日々帳

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ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし | 東京藝術大学大学美術館

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フィンランドの女性画家ヘレン・シャルフベックの個展を見に、上野へと行ってきました。
ダブルインパクト展のときも思ったけれど、この季節は公園も緑もきれいで、美術館までの道のりも歩くだけで気持ちいい。

アンニュイにこちらを見る自画像にひかれるものもあって、楽しみにしていた展示会。
けれども想像以上に感じるものも多くて、ヘレン・シャルフベックという女性の生涯に、うたれるような気持ちになりました。

今回も気に入った作品をかいつまんで、展示会のメモとしたいと思います。

魂のまなざし

ロシア帝国下のフィンランド大公国に生まれたシャルフベックは、フィンランドの国家としての生成期に立ち会いながら、パリ滞在の経験から、19-20世紀フランスやイギリスの美術の潮流を自己の中に熟成させ、独自の画風を切り拓きました。

早くから素描の才能を見出された彼女は、フィンランド芸術協会の素描学校に11歳の異例の若さで入学。18歳のとき描いた「雪の中の負傷兵」で、パリ留学のきっかけを得ます。

記念碑的作品となった「快復期」は、パリ万博で銅メダルを獲得し、彼女を国際的な画家に押し上げました。病床の少女の眼差しは、若い木の芽に注がれ、心身ともに回復に向かっていることを予感させます。荒い筆致で描く印象派の画風を取り入れて、一瞬の光の表情があざやかな作品。

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「快復期」(1888年フィンランド国立アテネウム美術館

展覧会を通して、その存在を大きく感じるのが、19世紀に英国で活躍した画家ホイッスラーです。
シャルフベックの初期の作品には、イギリスでおこったラファエル前派の影響を見ることができ、この辺の作品が好きな人も多いんじゃないかなと思います。

礼拝堂の内部を描いた「扉」では、統一された色彩と、そのコントラストによる構成に、ホイッスラーとの共通性が見られます。さらに「お針子(働く女性)」が、ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメントN01(母の肖像)」をもとに描かれただろうことは、疑いようがありません。

シャルフベックの作品にシンプルな構図は初期より認められますが、黒から灰色への無彩色の階調は、彼女自身の好みだったか、はたまたホイッスラーの影響か。色彩、構図ともに制限された禁欲的な表現は、画面全体に静謐さをたたえ、同時にモダンさをも感じさせています。

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「お針子(働く女性)」(1905年)フィンランド国立アテネウム美術館

その後の彼女の人生には、生涯交流をもつことになる、二人の男性との出会いが待ち受けています。
画商ヨースタ・ステンマンは彼女の作品を直接買い取り、また晩年には彼女が制作に意欲を傾けられるよう、「お針子(働く女性)」を再解釈した作品を依頼します。

パリで活躍したマリー・ローランサンの作品を紹介したのも、ステンマンだと思われます。このころ女性をモチーフにした肖像画を多く描いているのは、ステンマンの好みもあるのかな? と思ったり。

当初、男性にひけをとらないデッサン力で歴史画などを描いたシャルフベックでしたが、徐々にモチーフが女性へ変わるのは興味深く感じました。彼女は自身を深く見つめ続けた画家だったのではないでしょうか。女性を描くことは彼女にとって、自己の女性性を見つめることではなかったかと思うのです。

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「断片」(1904年)ユレンベリ美術館/「フィエーゾレの糸杉」(1894年)フィンランド国立アテネウム美術館

シャルフベックが出会ったもう一人の男性が、年下の画家エイナル・ロイターでした。絵画について彼と意気投合したシャルフベックは、ほどなくロイターへの恋心を抱きますが、出会ってから2年後の夏に彼が別の女性と婚約したことで、その恋が成就しえないことを知るのでした。

しかしロイターとの友情はその後も途切れることはありませんでした。生涯にわたり手紙のやり取りは続き、晩年の彼女が制作意欲をもち続けられるよう、彼は美術図書を送り続けました。

彼女との手紙のやり取りから、どうやらロイターは同時代のノルウェーの画家ムンクを高く評価していたらしいことが伺えます。彼がシャルフベックの作品に見ていたのは、ムンクのような深い内面性だっただろうか、などと思ってしまいます。

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「横顔の聖母(マグダラのマリアの横顔)(エル・グレコによる)」(1943年)フィンランド国立アテネウム美術館

ロイターから送られてきた本からシャルフベックは、エル・グレコの作品に、とくにインスピレーション受けたようです。もともと関心の深かったセザンヌとの関係性を見出し、再び情熱をもって絵筆をとりました。晩年のシャルフベックは、エル・グレコを再解釈した作品を集中的に描いています。

83歳まで生きたシャルフベックは、アカデミックな画風に始まり、表現主義へと作風を変えていきました。それはおそらく彼女を語るとき、名前のあがるであろうムンクローランサンといった画家との、時代の呼応を見るような変遷でもあります。

雑感

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シャルフベックが恋に落ちた19歳年下の画家が、別の女性と結婚をしたのは、彼女が56歳のとき。それ以後も二人の友情は続きましたが、シャルフベックはこの失恋に深く傷つき、長く苦悩したようです。
孤独を深めていく作品に、彼女自身とても感じやすい心の持ち主だったのではないかと思いました。

3歳のとき階段から落ちて以来、杖なしでは歩行できなくなった彼女は、そのため学校には通えず、家庭教師に勉強を教わりました。恋人に婚約を破棄された20代、私に普通の女性の夢は叶わないのかと嘆いたというシャルフベック。彼女はどこか普通になれなさを抱えて生きたのではないかと思うのです。

イミテーション・ゲームのときも思ったことですが、孤独になりやすさをもった人っているんじゃないかなと。何をきっかけに孤独になるのかは、それぞれ違うけれど。ただそのきっかけで、たやすく孤独の向こう側を歩いてしまう。

晩年には彼女は静かな田舎へと移り住み、より静謐な環境で制作を続けました。彼女が友人ロイターへ宛てた手紙では、自画像を描き続けることについて、自分の内面に向き合うことは辛いことなのに、また描いてしまう——そうせずにはいられない苦しみを告白しています。

彼女はホイッスラーをはじめ、象徴主義の先駆者ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、セザンヌエル・グレコ、ベラスケス、レンブラントなど多くの画家を参照しました。

表現という行為の海の底に沈んでいく彼女は、地上の光のうっすらとしか届かない場所で、巨匠たちとの魂の対話を続けていたのではないでしょうか。手紙や作品に見られる、巨匠たちの作品の絶え間ない引用には、そんなことを感じずにはいられません。

彼女に絵画の才能が与えられたことは、果たして幸福だっただろうか。最後の展示室で、自分自身の問う声に、すぐには答えられませんでした。それでも、その絵筆の力が、彼女が見つめ続けた自己との果てのない対話や、魂の傷を、跡にして残したのだろうと思いました。

その他

社会学をかじった人ならご存知の「フィリップ・アリエスの近代子供観」と「シャルフベックやムンクの病床画」を分析するテキストや、国家成立に物語としての美術を必要としたフィンランド芸術協会とシャルフベックの関わりを考察するテキスト、友人に宛てたシャルフベックの手紙などがおさめられていて、けっこう満足な一冊。

http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a11.html
まとまりきらなかったこと。
オディロン・ルドンとシャルフベック:水墨画の即興性と音楽
・ホイッスラーとシャルフベックとぼかし
エル・グレコとシャヴァンヌ、セザンヌ:宗教性と象徴主義
・女性性の多様性をとらえること
・年齢と魂の響き