日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

六畳一間から見る空は。

このところ、桐島聡氏のニュースばかりタイムラインに流れてくるので、積極的にこの報道を読み込まなくても、なにか言葉にしきれない哀しみのようなものが日がな心に漂っている。

保険証が云々と騒がしい話題がひととおり過ぎ去ったあと、長く残るのは白檀の香り、みたいにしつこく沁みついて離れない。

早々に捕まって刑をまっとうしたほうが、少しは救われた人生を歩めたのではないだろうか。
どこかで読んだところによると、恵まれた家庭に生まれたことに背徳を持っていて、そこが事件の動機に繋がっていたとも聞くから、世捨て人のように生きることが償いだっただろうか。

通っていた店があって、案外普通に生きていたような証言もあって、どこかほっとするものもある。一方で具合が悪くなっても病院には行けなかったし、仕事を辞めるわけにもいかなかった。彼は自分の末路を、それなりに受け止めていただろうけど。

どこか善人の雰囲気や、真面目ゆえにはまり込んだ袋小路にも見えて、あの時の自分たちの起こした事件を、その後の人生でどう振り返っただろうか、知りたいおもいもある。

あの時代に革命と言って行動を起こした人たちの思想を、私じしん嫌っている部分がある。昔は「革命かっこいい」と思ってた気持ちもあったと思うんだけどな。でも、方法を間違ってしまうと取り返しのつかないことになる。むかし、アルカイダがどうして興ったのかって番組を見てて、あのエジプト政府の民衆弾圧の中からテロリストの萌芽が生まれてくるんだけど、その動機には共感しても、手段には同調できない。悲しい選択だと思った。

また権力側は、彼らの過激化する行動を利用して、さらなる弾圧の正当化に繋がってしまうんだよな。だから、どんなに時間がかかっても、どんなに根気が必要でも、われわれは「共感」によって世界を変えなければいけないのだと思う。そこをたやすくもぶち壊してしまうテロの手法には、やっぱり怒りを感じる。

連合赤軍日本赤軍は違うという話でタイムラインがワイワイしてて、そうかと思って眺めていたんだけど、関連記事の中で、テルアビブ空港事件だったか、犯人の証言として犠牲者にたいして、世界が変化することに伴う犠牲だととらえていたという話があった。

どこかで自分たち以外がモブ化しまうような、つまりそれはあまりにも主観的な世界で起きたことなのだと思う。誰かにとっては別のものがたりがあり、別の景色があることを、想像できなかった。その独善的なものの見方を許してしまったのは、「正義」ということなのだと思う。

2022年には、安倍元首相を狙撃した山上徹也氏の事件が起こった。テロか否かでは異論があるものの、事件当初わたしが感じた思いも、テロに対する怒りと同じものだった。

おりしも参院選の投票日直前、選挙の結果に大きな影響を与えるだろうと思ったし、翌日にはもう弔い選挙の様相を呈していた。世界を変えるために、暴力という方法では成せないのだ。

しかし救いは、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題を根気強く追い続けていた弁護士とジャーナリストがいたということだ。

彼らの積み重ねたエビデンスがなければ、あの事件はむしろ反感しか呼ばず、日本があやまちを犯したエバ国として、その主権をかれらの神の国に「復帰」することを信者に説き、政治家に秘書を送りこみ、選挙応援をする宗教と、この国の自民党はじめ多くの政治家が、持ちつ持たれつの関係となっていたさまが問題視される状況は、さらに遠のいたかもしれない。

そういうことから考えても、いかに時間がかかり、突破口が見えないままでも、人々が納得し共感する道を選び続けるしかないと思う。

しかし、あれから半世紀が過ぎ、ぽつぽつと彼らのその後が語られる時代になった。

ついこないだまで統一教会がこの国の首相と懇意であったことを思うと、あるいは裏金還流問題や増える国民負担率など、政権末期と感じるものの、支持率は頑なに他の野党勢力を引き離す状況を見ると、たしかに左派は敗れてきた50年だった。それにはかつて人々の共感が離れることとなったこうした事件の存在は大きいと思う。

理想を目指しながら、権力闘争に堕していく。闘いの中には、つねに敗けもなければならないのかもしれない。立場の異なる人の声を聞き、ある時はそれを飲み込み、粘り強くともに未来を切り拓く努力をする。

良い未来のためにはゴールの共有が必須だと、いつも思う。ともにそのゴールに近づけば、互いに勝利だし、一人だけの勝利にこだわれば、ゴールは遠のく。自分が勝つかどうかは、ほんとうは問われなくていい。そういうのを、まあ、全体最適解というらしいけど。

いろいろ言っても5文字で解決してしまうよね。

で、イスラエルの空港で自爆テロを起こして生き延びた岡本公三氏は、いまも政治亡命者としてレバノンで暮らしているという。

現在75歳、パレスチナ解放人民戦線は彼を英雄として扱い、世話を続けているそうだ。しかしこの事件では26人の乗客が犠牲になり、生還の望みの無い自殺的攻撃だったことが、イスラム過激派の自爆テロという手法へ道を拓いたのだとする説もある。

多くの宗教で自殺は罪なんだけど、日本ではその思想は薄いというか、むしろ「死ぬことと見つけたり」という死の美徳みたいなのはずっとあるような気はするよね。

www.cnn.co.jp

イスラエルがガザを攻撃してまもなく4か月になろうとしている。いくらハマスを理由にしようとも、報復も連帯責任も国際人道法では許されていません。幼い子どもたちがミサイル攻撃にさらされて良い理由にはならないのです。

でも、この歴史はわたしたち多くの日本人の知らないところで50年も続いていたのだな。そして50年前にパレスチナの側に立って命を懸けた日本人がいたのだな…… それは、世の中のいびつさを是正するどころか、余計にもっと複雑に、いびつにさせてしまった。評価はしないけれど、でも、と複雑な思いが残る。

繰り返し思うエピソードがある。太宰治はいつも家にあがりこんでくる近所の人がいたんだけど、飯食って帰るみたいな傍若無人を大目に見てたんだそうだ。それは良い家庭に生まれ育ってきた自認のある彼の、貧しく弱きものへの罪滅ぼしであったというような話。

どこで読んだかな。あの思いがずっと胸の奥にある。貧しく弱い者の側に行って、ともに座ることなどできないことも分かっている。だからといって上から施しをやったり、さげすんだりもできない。ただその傍若無人を受け入れることが、自分の贖罪なのだ。

世界のいびつさを眺めながら、その現実にいかに向き合うべきだろうか。欺瞞にまみれぬよう、正義にまみれぬよう。祈る以上に何ができるだろうか。

中村哲さんみたいな生き方ができるといいんだけどね。それにもノウハウというか、技術を学ぶ力は必要な気がするな。

平均を歩く~道の先にあるもの

おれには野心がないんだよ、とその人が言うのを聞いてから、私の中でも何か燃え続けていたものがふと灯りを落としたような気がする。

こんなことを言うと、みんな頑張れなくなるからな。続けるところまでは続けるけど、先の地図は白紙なんだよ。人ひとりの存在の求心力というのは大きいんだなと思った。翌日の、式典の形式ばった挨拶を上の空で聞きながら、この先の道は一人一人が歩いていくしかないんだな、私は別に、一緒に歩こうと思ったわけでもないのに。

それでもあの時、それは賭けのような判断で、結果は勝ちが出てしまった。この場所を箱舟に例えて考えれば助け合うほうが最適解なのに、頑張れと言われて放り出されたような感じもする。それも甘えか、人の倍、成長しないとだめなんだな。

バトンを渡すと決めたら、あとは若いみんなを目を細めて眺めるように穏やかに、期待しているぞと言うのはずるいではないか。

いつだったか仕事を辞める上司が私たちを呼び出して、「僕は誰もやらないことも率先してやった、それが自分の成長にも周囲の信頼にもつながっていったと思っている」というようなことを言ってきたことがあったけれど、どんなに仕事をクソほど真面目にやっても一定の評価の域を出ずくすぶってる私に向けられていたのだと、あの時の息苦しさを思い出す。

彼は正しかったのだと思う。私に天から配られたカードの役は弱く、これでは企業の中ではどう頑張っても認められない。そこを超えるには、人のする努力のその上をいかないといけない。当時もおせっかいにもほどがあると感じたものだが、普段はどこか計算尽くしている冷静な人に見えたから、よほど言っておかねばと呼びだしたのかもしれないと微かに思う。

分かってはいるけれど遅すぎた春で、もうその会社にそれほどの忠誠心を持てなくなっていた私は、それから間もなく会社を辞めた。

けれどもあの言葉は、今でも繰り返し思い出される。影のようにどこまでもついてくる。私を置いて先に行ってしまう人が、ずるいと思う。あなたのように器用には生きれないのに。

二つの道をシミュレーションしている。いっそのこと今の仕事を辞めてしまえば、空っぽになった分、新しいことが私の中に入ってくる。そういうことを望んでいる自分もいる。ある程度、無理の効く年齢のうちに新しいことを始めるのもいいんじゃないかな。

けれども、待て待てという声もある。あなたに賭けた人たちがいたのだ。オセロゲームの重要な位置にあなたがいて、ここをひっくり返されてしまったら、取り返せないことになってしまう。そのことも分かっている。「いちばんやりたくないことをやるんだよ」と、声が聞こえる。分かっている。

なんと未熟なのに、そんな重要な位置に自分がいるなんて。「誰もやりたがらないことを率先してやった」簡単に言うけど、大変なんだよ。やればやるほど、自分の未熟さがさらけ出される。できなさを毎回乗り越えられるほど、そう強くはない。ごまかしながら生きるほどに細かい傷が増えていく。

それなのに、最後に立っていたときだけに、あなたが声をかけてくれるのだとも思う。傷ついていないふりをして立ち続けるしかないのだろう。

なんだ、私はもう、あなたが降りるなら、私も降りてやろう、いつかは分からないけど、その次の道を見て歩いていこうと思ったのに、なんだか逆のことを書いているな。

子どもの頃は大人しくて声も聞いたことないと言われてたけど、社会に出てから、その経験を取り戻すように人と話す仕事ばかり選んだ。一番やりたくないことをやる人生なのかもしれない。

それでも、このレールはどこまでも続いているものでもないかなという気もしている。いや、レールの終わった先を見ている人生の方が、健全のような気がしている。あなたの言った「野心がないんだ」という言葉が、私の中に響いてしまっている。

人の倍やって結果を出そう。誰もやらないことをやって、強いカードに替えていこう。レールが続いていると思うことをやめよう。ゲームは一回ずつ勝っていこう。その先に次のゲームが待っているかなんて、誰も分からない。いつかこのゲームを降りる日だって来る。

その時、あの影のようについてきた言葉が振り切れているように。

強いことと弱いこと。

弱さと強さについて考える。

子どもの頃、人と話すとかも思いつきもしないでいた。
近所のおばちゃんに「あんたの声はじめて聞いた、話せたんだね」とか言われたりした。

自分がヒエラルキーの中に入っても大丈夫っぽいって思ったのは中学校の終わりくらいで、高校のときもずっと大人しかったけど、友達とかはいて、漫画描いて見せあいっこしてて、それなりに幸せな時代だった。

大学のときに「このまま大人になったらやばくない」みたいな意識がやっと出てきたりして。

人生が苦しくなったのはたぶんこの辺から。でも多感な時代でもあるから、いろんなものが繊細に美しくも感じてたんだけど。

20代のとき、面接に行ったら「正直、君たちいらないんだよね」みたいな感じでさ。てか、もう忘れたんだけど、どんな風に言われたか。ただ、あー自分って別に社会に必要な存在じゃないんだなみたいなのはさ。

それで、すごく雑多なお仕事をたくさんやった。電話のクレーム対応とか、夜、グランドピアノで演奏してる感じのお店とか、一階が手品で二階にバニーちゃんのいるお店とか、電気やさんのキャンペーンガールとか、ま、そんな程度。

でも、自分にとっては大事な経験だったなと思う。自分に対する物差しが、その時期にできてきたかなと思う。特別でもなく、でもがんばればそれなりに社会に居場所は見つけられる。

そのあと、安定した仕事にも就くんだけど、いろいろあって、東京を引き払うことになった。

東京では、根を張ることができなかったな。糸の切れた凧みたいに生きていくには、若いうちはいいんだけど、年取ったらちょっとしんどいなって予感が、年々増してきた。

田舎の生活はいいも悪いもあるけど。ひとところではそれなりに仕事の評価はもらえてきて、それが、ここはここの規模でもらえてる感じ。今は、もっと個人として安心したいな、大切な人たちを大切にしたいなって気持ちがベースにあるんだけど、その一方で社会的に期待される役割が大きくなってきて戸惑っている。

世界を引き受けるなら、もっと本気で生きてかなきゃだし、まだその踏ん切りつかないし。

昨日だか、家路を急ぐ途中でふと思うことがあった。辺りは冬の夕暮れ。個人差はもちろんあるけど、人って案外強靭なんじゃないかな。だから、抑圧とか、ストレス与えると、それなりに成長していく。

なんだ、そんなこというとどっかのスパルタ塾みたいな考え方だけど、どういえばいいんだ。

物心ついたときのスタートは人よりずっとハンデがあって、後ろの方からのスタートだったけど、それなりに生きてきたし、10代は正直ぼんやりしてたけど、そのあとは割と自分に圧力かけて生きてきたかなと思う。

でも、たとえばむかし働いてた会社で声が出なくて、いま思えば場面緘黙症なんだけど自分で分かんないんで、発声を教えてくれる教室みたいなところに行った。したら、そこの人が電話でのやりとりのテストをしてくれて、コールセンターにもいたことあったんで、そこは普通にできたんだよね。

で、「あなたはそれなりに話せるから、グループワークとかでは嫉妬されてしまうかも」と言われて。だから、たぶん境界的なところにいたんだよね。

そしたらあとは、自分でがんばるしかないじゃん。だから人と話す仕事ばっかやった。話上手にはならなかったけど。

自分を成長させたかったら、新しい環境におくといいっていうじゃん。いきなり本番を何回もやって、そしたら絶対へたしたくなかったら準備したりしてね、そうやって成長してく。

なんか成長する条件ってあるんだよ。自発的に、負けたくないな、結果を出したいなと思うことが前提だけど。冬に力をため込む花のつぼみみたいに、ぐっと耐える時間が花を咲かせる。

なんでそんなこと急に書こうとおもったんだろ。繊細さって自分は大事と思っていて、風とか光とか、音とか、美しく感じる力って生きる実感そのものでもあるから。そう感じるにはゆとりも大事だし。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、みたいな感じ。努力して思うような結果になるわけでは必ずしもないけど、努力しなければ結果はでない。ひとは基本成長するようにできていると思う。

でも不思議と傷ついたり、なにか時間とかコスト的なものを犠牲にしたりしたくないから、努力しきれなかったりするよね。アドレナリンが人より少ないのかなと自分で思うこともあるし。

じゃあがんばりすぎて壊れないのかつうと、心が感じることを優先して大事にしていくことが大切なのかな。何事も適宜だけど、人はちゃんと成長するようにできている。と、来年はがんばるか的な、12月らしいことを書いておこう。

[書評]瓜を破る

子ども時代以来ほとんど漫画と縁遠く過ごしてきたのが、このところ履読数が増えているのは、たぶん漫画を読む電子環境が整備され普及してきたから。

とくにTwitter(現X)では電子コミックのプロモーションばかりが流れ、週末の午前中など読みふけってしまうこともあり、ずいぶんと良い顧客になっている。

込み入った設定やハードなテーマの多い少年コミックはSNSと紐づくには少々分が悪いように思う。息抜きに読むには、意外な二人が恋に落ちる恋愛コメディくらいがとっつきやすく、少年ジャンプと少年ガンガンで育ったアイデンティティはどこへ行ったやら、最近は過去イチ、少女コミックを読んでいる。

しかし少女コミックというのは、並べれば1から10まで「ハイスペイケメンになぜか好かれてしまう平凡な私」ものである。ヒロインが愛想のないマイペース女子なので、割合さっぱり読めるのだが、相手方のステータスの高さは捨てられない設定なのだなと思う。

女性向けコンテンツほどポリコレ批判から不思議と安全地帯にあるものもないなと思うことがある。別に表現物すべてがポリコレに従う必要はないのだけど、歌劇「サロメ」とそれに感化された19世紀絵画が、ミソジニーの典型であるわねと思う程度には、女性向けコンテンツにも昭和の時代から変わることのないコンサバティズムを感じるものである。

そこを踏まえて表題作は、確かに異色である。恋愛の相手がおおよそハイスペック貴人である他の少女コミックと比較して鑑みれば、見紛うことなき弱者男子である。しかしながら描かれることは、やはりコンサバティブの範疇にあることは否めない。

1話には、主人公の香坂さんの「30代になっても処女のまま、恋愛音沙汰なしで、このままでは結婚もできそうもない」という呪詛にとらわれ苦しむ姿が描かれるが、物語を通して呪詛から解放されていくかというと、そういうこともない。

むしろ呪詛たる「既存の価値観」の中で救われていく物語であり、既存の価値観の呪詛の強化にもなりかねない。いや確かに香坂さんは「体が目的ではないから」と思いとどまり、まず先に相手のことを知ろうと努める。この描写がまた丁寧に描かれているのも印象的で、半ば無理を言って鍵谷さんの部屋に上がった時の、その人となりがそのまま伝わる一人部屋に言葉を失くす場面では、相手の生きてきた時間への「知らなさ」に気づかされる彼女の心理が描かれる。

友人の理乃にも釘を刺されるとおり「焦らず、大切にしてくれる人とやったほうがいいよ」と、それなりに「大切なのは、お互いに大切にしあうこと」というような教訓はあるのだけれど。

さらに言えば、鍵谷さんサイドから考えると、出会いに関して努力があったかというと、むしろ恋愛に向かう展開に引いている経緯がある。この物語は「既存の価値観」の中で救われていく物語ではあるのだけど、読み手に自己変革を示したり、新しい価値観を提示するものではなく、慰撫され癒されていく物語であろう。

そこを差し引きながら読んでも、時代をとらえる鋭敏な感性と丁寧な心理描写に引き込む力がある。正直1話を読んで、2話を読もうと思う人は少ないのではないかと心配するが、鍵谷さんなるキャラクターが出てくるあたりから急に面白味が増してくる。

というか、この物語は、とある企業の広報部で働く香坂さんとその周辺の人たちの多様な人生模様を描いているのだが、登場人物各々の「恋と仕事、それぞれの物語」を飛ばし読みしてしまうくらい香坂さんと鍵谷さんの展開が良い。

ひとつには「既存の価値観で救われていく」癒しの物語であるということもあろうし、今一つは、鍵谷さんというキャラクターの中にあるそこはかとない氷河期世代感に、私じしん共鳴しているのかもしれない。

大人しく冷静な反面、社会に擦れることを避けて育った鍵谷さんは、26歳の時に夢を諦め、それ以外に生きていく道を見つける器用さもなく、半ば余生を生きるように契約社員として都内近郊で細々と暮らしている。

その生きづらさは「個人の問題だろう」と言われそうだけど、何か、レールを外れてしまったときの生きて行けなさとか、それを当人が自覚している、そういう生き方の人を何人も見てきた。

厳密に言えば、氷河期世代よりは、その後のリーマンショック期に社会人になりたての世代かもしれない。ブラック企業に入り、逃げるように辞めるか、病んで辞めるか、会社がつぶれるか。その不遇を、努力が足りなかった、または自分の生まれつき何かが足りなかったと諦めて、「既存の価値観」の中で幸福を得ていくことを、遠い幻想として向こうに押しやる。

非モテ論争というのはインターネットの由緒あるお題で、非モテが救われるためには煩悩から解脱すればいいのだ論と、おれたちは今の価値観で救われたいんだよ論があるのだなと昔思ったことがある。

ネットの人たちは「煩悩から解脱せよ」という趣旨の主張に「リベラルの非モテ論」と言って批判していたけれど、救われたさがあるうちはまだ良いのではないか。煩悩から解脱したほうが、楽だなと思う域というのもあるのだ。

ただ、あの時代が誰かと出会って恋愛をして、結婚をするという時期だった頃、既存の価値観の中で、もっと救われる人がいたらよかったと思う。

私も思えば、無職の人をときに叱咤し励ましながら、ぶじ就職して社会に戻っていく人に付き合ったことがある。ブラック企業を辞めようとして違約金のようなものを請求され、裁判をして和解したあと、しばらく立ち直れず、長らく無職となっていたのだった。

悪いのは会社だったかもしれないけれど、立ち直るのには個人の力が必要なのだった。そしてそこに友人や恋人や、誰か支える人がいることは幸いなことなのだ。

そういう時代だったなと思う。今の若い人がどうか、分からないけど。あの頃を振り返って重ねて見れば、香坂さんの振る舞いや価値観に多少コンサバティブなきらいはあっても、鍵谷さんが救われていく過程は、どこかしら「私たちの物語」でもあるのだ。

知らなかったけど、来年からドラマ化されるらしい。ちょっとマイナーな感覚の漫画だなあと思っていたので、ドラマ化とな。どんなふうになるのか見たいような見たくないような。

最近好まれるお仕事ドラマは、ちょっと大変でもキラキラしているものだけど、鍵谷さんみたいな冴えないお仕事ドラマも見てみたいよね。週末の過ごし方とか、初デートでひとりで良く行くお店につれていったら、あ、一人で行く店ってそこ?みたいなのとか、良いよね。

コミックのほうも物語は進行中だけど、一見幸せそうな二人に見えながら、不穏な陰りもあって、割と当初から丁寧に差し込まれて描かれる香坂さんと鍵谷さんの社会的格差も、今後ひとつのハードルとして立ち現れてくると思われる。

単語にすればきついテーマを持った物語だけど、ストレスフルな展開は少なく、孤独や生きづらさを柔らかくほぐしていくように描かれるので、何度も読んでしまうのかもしれない。

週末に三回読みなおして、急に昔あったあれこれ思い出して、最後にちょっと泣いた。あのとき出会ったみんなが、いま幸せだといいな。

平均を歩く

議事録の残る会議で事実と相違のある説明があって、「再度、皆に説明する機会を作りましょうか?」と打診すると、担当の人は上長と相談したうえで、個別に説明することで収めるのだと言う。

事務方に無理を言って調整しかけていたので、あらら、良いのねと、どうせ定時も過ぎているし、やりかけの書類をあらかた仕上げて廊下に出れば、もう照明も落ちてしんとしている。

フロアの向こう奥で残業組の明かりが点り、また残業してしまったという感覚が、懐かしく思い起こされた。

役所の人は窓口時間の30分前に受付を締め切るのだと不満をもらしていた友人に、残業しないためのテクニックなんだよなと内心ひそかに思ったことがある。

民間企業と役所の違いがどれほどあるか分からないけど、あの頃、仕事量は減らないのに「残業を減らせ」という上司に内心怒りながら、それならと編み出したのがクライアントからの依頼を終了時刻30分前に締め切るという方法だった。

もちろんクライアントはご不満になるが、手を動かすスタッフたちを定時であがらせるために、クライアントにしつこく事前周知を行い、遅れたら翌日に回すと徹底することで、よほどの緊急がなければ定時後30分程度であがれるチームになっていった。

しかし残業が削減されると「リソースが余っている」とみなされ…と、これ以上、前職の思い出にはふれないが、中間管理することにテクニックとある種の怒り…もとい情熱が必要ということを学べば、仕事の効率化や業績アップに個人の努力を強いることが、どれほどマネジメントの敗北なのかという話なのだ。

だが、それほどまで残業は仕組みでなくせると知っていても、残業してしまう人というのはいる。自分自身が完全にそうなのだけど、「今日の仕事を整理して、明日に備えたい」とか考え、時間に追い立てられず、拘束されず、今日の仕事が整頓されてから帰りたい。

なので、チームとしては残業が減ったが、自分自身の残業は減らなかった。深夜残業組のシマに明かりがぽつぽつ点るなか帰るのは、なんとなく懐かしいようで、あの頃、詰め込んで仕事をしていた気持ちが思い起こされた。

それでも外に出れば、薄暗くなった空に、遠く入道雲が稜線にかすかな夕暮れの色をひっかけて浮かんでいる。ここは実質時差一時間の南国なのだ。それに少しばかり遅くなっても、たかだか夜の初めの時間。あの頃と今は、ずいぶん違う。

詰め込んで仕事をするのが好きだったな、と思った。宵の風は少し秋めいて、冷たく感じた。

納品物があって、期限があった。帰宅前に明日のタスクを整理して、ある程度の準備をし、朝はメールをさばきながら投げれる作業から投げていった。定量的なゴールがあって、いかに品質をあげ、いかに回転率をあげるかを考えた。

今の仕事にはその実感がない。イベントに出るとか、誰それにご挨拶に行くとかいうことが重視され、解決すべき課題が飛び込んできた時に、どこかほっとする自分がいる。

自分の中のKPIみたいなものを変えていく必要を感じているけど、なかなか進路変更できずにいる。今のルールで結果を出さないといけないのに、まだ定量的ゴールの達成感を必要としている。

この仕事を選んだ時もう人生は壊れていると、先輩にあたる人が言った。狂った羅針盤で進むような人生。でも、かつての羅針盤を、私は捨てられずにいるのかもしれない。

クライアントから成果物の対価をもらうこと。雇用主から労働の対価として給与をもらうこと。その社会的な繋がりの中で自己のポジションがあり、初めはほぼ匿名のような個人から、信頼を得て仕事を得ていくこと。

社会のほとんどの人たちがその営みに生きて、その中で己の評価をし、感情を揺れ動かしながら、自己を形成していく。

今の仕事に就いてから、初めのころ頻繁に考えていたのは、人は鈍感になるのが生き方としては楽なのだということ。そしてそのためには、日常のほとんどを忘れ去っていくと良い。

しかしそう分かっていても鋭敏にならざるを得ないのは、私たちはつねに自己を見つめ、他者との違いを測り、他者の群れの中でバランスをとっていくからだ。他者とのはざまで、自己のあり方やふるまい方について、つねに微調整しつづけていくからこそ、他者にアンテナを張り、その摩擦に鋭敏にならざるを得ない。

記憶とは、そのためにあるのかもしれないと思った。日常細かなことを記憶し、無意識の中に整理し、積み重ねていく。深い層の下で、しかし記憶は、世界と自己とのバランスを取り続ける鏡となる。

鈍感になれば楽なのに、結局自分は鋭敏さを完全には捨てられないだろう。

荒れ狂う海原では、羅針盤はもう必要ないかもしれない。おのれの感覚を磨き、波との綱引き、風との綱引き、星のしるべを頼りに大胆に乗り越えていく方が楽なのかもしれない。

そうとは思いながら、この波がおさまった時に羅針盤を失ってしまっていたら、本当のいのちの危険はそこにあるかもしれず。結局私はふたつの道をシミュレーションし続けている。

これから波はさらに高くなるだろう。私は怖がりなので、ふたつの人生に備えるのだろう。でも今はひとたび羅針盤を閉じるときなのかもしれないとも思う。

駐車場の車に近づいたとき、薄暗がりで自転車から「おつかれさまです」と声をかけられた。自転車の人は通り去って、知り合いなのか、知り合いではないけれどそこに人がいたから声をかけたのか、よくわからなかった。

それでも少しだけ、これから頑張ってみようかと思うから、人の心は簡単だ。

神様は意地悪だから、たくさんのものを与えて、いつか奪い去っていくのだろう。
今、与えられたものは使命と思って懸命に真摯に消化するしかない。
新しいKPIも、羅針盤なしの人生も、どこまで行けるのか分からないけれど、今はもう少し歩いてみようか、と思う。

あなたの中の美しさ(について)

こういうモノづくり動画大好き。ずっと見ちゃう。ツイートでは「伝統的な日本のティーポットの制作」みたいに言っているんだけど、まあふつうに見ても、日本の人じゃない感じはするよなーってのはあるよね。

でも、ポットの胴体部分を作り始めたあたりで、これはどちらかというと中国の美的感覚っぽいな~と思っていたので、リプライで「中国人ですよ!」「中国江蘇省の宜興紫砂ですよ」などなど突っ込みが入っているのを見ると、当たってた!!!とちょっと眠気が覚めた。

東京にいた時に美術館は足繫く通って、日本や西洋の時代ごとの美の基準はある程度分かるのだけど、最後まではっきり分からなかったのが、中国の美の基準だった。

というのも、水墨画などとなると、日本の美と、中国の美と、その中にある美意識や精神的な美の違いを、はっきり見つけることができなかったから。

例えば朝鮮半島については、江戸中期に伊藤若冲などが作風に取り入れていて、朝鮮の規範的な美とまでは言わないけれど、日本(という朝鮮の外界)から見た朝鮮の持つ独自の美については、垣間見ることができる。

そういうこともあって、自分の中で、ずっと見つけられずにいた中国の美の意識については、片付けられない宿題のように心に残っている。

唯一の手掛かりは焼き物について。中国の陶磁器は、おうとつのない滑らかな面をして、色合いも乱れやムラ、曇りのない澄んだ色をしている。中国の美はどこか端正で、欠けのない、緊迫感のある美だ。

いっぽう日本の焼き物は、その正反対を行く。でこぼことした面に、ずんぐりした形、わざと複数の色が混在するよう刷毛で乱暴に塗って、意図しない偶然からできた模様を「風景」と呼んだ。

もちろん、そのような無秩序の美は、日本の美術史において一貫していたわけではない。ある時代、とりわけ戦国時代が終わりを迎え、江戸時代へと入っていく時期に強く現れた。
京焼など、薄造りで華奢さをもった華やかな焼き物もあるけれど、織部焼などはやはり、なぜ当時これを美としたのか、強く興味をそそられる。

鎌倉時代から武士の時代となって、一方、時代の対流の中で新興の仏教が興ってくる。鎌倉仏教は、時の政権と緊迫関係にあり、時に近づきながら、存在感を強めていった。

戦国時代においては仏教徒勢力は、僧兵などの武装集団でもあったということは、現代でもよく知られていることだけど、それだけに必ずしも時の政権になびくものでもなかったよう。

当時、宗教の存在は政権と一体ではなく、むしろ政権に相対するものであった面も感じられる。

安土桃山時代千利休は秀吉の怒りにふれて切腹をら命じられるが、理由はよくわかっていない。ただ、きっかけは何にせよ、千利休の存在感の大きさが秀吉に危機感を持たせていたのだろうとは定説であろうと思う。

江戸初期に洛中から洛北鷹峯に移り住んだ本阿弥光悦も、その理由を、徳川家康から体よく洛外に追われたのだという説がある。光悦はともに信心していた法華宗徒を連れ洛北へ向かい、光悦村を築いた。

この16年前には法華宗不受不施派(信仰のない者からの施しを受けない)が江戸幕府から禁制を出されていて、そのことが遠因ではないかともいわれる。
法華宗は政治権力になびかず、長らく受難の歴史を歩んでいる。

こういうような背景を見ていくと、当時彼らが工芸品に現した美は、権力に寄り添うものではなく、むしろ権力から独立を保って凛としようとするものだったのではないか。
と、ふとそんなことを悪戯に思いつくなどした。

絵画で言えば、狩野派などは日本画壇の中心であり続け、江戸時代には幕府の御用絵師として役割を果たした。その画風は、中国宋・元の画法を元にした「漢画」からの影響が長らくあった。

日本の権力の中央における芸術は「漢画」「漢文」など漢文化が基軸で、中央から距離がでるほどに独自の画風が出てくるように思う。町人や商人がおもな担い手となった「やまと絵」などは、身近にある素朴な草花の情景を描いた。

さらに、本阿弥光悦古田織部といった江戸初期の芸術家にいたっては、政権になびかなさも持っていたとするなら。

日本の江戸初期の焼き物にある、そろわなさや乱れ、あえて欠けやずらしを配する美というもの、権力からの距離感として、それらが現れてきた可能性を思う。

やまと絵をはじめとした日本の美術にある素朴さや機知性や、見るものへの対話性は、その国の人の気質という面ばかりではなく、美の担い手と権力の距離といった時代性からも興ってきたものではなかったか。

私は日本の美術品が好きで、とくに焼き物に見る「無秩序の美」は格別だと思う。また、やまと絵にある機知や、侘び寂びといった静けさに感じ入るような感性も好きだ。水墨画にあるおおらかさも好きだと思う。

こうしてみていくと、今の日本人像とは少しかけ離れているようにも感じる。日本人は真面目で、丁寧で、どこか潔癖なところがある。

江戸時代、朝鮮半島の官僚の人が日本に来たら、通りで女性たちが隠れもせず水浴びをしていたということで、驚き、さげすんだという記事をよんだことがある。そういうずぼらさや大らかさが、昔の日本にはあったのだなと思う。

では江戸時代が終わり、明治時代が始まっていく中で、何が変わっていったのだろう。この時代の美術品を見るのは、時おり心が苦しくなる。西洋の価値観が流れ込み、日本が世界を知って動揺し、かえって日本を強くしようと抗う時期。

美術の世界でも「日本人らしさ」や、この国とは何か?を探しもとめはじめ、西洋からの逆輸入で日本の輪郭を描いていこうとする。その時に、日本らしさと中国らしさが入り混じって、シミュラークルな日本像が出来上がっていってしまう。

あれから日本は「大日本帝国」としての道を歩きだし、美術工芸と政治権力は近づき、表現のもつ伸びやかさは失われてしまった。単純大まかにいえば、そんな感じがする。

なおタイトルを「あなたの」としたのは、私は中国人でも、やまと人でもないので。かといって琉球人という思いがあるわけでもない。

HIPHOPの誰かの言葉で、おれらはアフリカ人じゃない、かといってアメリカ人というわけでもない、サンフランシスコで育った、それが自分のアイデンティティだみたいな話があって、それが感覚的に近いかも。

最近は「沖縄」についてそんなことを考えている。形から沖縄と自己アイデンティティを確立しようとすると、かつての日本がそうだったように、シミュラークルなものにならざるを得ない。

今、この時代を生きることとして感じていることの表現や共有を大事にしたいと思う。また、もうひとつ踏み込んでいうなら、歴史を知ることもすごく大事かなと思う。

かつて琉球という国だったこと。二重宗主国であった時期と、アヘン戦争で力を失っていく清国。琉球処分を受け入れざるを得なかった経緯。先島分割。そして沖縄戦ひめゆり学徒隊、鉄血勤王隊、戦後のケーキや、米軍統治下時代・・・

と、違う話になったのでこの辺で。

それぞれの中にある美の意識を大切にしていきたいし、それには相手を知らないうちからも尊重し、よりよく知りたいと思うことが大切。

そういう間柄であるといいな。