美術館には行ったけれど、なんとなく書きそびれた記事をざっくりアップです。
今年は一ヶ月一回くらい見に行けるといいな。と思って行きたい美術展をスケジュールに書き込んでいったら、毎週うまって驚きました。案の定、文章書くの遅いので、ブログには追いつかず、でもどこか書き留めておきたいし。って、会期が終わったのがほどんどですが、まとめてみた。
美術館には足繁く通ってますが、あきっぽいので、1年くらい続けばいいかな。来年の今頃、美術館に通える環境にいるかも分からないので。それまではせっせと通ったり記事書いたりしようと思います。
若冲と蕪村展 サントリー美術館
サントリー美術館で開催された若冲と蕪村展。なかなか見ごたえのある展示でしたが、のろのろと書かずにいたのは、私にとって蕪村がちょっと難しい存在だったから。
同じ年の天才という副題のとおり、伊藤若冲と与謝蕪村は同年の生まれだそうで、京都の四条烏丸の辻を挟んで、住んでいた場所もかなり近い。同じ時代、同じ界隈の空気を吸って絵を描きながら、二人並べてみると、全く異なる絵師のように見えてしまいます。
図録もひかれたのですが、けっこうな厚みで、代わりに聚美という雑誌を買って帰りました。これが面白かった。若冲と蕪村、同じ時代に生きているので、影響を受けた絵師というのは実は似通っているのですが、そこからそれぞれに模索がある。
蕪村の面的な筆触や、銀地の撥水効果・塗り残しといったマチエールへのこだわりは、画風の確立として意識したものであること。工夫をこらして表現を追求したことがしのばれます。若冲も国内外の技法をあくことなく求めて取り入れている。それぞれが競って切磋琢磨した画壇の活発さを感じさせます。
江戸絵画を知っていくとしばしば名前を見る、沈南蘋の作品が見れたことも満足した点。水墨の世界に濃淡の美しい色彩がアクセントになって、重厚な印象の作品。またどこかの美術展で会えるかなあ。
若冲についていうと、野菜の涅槃図が面白かった。若冲の描く植物はマニエリスティックと書いてあって、笑ってしまった。内面性の強調のあまり、体のねじれや伸縮を誇張してしまうマニエリスム。青物問屋の跡取り息子だった若冲には、野菜にも内面性を見ていたのかもしれません。
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2015_2/
大 関ヶ原展
初日から大入りと風の噂を聞いて、夜間開館をねらって行きました。ちょっと駆け足の鑑賞になったけど、すごい面白かった。音声ガイドが石田三成と徳川家康の対話形式になっていて、展示の補足にとどまらない、展示品とガイドで二層のコンテンツになっているような面白さがありました。
BBCの番組で前にガリア戦記を取り上げたものがあって、カエサルとウェルキンゲトリクスの戦いを、双方の支持者が解説する構成。ついウェルキンゲトリクスの方に感情移入するのですが、進展が対等に語られるので、気持ちが翻弄させられる。海外ドキュメンタリーでかなり好きな番組です。
大 関ヶ原展もまさしくその構成。じわじわと策略をめぐらせていく家康の政治手腕に唸りながらも、石田三成や彼に最後まで尽くした武将たちの廉直さに、感情を傾けずにはいられません。
秀吉の死をきっかけに文治派、武断派の対立は、いよいよ不穏な空気を帯びていきます。戦いの前夜から運命の合戦、そして豊臣家を遠ざけるまで、関連の品々を展示。この先に長い徳川の世が、そして明治維新が待ち受けていることを思えば、歴史を変えた戦いと称されることもしみじみと理解されます。
秀吉の辞世の句、合戦の前に発せられた家康への告発文「内府ちがひの条々」など、生々しい書面を見ていると、合戦に向けてゆっくりと運命が傾き、やがて一気になだれ込んでゆく歴史の流れを感じるようで、ぞくぞくしました。
展開とともに活躍した各武将の逸話と愛用の品(具足や刀剣)も展示。歴史好きの人にはたまらない展示会だったんじゃないだろうかと。あと、刀剣がね。けっこうな人だかりでしたけど。一口に刀と言っても、そりとか波紋とか、切先の長さとか全然違って。名槍蜻蛉切は、とくに目を引く美しさでした。
そんなところで根津美術館で開催予定の江戸のダンディズム展。おもに刀剣の展示となるようで、さてはねらったかと憶測を向けてしまいますが、興味はひかれます。講演会もあったりして。行きたいな。
http://www.museum-cafe.com/exhibition?event_id=36240
マグリット展
シュルレアリスムの中でも情緒を感じる作品があったりして、現代美術には疎い私でも、マグリット展を知ったときは、これは行こうと思ったのでした。13年ぶりの大回顧展の出展数は130展、あらためて見ると、あれもこれもマグリットだったのかと。一度は見たことのある作品が揃う回顧展でした。
当時、キュビズムや未来派などの表現が次々におこり、マグリットもその技法を試みました。その彼の人生を大きく変えたのが、ジョルジョ・デ・キリコの「愛の歌」。この作品との出会いをきっかけにマグリットは、技術的な方法ではなく、何を描くかで既成の枠を越えようとしたのでした。
絵の前であれやこれやと論じている人たちもちらほら。マグリットの絵には、寓意の読み解きとは違う哲学的な問いが隠れています。例えば言葉とイメージの置き換え。エドガー・アラン・ポーのファンだったマグリット。聖書を意識して西洋絵画を見るように、推理小説の感性で作品を見ても面白いかも。
マグリットが好んだ手法に、複数の言葉を問いにして関係性を解くというものがあります。”傘”と”コップ”という関連のない単語を題目として、答えから主題を導く。彼自身は”典型的な小市民”だったというマグリット。突飛な世界を描けた裏には、主題について独自のルールがあったのかもしれません。
初期の作品「風景の魅惑」や「恋人たち」は、核心を描かないことによって想起をうながさせ、鑑賞者の視線を自己の内面へと向かわせています。時代が進むにつれ、その手法はレギュレーションが明瞭になり、作品の問いかけは研ぎ澄まされていくようです。
見ているのは風景か、描かれた絵か、といった混乱を覚えさせる「人間の条件」や、枯れ木を一枚の葉で描いた「絶対の探求」、空は昼なのに、風景は夜を描く「光の帝国」などが、好きな作品でした。
秋の頃だったか、ふと集合住宅の坂の上に、ぽっかり大きな月が浮かんでいるのを見ました。見慣れた風景に、丸い月が我が物顔に浮かんでいて、思わず自転車を止めてしまった。しばらく眺めて、シュールっていう感覚は、日常が強固であるからこそ成立するんじゃないかな、なんて思いました。
日常の向こう側を見る不安感。マグリット展は、日常がもつミステリアスな面に気づかせてくれます。
映画「ヴァチカン美術館4K/3D 天国への入口」
渋谷ル・シネマで上映された「ナショナルギャラリー 英国の至宝」と同時期、シネスイッチ銀座では「ヴァチカン美術館4K/3D 天国への入口」を上映。ナショナルギャラリーが面白かったのでこちらも。
美術館に関わる人たちへのインタビューでみっちり構成される英国ナショナルギャラリーとは違って、ナレーションが誘うゆったりした映像のつくり。平面の絵画が3D演出なのは賛否ありそうだけど、建築や彫刻は目の前にあるような臨場感です。システィーナ礼拝堂とか奥行き感じられて良かった。
ヴァチカンといえばカトリック教会の総本山なわけですが、ヴァチカン美術館には古代ギリシャ・ローマの美術品が多数保存されています。古典文化への回帰でもあるルネサンス。後期にはオリンポスの神々を描くことが、異教の神への信仰と見られ、風当たりが厳しくなりました。
そのヴァチカン美術館にローマ・ギリシアの美術品が収蔵されているのは意外でしたが、その一方で、イタリア美術のルーツは、否が応でも古代ローマ・ギリシアに辿り着くのだなあとも思わされました。
ラオコーン像に始まる美術品の物語は、ルネサンス期に古典美術の完成された美をなぞらえ、それを越えようとしたミケランジェロや、カラヴァッジョによって、肉体と調和の美をめざした芸術の円熟期を迎えます。彼らによって聖書に描かれた人物は表情を持ち、人々の感情に訴えるようになります。
前半は美術の流れ、後半はルネサンス期の二大巨匠、ラファエロとミケランジェロに視点をおきます。
ミケランジェロをライバルとみなしながら、深い尊敬も抱いていたラファエロ。彼に触発されながら、ラファエロも深いテーマへと挑みつづけます。一方で、常に自分に挑み、孤高に偉業をなしとげたミケランジェロ。その高みをめざした果てにたどり着いた「最後の審判」と、その迫力。
肉体美の誇張がときに体の大きなねじれになって現れる様子は、のちのマニエリズムにつながっていくようでもあります。古代ローマ・ギリシア文化への憧れと、聖書の世界の迫真たる再現。その二つがあわさって花開いたルネサンス芸術、という印象を持ちました。