日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

鴨居玲展 踊り候え@東京ステーションギャラリー

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鴨居玲「出を待つ(道化師)」(1984年)個人蔵 *東京ステーションギャラリー 広告 / 会期は終了しています。

こんな夢を見ました。男がみんなに200円ずつ配っている。200円だったかどうか定かではないけれど、そういうたいしたことない金額です。すべての人に配り終わると、男はどこかへ去っていきますが、にわかにこんな噂がたちます。最後の所持金で、この世界のヒエラルキーが決まるらしい。

ただの噂にすぎない。けれど情報に敏い人たちから先に行動を起こすのです。所持金を集めて増やせる人に運用を任せる、など、夢なので詳しくは覚えていませんが、とにかく対応しようと騒々しくなる。

私もその情報を持っている人たちの中に入らなければ、落ちこぼれてしまう。手元の200円だけで何も対策をしなければ、時間がきたときに、下層に位置づけられてしまう。そのことが恐ろしい。けれど、どうしても彼らの中に入る気になれない。不確かな情報に今更飛びついたって、その情報網の末端であることには変わらない。そのプライドのために、助かる見込みにすら手を伸ばせずにいる。

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東京ステーションギャラリー鴨居玲展を見た帰り道で、ふとその夢のことを思い出しました。
とても良い作品ばかりだったけれど、何かずっと違和感がある。

ホドロフスキーという監督がいますが、その作品を最近見まして、異形の人ばかりでてくるのです。
彼の作品は異形のものたちのファンタジーという感じがしていて、フリークたちはその世界の構成員として存在している。彼らがメタファーとして負うものが何かというと、ひとつは、アウトローである監督自身の反映なのではないかなと思うのです。

鴨居玲の作品も、スペイン時代には、酔っ払いや老婆、手足のない人など、そういった周縁の人々ばかりを描いている。展示会で繰り返しでてきた自画像という言葉のように、彼らは大通りから外れて歩いてしまう、画家自身の反映だったのだろうと思います。

フランス時代には、パリの気風を反映してか、明るい色彩になります。このころ、紙風船や蛾に驚く中年男の姿を描いています。この作品が個人的には一番好きで、さっと目の前に現れた蛾に驚きながらも、その小さな命と自分自身を見比べているようです。おれもおまえと同じだな、と。

鴨居がなぜ執拗に自分自身を描いたのか。自画像は一種のナルシシズムの現れである場合があります。けれどその逆に、自分自身にすみつく闇から目をそらせずに、老いて、ときに病んだ姿を、ありのまま描こうとする画家もいます。鴨居の自画像は、後者のケースではないかと。

ただ、彼の場合は、自身の闇を掘り下げようとしたのかというと、少し違うような気がします。彼は自身の自意識を、打ち消したかったのではないか。ときに道化の姿で、ときに酔っ払いの姿で描いた自画像は、自分が何者かであることを、求める気持ちの否定であったように感じられます。

鴨居自身が自我の強い人だったとは思いません。それよりも自我に煩わされることを、より嫌ったかもしれません。若いころの作品にも自我への抗いという、悩ましさが感じられます。しかし、それでも生きる限り人は自分を求める。自我を否定し続ける先にあるのは、自分を消し去ることだけではないか。

絵を描くことについて尋ねられて、「見る人の人生を変えるような絵を描きたい」と語った鴨居は、別の日にはその言葉への後悔をもらし、本当は金がほしいだけだとこぼしたといいます。どちらも本心だったのだろうと思います。けれども彼は、その語りの中に、他者に見せる自分を感じてしまった。

違和感が拭えないままの帰り道、ふと、あの道化師の顔に喋りかけられるような気持になりました。
——こっち側はダメだよ、そっちの日の当たる通りを歩きなさい。

何者でもない私が、何者かであるふりをしながら生きている。そのことを許しつづけているのは、おのれの中のナルシシズムと鈍感さなのだろうと、そんな風に思いました。