日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

生贄の歴史 :: ディスカバリーch

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20130730002

読むに辛い記事だったのでためらいつつも、コカやチチャについてなどの情報もあったのでブックマークしたのだけど、あとから沢山のブックマークがついて、みんなどの辺に興味をもったのかなあと不思議に思った。わりとああいう学問系の記事は伸びない。

ちょうど、ディスカバリーチャンネルで「生贄の歴史」という特集があって、儀式の再現とかするので痛々しくて、見たらすぐ消去するつもりでいたのだけど、ナショジオの記事にも改めて考えることがあったので、どうせなのでまとめておこうと思う。
再放送もあると思うので、記すのは一部のエピソードにとどめる。

豊穣への祈り

古代の社会では神は近い存在だった。運命は神にゆだねられ、死は身近なものだった。死は生になり豊穣を招くとされた。
メキシコ中央部アステカの神官は「死の専門家」でもあった。黒曜石の剣を使って心臓をえぐり出し、鼓動する臓器を太陽にささげた。彼らは、神々が自らの手足や血を太陽や大地に捧げ、犠牲にしてきたと信じていた。
生贄の中には特別扱いを受ける者もいた。戦争と夜の神テスカトリポカの化身は、毎年一人、捕虜の中から吟味されて選ばれる。男は神の化身として崇められて過ごし、一年経つと生贄として祭壇への階段を上って、己の心臓を神に捧げた。神官たちが彼の肉を食したのには、神の化身を体内に取り入れる意味があった。そして新たな年が始まり、互いを捧げあう神と人の関係がまた始まる。心臓は神からの贈り物と考えた彼らは、ある時点でそれを返さなければいけないと考えていた。
デンマークの泥炭湿地から発見されたミイラは紀元前の北欧で行われた生贄の可能性を示している。胃の内容物から、LSDと成分が近い麦角が発見された。男性は催淫性のある薬を摂取の後、豊穣の女神の化身である女性祭司と関係をもって、その最中に絞首されたと見られる。喉を切られ血が流れ出た後、男性は湿地に沈められた。
カエサルイギリス諸島に上陸した時に、原住民たちの風習を書き記している。イギリス北部では豊穣の神タラニスにささげるため、枝で作られた巨大な人型の中に動物や人間を入れて燃やした。煙が天に昇り雨を降らすと考えられた。生贄とされた他部族の捕虜は炎の中で絶叫をあげたが、それも儀式の一部だった。紀元1世紀にローマ軍に攻め入られて、イギリス諸島の文明は謎を残したまま滅んだ。

権力の証明

生贄は神をなだめるために行われたが、それは権力の誇示とも結びついた。
古代エジプトや中国殷王朝では、王の死に際して、生贄が行われた。古代エジプトでは王への殉死は楽園に行ける栄誉あることだと考えられ、中国では、祖先の霊を喜ばせるために、捕虜を供物として皇帝自ら斧を振り下ろして生贄を捧げた。胴体の切断は当時の最も残酷な手段のひとつで、絶命するまでに時間がかかり、捕虜は皇帝への恨みを地に記したという。生贄の習慣は時代とともに廃れ、王への副葬品は、人間を模した像へと変えられていく。
インドのバラモン教天地創造は、生贄から始まったとされる。原人プルシャは、自らの手足を切断し炎に投げ込んで、万物を創造した。古代インドでは生贄は命の再生を意味し、様々な形の生贄が存在した。サティーという風習は、夫が先に死んだ場合、火葬の際に妻も共に焼かれるというもので、そのほとんどが寡婦に対しアヘンを使うなどして強制的であったとされる。これは夫の妻に対する支配力を表すものだった。生贄になった女性は来世に行けるうえに女神となることができた。19世紀にサティーは法律で禁じられた。

神への畏怖

古代において日常は厳しく人命はたやすく奪われた。生贄の習慣は人が神を作り始めた頃からあった。神を喜ばせることで、災いを回避することができると考えられていたのだ。
古代マヤの人々にとって球技は、天地創造、生と死の物語を再現する宗教儀式だった。ルールは定かではないが結果ははっきりしている。彼らは命をかけて戦い、最後に誰かが生贄になるのである。マヤの王たちは生贄となる捕虜を得るために戦争をした。マヤの都市ヤシュチランの王妃は、夫の戦いの成功を祈って、サボテンの棘のある紐を舌に通して血を流し、トランス状態になって祖先の霊と交信した。祖先は血の贈り物を喜び、王は戦争で勝利を得ることができた。
ヨーロッパでは、11世紀頃まで生贄の儀式が残っていた。北欧を拠点にしたバイキングは最高神オーディンに多くの生贄を捧げてきた。”血のワシ”の儀式では、捕虜の背中にワシの形を彫った。儀式の間、捕虜は気を失わないように顔に水をかけられる。背骨の両脇から肋骨を折って左右に広げると、翼の形になるのだという。生贄が苦しむほどオーディンが喜ぶと考えられた。
聖書では動物の生贄が描かれる。羊を焼く匂いは神への捧げものだとされた。アブラハムとイサクの話では、息子を生贄に捧げるように言われたアブラハムが、息子イサクを殺そうとするが、神はこれを止めた。信仰心はすでに試されたとして、聖書では人間の生贄を禁止した。しかし現実には、それ以降も生贄は続けられている。カナン人モレクと呼ばれる(聖書では邪神とされる)偶像神をあがめるため、数多くの赤ん坊が生贄にされた。子供は死亡率の高さからまだ人間ではないという考えのため、生贄とするのに抵抗が少なかったためと考えられる。

感想

ユダヤ・キリスト・イスラム教などの一神教世界宗教となりえたのは、その神が権力者の神ではなく、隷属を強いられる民を解放する神であったからだろう。後世にはヨーロッパ世界で権力と結びついたけれど、根本的には、権力者からの解放を願う人々のための神だった。
それだけに聖書が人間の生贄を禁じているというのは面白い。その信仰心は一度試されればそれで良く、必ずしも命を捧げなくても、その心が示されれば充分だった。
皮肉なことに、生贄の歴史に終止符を打ってきたのは、侵略者たちだった。宣教師や奴隷商人が、自分たちの利益や行動の正当化のため、原住民の風習を誇張して伝えた例もあったが、その場合でも何らかの儀式は行われてきたと考えられる。
なぜ生贄が行われたのか。それには権力の誇示があり、神と人の関係の中での必要性があり、また、血や死の中から生が生まれると考えられたからだ。
日本においても人身御供の歴史はあったとされるが、いつくらいまで続いていたのかは調べてもすぐには分からなかった。ただ国の祭事として行われるものではなく、一部集落などで行われたものだっただろうと推測するのだけど、国全体として社会維持のために必要とされたわけではなく、ある意味、国家規模では生贄の必要性を早くから脱してきたと考えられる。
一方、19世紀まで生贄が続いた文明があったことを考えると、その違いは、おそらく生きる厳しさの差なのではないだろうか。自然や疫病などによって死が身近であり、日常が厳しい環境では、人々は神を畏怖し生を渇望した。豊かさが生贄の必要性から解き放ってきたのではないかと思った。

 

考察 通過儀礼と加虐性

生贄について最後まで理解が困難だったのが、その残酷さだった。ほとんどのケースで、生贄となる人間は、拷問に等しい儀式の末に絶命する。残虐であれば神はなお喜ぶとされた。
これについてひとつ思うことがあって、思っているだけで仮定にすぎないのだけど、後からの考察のためにも記しておこうと思う。
少し前にふと、「恋愛」に一般的な定義があるんだろうかと思って情報を探し始めて、「プラトニック・ラブ」から「少年愛」の単語に辿り着いた。

少年愛 - Wikipedia

プラトニック・ラブ」は精神的な恋愛のことだが、プラトンが「少年愛」において外見や個人よりも『美のイデア』を愛することを説いたことからきているという。その「少年愛」とは、年長の男性が少年を愛する行為で、文化的なものである。
私は「少年愛」なるものは今日の「同性愛」とは異なるという見解で、父権の強い社会で現れた文化のひとつと考えている*1古代ギリシアでは戦士の訓練を受ける青年が年長者によりその対象となった。ギリシア・ローマに限らず、アラブ、日本でもこの文化は見られる。戦士社会に多く見られるのは戦場に女性がいないからといった理由だけではないように思う。
「割礼」はユダヤ教では神との契約の意味を持ち、生後間もなくこの儀式を受けるが、アフリカやアメリカでは成人の通過儀礼として行われる。また、オセアニアでは「尿道割礼」という割礼方法が行われ、ミクロネシア南アフリカの一部の地域では、睾丸の片方を切除する通過儀礼が行われていた。メラネシアでは未成年が一人前になるために成人男性の精液を体内に取り込まなければならないと考えられていた。
「割礼」は生後間もなく施術され衛生予防上の合理性もあるとのことで、通過儀礼とは少々異なるかもしれないが、他の地域のケースは、通過儀礼の風習のひとつである。これらの風習の中に必要以上に痛みを強いるものがあるのには、死と再生を経て成人として生まれ変わるという意味合いが潜んでいるのかもしれない。しかし、生贄の儀式に苦しみが必要とされる側面があったことと合わせて思えば、通過儀礼に伴う身体の痛みには別の意味もあるように思える。
古い時代に子供の死亡率は高く、そのため人として見なされていなかったことは、番組の中でも述べられている。成人するということは、人になることであり、もう少し正確に言えば、社会の構成員の一人になることだった。社会の保護の外から内側に入る時、社会と個人との関係確認が行われた。それがより隷属的な関係性である時に、通過儀礼はしばしば加虐的になるのではないか。一人で狩りを行うなどの自立の儀礼と違って、身体を傷つける儀礼というものの裏には、彼らを受け入れる社会の要求が隠れているでのはないだろうか。
その仮定で考えれば、生贄に伴う残虐性も理解できるように思う。成人への通過儀礼として行われる儀式には、個人と地域共同体との関わりの再確認があった。生贄とは、人と神、ときには王、国家という、より大きな概念への隷属の証であったのかも知れない。そのために犠牲となる者は苛烈な苦しみを求められ、それは人々の目に明らかであるほどに目的を成した。生贄を行う時、人々は世界を支配する神と一体化しながらも、神への隷属を確認した。
生贄の必要性はさきの例に見たように、ひとつの理由からなるものではないが、その加虐性は、彼らが所属する世界への隷属という要求で説明ができるかも知れない。
少年愛」もまた、少年を年長者の権力の元におく制度のひとつであったのだろうと思う。ルネサンス期、日本では江戸時代あたりの同性愛の文化は、強い父権社会の制度的少年愛からは変容しているように見える。けれども同性愛はいろんな人が深く研究しているような印象があって、ここでは後世の同性愛が父権的社会に生まれた文化のものとイコールではないという見解を示すにとどめ、踏み込んで書くのは避けておく。

*1:wikipediaでは「戦士社会」に関連づけられ編集されているが、要出典、独自研究?のタグがつけられている。戦士社会において顕著に見られたというのは学術的な裏付けがあるわけではないということだろうと思う。