日々帳

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映画の感想 - ストレイト・アウタ・コンプトン

ふだんの映画館と客層がちがうことで話題のストレイト・アウタ・コンプトンを見てきました。
ところはガルパン爆音上映が好評の中、同じく爆音上映を企画してくれた立川シネマシティ。

はじめはシネ・リーブル池袋の小さなスクリーンでまったり見て、とても良かったのでもう一回くらい見に来たいな、立川とかで爆音上映してくれたらいいのに。と思ってたら、本当に上映してくれたので、少ないファンにも手厚いサービスを怠らないスタイルに感動して、立川まで行ってきたのでした。

カルフォルニア州南部コンプトン。アフリカ系やヒスパニック系が多いこの地域では、貧困の度合いが高く、ギャング抗争でその名を知られるなど、米国で最も犯罪率の高い地域のひとつ。

クラブで退屈なラブソングをかけながらも、自分のレーベルを持ちたいと考えるドレーは、麻薬の売人で蓄えのあるイージー・Eに、投資をしないかもちかける。暇さえあればノートに詩を書き綴っている友人アイス・キューブを見込んでいたドレーは、彼の詩でラップをやれば当たると考えていたのだった。

そうして結成されたN.W.Aは、自主制作アルバムで話題になり、さらに音楽マネージャー・ジェリーとの出会いで、スターダムに駆けのぼる人気ラップグループとなっていく。地元の友人どうしで始めたローカルな音楽は、当初の想像をはるかに超え、全米を巻き込んでの社会現象にまで発展する。

FBIに危険視され警告を出されるほどの影響力をもち、リアルな日常を歌うギャングスタ・ラップを世界に広めたN.W.A。その成功とそれぞれの道、挫折と、そして"その後"の物語。

 
単純に青春譚として見てもいいと思うのですよ。くすぶっている日常をいつかは打ち破ろうと、寄り合ってああだこうだ音楽談義を交わしたり。イージー・Eは酒瓶を抱えながら、小さい体をソファーに沈めて、「満足させてくれよ、出資してるのはおれなんだからな!」と猫みたいな顔で笑う。

ところが夢叶って大人の事情が絡んでくると、当時の無邪気さはいつしか失われていく。でもそれぞれの中に、かつての日々はずっと残っていて、やがて再結成の話がおこり——二度とはもどらない、「あの日」を追い求めるような、切ない物語でもあるのです。
 
といってみたところで、やはり音楽モノの色が強いでしょうか。感想など見聞きすると「あのエピソードは実際とちがう」「美化してやがる」「当時あんなこと言ってなかった」などと言いながら、結局楽しむのがどうやらツウの見方っぽい。いかんせん詳しくないと、どこまで事実なのか分かりませんね。

あとは役者陣も見どころかと。アイス・キューブ役は本人の息子が演じていて、クールでいかつい感じとかもうそっくりで。イージー・Eの人なつっこい憎めない雰囲気。あと地味に2Pacが似てるという。(二回目見るまでの間にMVやインタビューやレビュー記事を見たり読んだり)
 
音楽もよくて、初ライブのシーン「もっと重低音を!」で、轟音上映ならではの「ずん」という響きに痺れる感じ。デトロイトの観客の盛り上がりと、「F・ザ・ポリス」の始まった時のかっこよさ。終盤ライブがなくて寂しく思っていると、ラストに実際の映像・インタビューが曲と一緒に流れてきて。

迫力ある音もよかったけど、帰り際あらためて大きなスクリーンを見上げて、ほんと立川シネマシティーは良心的な映画館やな! としみじみ思ったのでした。
 

感想

私自身はヒップホップ詳しくなくて、ローリン・ヒルのアルバムをむかし買ったくらい。よく「図書館にいそう」とか「畳の部屋に住んでそう」言われる文化系なのですが、それでどこが面白かったのかという、需要のなさそうなところにフォーカスして感想を書きたいと思います。

つまるところ彼らの物語は、アイデンティティーをめぐる物語なのであると。
むかしNHKで、鉄屑などの廃棄物からアート作品を作る、アフリカ系アメリカ人のアーティストを紹介していたことがあって、いわく、彼は自分のルーツをアートの中に探しているのだそう。

そのルーツというのは、他でもない、遠く離れたアフリカ大陸のことです。その「ルーツを探す」という言葉につよく惹かれた記憶があります。自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか。その手がかりを、奪われた故郷を描くことで見つけようとしている。

けれども映画の中で(実際の楽曲でも)、アイス・キューブは「おれらをアフリカ大陸に帰らせたがっているんだろうが、そうは行かねえぜ」というようなことを歌うのです。彼にとってのルーツはどこか。遠く離れたアフリカ大陸か。そうではなく、ここ生まれ育ったコンプトンだと。

その土地に住んで、二世代、三世代と経てゆけば、そこに文化やコミュニティーが生まれます。そこに生活があり、人生があり、思い出がある。自分を形づくるものは揃っている。そもそも祖先のルーツにこだわって遡れば、建国240年ほどの国で、いったいどれほどの人が残ろうか。

今ここにある風景が自分自身である。それがいいとか悪いとかではない。喧嘩で銃が出てきて、麻薬が簡単に手に入って、警察に反抗的だと逮捕されて。彼はコンプトンの一部だし、コンプトンは彼の一部である。

コンプトンなんて誰も興味もたねえよ、とアイス・キューブの詩を拒否したラッパーたちは、主流の文化に自らを寄り添わせることで、彼らの本来持つ独自性を失わせてきました。

反対に、その日常をストレートに歌ったアイス・キューブは、コンプトンというインナーシティのあるがままを、ローカルの中に閉じ込めずに、ひとつの文化としてくっきりと輪郭づけ、彼らの仲間とともに、世界的なムーブメントにまで押し上げたのでした。

ここに(ギャングスタ・ラップという形をとって)コンプトン発のカルチャーがはっきりと形づくられたのです。また、この映画の面白いところは、「自分自身であること」を形づくろうとするとき、その痛みがきちんと描き出されていることです。

多少ストーリー展開にふれますが、イージー・Eとドクター・ドレー、アイス・キューブはそれぞれの選択をします。ユダヤ人マネージャとともに、あるいはコンプトン出身者と、またあるいは契約会社の方針を掌中にしながら、それぞれにレーベルを運営していく。

アイス・キューブは分裂の原因を「ユダヤ人の分割統治」と揶揄しました。搾取する側である白人に手なづけられるままにいるのか、しかし自分たちで何とかしようと試みても、彼ら自身のコミュニティーは問題が多く、その中でさらに弱いものを虐げる未熟な構造のままに荒廃してしまう。

「おれたちはコンプトン出身者だ」と歌うことだけではない、その先、世界を相手に振る舞うとき直面する問題があって、おのおのが選びとった道で、自分自身であることの誇りを賭けて戦う。

アイデンティティーとはどこから来るのか。いつか私は、自分の祖先をたどることで、それを浮き上がらせることができると考えていたのでした。

けれども、それだけではなく、いびつでも今ある自分がそのまま自分であると知ること。だからこそ、その先へ行こうとすれば、他者との衝突があり、自己の否定があり、何かしらの痛みがともなうのだということ。

もちろん映画はそんな大層なことを描くことが目的ではなく、自分たちの痕跡を残したいという、メンバーたちの思いで作られているのだろうと思います。

けれども彼らの葛藤と模索は、弱いコミュニティーの人々が外の世界に出て行くとき、強い人々に都合よく利用されたり、かといって彼ら自身に頼れば、その未熟さに引き裂かれそうになる、そういった世界中いたるところにあるものの濃密な姿のように見えます。

物語を通してヒップホップ音楽にも詳しくなれる作品ですが、自分自身が強靭になることで成功していくアイス・キューブと比較して、ドクター・ドレーは多くの若い世代を育て上げることで、その地位を確固たるものにしていったように感じました。

限定的ないち地域の日常をカルチャーに形づくり、さらにはそれを世界に通用する音楽ジャンルとして育て上げた彼らの物語は、ルーツやアイデンティティーをめぐる物語そのものでもあるように思うのです。

関連URL

ドクター・ドレーと彼の周辺のミュージシャンたちを紹介。めっちゃ読み応えある。映画内ではドレーが2Pacに「California Love」を聴かせるシーンがあるけれど、あの短いシーンでファンの人たちは、ああ…と、いろいろ回顧するのだなあと思ったりしました。

息子が自分の役を演じると決まってから、度々電話をかけて、演技指導したり当時の話を聞かせたというちょっと面倒くさいアイス・キューブ父親っぷり。かつての父を息子が演じるって、それも感慨深いなあと思わせる、存在感ある演技でした。というか二人とも厳つい。

イージー・Eの当時の映像とかないかな?と探してたら、彼の生前のインタビュー映像をあつめたチャンネルがあって、なんか感激した。

ロサンゼルスの危険地帯を紹介。これ読むと、間違ってもコンプトン行ってみようとは思わなくていいですね。
コンプトンはギャング抗争が有名で、一方は赤いバンダナ、もう一方は青いバンダナが目印なのらしい。映画の中のロス暴動のシーンは、時間をわりあい割いて描かれていましたが、警官に立ち向かっていく住人たちが、赤と青のバンダナを結んだものをともに掲げている絵が印象的でした。