと気づかされる。たとえ二人が他人であったとしても、そこには仮想の絆がたちあらわれる。Kにとってデッカードが手に入らない「父親」であることは、ラストにデッカードが「おれにとってお前は何なんだ」と尋ねることでも示唆されている。

前作を丁寧にオマージュしており、Kの存在は大きな物語の中の小さな断片にすぎないのだけど、この物語はたしかに、Kの心の起伏を軸に描いた、彼の物語だ。「メッセージ」がそうだったように、主人公から最後まですべてを奪っておきながら、その無風で無音の場所に、ヒリヒリとする痛みと、ささやかな生の肯定を感じさせる。

誰のものでもあって誰のものでもない記憶と、自分が自分であるという確証を求めるはざまのジレンマがストーリー全体に響いているのも、SF映画としての確かさがあった。

必要最低限以上は言葉で語られず、絵の積み重ねで語られるものこその重要な意味がある。だからこそどのタイミングでどの絵が出てくるのか、緻密に配されている。こういうわけで、いちいち情報の出し方の巧さに打ちのめされる映画だった。

ちなみにこの後「タンジェリン」という映画を見た。この映画はじつは二回目なのだけど。ロサンゼルスで体を売る女装のゲイたちのクリスマスを描く映画で、ロサンゼルスといってもさまざまな表情があるものだなあと思った。