本歌取りとサブカルチャー
ロコローションとオールディーズ
ORANGE RANGEのロコローションを初めて聴いた時、思わずクスッとしてしまった記憶がある。
カイリー・ミノーグのロコ・モーションが元ネタだという人もいるけれど、私が知っているのはリトル・エヴァの方で、メンバーたちもおそらく、そちらを聴いて育ったのだろうと思う。
イントロがより似ているということもある。カイリー・ミノーグは80年代のユーロビートシーンで活躍したが、リトル・エヴァは60年代の歌手で、今はどうか知らないが、私が子どもの頃、沖縄ではオールディーズを好んで聴く層があった。ORANGE RANGEのメンバーたちからは少し上の世代になるんじゃないかと思う。子どもたちが聴く音楽なので、しっとりしたバラードより、ニール・セダカやビーチボーイズの明るい曲などがよく聴かれていたように思う。
しばらくして、この曲にいわゆる「パクリ疑惑」が浮上して、権利者と相談の上、現在では「ロコ・モーション」のカヴァー曲ということになるようだ。
この件に関しては、当人どうしがそのように解決をはかったわけで、今更善し悪しをのべるつもりはないけれど、私の中ではいろいろと考えるきっかけになった。
パクリなのかオマージュなのかという線引きは曖昧なものでかなり難しく、一般的には該当作品への敬意があるかどうかがポイントになっているようだ。
ロコローションを例に出したのは、パクリかオマージュかの線引きの判断材料となる点をいくつか拾うことができそうだと感じたからである。
ロコローションに対して私が悪い印象を覚えなかったのは、元の楽曲がすぐに分かったこと、リスナーが元ネタをすでに共有していると想定していたからだ。けれども、彼らの地元とたとえば東京では事情が異なり、全国区ではあの曲を盗作と感じる人も多かったのだろう。私が初めに抱いた印象と、周囲の実際の反応の差というのはそこから生まれたものだろうと思う。
元となる作品への敬意という点もひとつなのだが、パクリかオマージュかという問題では下記の点も重要ではないかと思う。
- 元ネタが明らかであること
- 元ネタを共有できる層がいること
前者は、冗談は分かるように言わないと怒る人が出てくる、というのと同じで、なるべくそうと分かりやすい方がオマージュとして受け入れられやすいという程度のことであるが、後者についてはその意味は大きい。
例えば、無名の新人の作品をベースに新たな作品を作ったとして、そこに酷似性が認められるなら、やはりそれは盗作と受け取られるだろう。作品にネタを盛り込んだ時に、元となる作品の価値をある程度の人が理解し共有していることが重要なのだと思う。なぜなら、元となる作品を織り交ぜることで、作り手は受け手と元ネタの評価を共有することができる、その愉しみが、オマージュというものの本質だと思うからだ。
渋谷系の向こう側
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最近、小沢健二「LIFE」の元ネタがまとめられていて、やはりパクリだというコメントを見かけた。何割かそういう言及がされるのは仕方ないことだろうと思う。
しかしながら、私が、小沢健二やフリッパーズ・ギターの楽曲をオマージュよりだと思うのは、元となる楽曲に気づく人々がマニアックな洋楽を聴く層であり、彼らがそのイントロや歌詞を耳にしてほくそ笑んでしまうような「秘密」の共有がそこにあるからだ。
渋谷系という音楽は彼らの楽曲だけではなく、その影響となった背景の音楽をも暗に含めていた。彼らの聴く音楽を、彼らの作品を通して共有し、また、彼らを入り口としてその音楽世界の厚みにふれる。あるいは、そのクローズドな共有が、他方では嫌われる要因であったかもしれない。
本歌取りという文化
日本画の展示を見に行ったのをきっかけに和歌の本を読んでいるのだけど、日本美術の多くは、その主題を和歌や古典作品に求めている。もとの歌がないというのは、無学というか、野暮ったいものと感じられていたのではないか。
江戸時代の絵師 俵屋宗達は、書家 本阿弥光悦とともに「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を作った。この代表作に限らず、宗達の作品には、和歌・古典への深い理解と教養があり、そこから花ひらく独自の世界を作り上げている。後に琳派の創始者と位置づけられるようになった宗達の、和歌・古典を元として展開される世界観は、彼に私淑した絵師たちに引き継がれることとなった。
いにしえの作品を土台にとるという文化は、絵画にとどまるものではない。元をたどれば、和歌そのものがそうであった。
「本歌取り」とは、ある歌を土台にして新たな歌を詠むことで、もととなる歌は誰でも知っているような古歌である。心情を歌うやまと歌は、時代が下ると、いにしえ人が詠った歌をもとに組み替えて新しい歌を詠うような、古典のたしなみといった側面をはらむようになっていった。
前が本歌で、後がそれを元に作られた歌である。古歌を尊重しながら、後世においては修辞の技巧が磨かれた。歌に詠まれる地名(ここでは天香具山)は”歌枕”と言い、後世でも繰り返し詠まれたり、絵や工芸品のモチーフとなった。
この本歌取りについて、白州正子はその著書*1で、おうむ返しの文化を次のように解釈する。
古事記には、雄略天皇が葛城山にのぼった際に、こだまが人の姿となって現れる伝説が記されている。人の言葉を繰り返すこだまを、日本人は神霊のなす技と感じていたのではないか。信仰から起こった”おうむ返し”の形式は本歌取りに引き継がれ、和歌のみならず芸術全般にゆきわたったのだろう。
しかしこのように深層を読みはからなくても、「故人と親しく付き合う喜びにあふれており、更に当代の歌人たちとも、古歌を通じて語り合う愉しさが感じられる」という言葉で、充分説明に足りるように思う。古歌を踏襲することでいにしえとつながり、それらを介して同時代の人々と心を通じ合わせる。この時間と空間を越えた対話が、本歌取りの文化にある魅力なのだろう。
古歌に現れる題材は歌枕となり、象徴化されて、歌や絵、工芸品の表現に引用された。担い手どうしのやりとりのなかで出来上がって行くルールを、巧みにあやつって新たな作品を生み出す。
純粋に思いのままを表す芸術というものは、万葉集の世界には見られた。しかし時代を経るにつれて言葉の技巧に徹していくのは、たとえば江戸絵画が機知的・デザイン的であると言われるような、日本の芸術が持つゲーム性の側面を説明しているように思う。
本歌取り文化のこれから
ASCII.jp:初音ミクは日本の伝統芸能だった (1/6)
ボーカロイドが日本の伝統芸能に似ているという説はすでにいくつかとなえられている。掛け合いを楽しむという舞台と客との関係性が、今のニコニコ動画ににているのだという。
ひとつの作品が支持を得ると、それに関わる二次作品が沢山つくられるというのも面白い。「歌ってみた」では、歌い手が「自分の新作です」と言ってしまったことにより、オリジナルをないがしろにしていると批判がでることもあって、常につきまとう問題のひとつではあるけれど、基本的には「歌ってみた」「演奏してみた」「踊ってみた」「描いてみた」などの作品は、オリジナル作品の敬意をもととしている。(またはそうであるように求められる空気の中で、容認されている。)
和歌には本歌取りに限らず、連歌・返歌といった、ひとつの歌に呼応して新たな歌が展開していく文化があり、これがボーカロイドの派生作品の状況に似ていると思うのだ。
著作権は各国によって違いはあるが、最低限は作者の死後50年ということになっていて、それに満たない作品の取り扱いは、著作権の侵害にあたらないように配慮を行う必要がある。漫画・小説の二次創作については、権利者が申し立てなければ罪に問われない「親告罪」の形の中で半ば容認されているが、TPPによる非親告罪化を懸念し、権利者(原作者)が、二次創作活動を一定範囲内で認める「同人マーク」の試みも始まろうとしている。
http://commonsphere.jp/archives/286
一方でボーカロイドについては、初音ミク他の製造・販売者であるクリンプトンが早くからガイドラインを決めていて、商用でなければ二次創作可、商用の場合は申請が必要としている。作品素材を投稿できる「PIAPRO」では、投稿者が自らライセンスを選択・付与することができる。
ちなみにパロディについては、米国ではフェアユースのもとで許容されると解されている。
本歌取りに細かなルールが定められているように、原作に敬意のない模倣は昔から批判の対象であったようだが、現在においてその文化は、権利意識との狭間で、より慎重なふるまいが求められるようになった。
もちろん、創作活動における引用は権利者・原作の敬意のもとで、その侵害のないように行われる必要があるが、しかしながら、オマージュ自体が悪であるように見なす批判を目にすると、その潔癖さは私たちが育んできた文化を消し去ることにならないかと、寂しい思いを抱かせる。
ある作品に対する共通の評価を、創作者と受け手が共有することが、オマージュであり、本歌取りに見る「おうむ返し」の文化なのだと思う。
先にあげたニコニコ大百科の「オマージュについて語るスレ」も、読んでいていろいろと考えさせられる。「オマージュが許されないなら、日本のアニメは手塚治虫で終わっている」というのは、真実だと思っていて、文芸作品にはとくに、古典作品や有名作品の展開や主題の引用も少なくない。小説や映画は、その中にいくつもの文脈を持つので、別の作品からの引用があっても、イコール盗作であるとはとらえられにくいのかも知れない。その点で音楽は、出だしのイントロが似ていると、盗作と呼ばれてしまうように思う。
日本の美術工芸品の中に生きる古典への敬意と価値の共有というのは、古典・和歌に疎い私でも、作品を見ることでその向こうに広がる日本文化の深みにふれるようで、感慨深くさせられる。そこから遡って古典作品に挑むのもまた愉しいことである。
渋谷系についても、あの頃、彼らの音楽に影響を受けて、田舎住まいながらフレンチポップスや海外の小さなレーベルの輸入CDを取り寄せたりした。
創作作品にしのばせる、同種ファンへのメッセージとその秘密のやりとりが、それと知らず批判されてしまったり、結果、萎縮の方向に傾いてしまうことは悲しい。
オマージュ・おうむ返しにある文化的価値というものを、多くの人が意識するようになればいいなと思う。