日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち @ 東京都写真美術館

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2016年秋からリニューアルオープンした東京都写真美術館。「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展はなんとなく見送ってしまったので、リニューアル後はじめての来館です。東京にきたばかりの頃、この美術館にはちょろちょろ来ていたので、当時を思い出して懐かしく思ったりしました。

渋谷のミニシアターで"アピチャッポンイヤー"と銘打たれていた2016年のはじめ、その一年の終わりを飾るアピチャッポンの美術作家としての個展。クリスマス・イブイブの午前中に出かけてきましたが、思惑通り、ほとんど人のいない静かな館内でゆっくり鑑賞できて満足でした。

とはいえ、改めて思ったのは、決して分かりやすい作家ではないなあということ。そういえば映画の方も、「よく分からなかった・・・」と劇場を出て、駅まで悶々と歩くうちに、いろんなことに気づいて静かに興奮するという、そんな感じなのでした。

今回も、政治性と個人性のふたつの側面をもつ”亡霊”がテーマなのだといいますが、政治性については誰かに解説してほしいところ。展示の中で印象に残った数点に関して、個人的な感想を記しておこうと思います。

「灰」――過ぎ去った光

医師だった父の診療所の写真や、透析を受ける父親を写したフィルムをへて入った薄暗い部屋に、20分ほどの映像が流れています。犬の散歩、日常の記憶の断片、お祭りの日の花火。

写真や映像に映し出されるのはいつでも、過ぎ去った過去の光です。しかし、映像として再生されるとき、過去の光はスクリーンの上に再生される。死者が、それにもかかわらず存在するとき、私たちはその存在を亡霊(ゴースト)と呼ぶ。

亡霊(ゴースト)は闇に紛れ、私たちにささやきかけるけれど、その影をとらえようと目を凝らすと、たちまち消えてしまう。脳のスクリーンに記憶という映像を映し出そうとするのに、幼い頃の記憶や昨日見た夢は、儚い火花のように、余韻を残してあっという間に失われる。

アピチャッポン監督の作品は、影や夢、過去の光といった、見ようとすると消えてしまうもののとらえどころのなさを、テーマに秘めているように思います。過ぎ去った光は、失ったものたちの欠片でもあります。生まれてからずっと何かを失いつづける私たちにとって、喪失を認識することは、自分自身の存在性を知ることでもあるのでしょう。

しかしはたして自分自身とは、失いながらも生きる今の私に宿るのか、それとも失ってゆくもののなかに宿るのか。考えているうちに混乱してしまうのでした。

花火(アーカイヴス)

今回の展示は、監督の映画作品との共通のテーマがあったり、あるいは映画に出演していた人たちが登場していたり、映画もいくらか見ているという人は、ちょっと楽しめたりします。

「花火」と題されたこの作品は、映画「光りの墓」のもうひとつの視点という感じ。眠り病にかかった兵士の生きる世界は、映画の中では映像としては描かれませんでしたが、この作品は、あえて描かれなかった眠りの中の世界を再現しているといえるかもしれません。

私たちの意識の外側に生きるものたち。それは夜、夢の中で目覚める影のような存在です。花火の閃光が一瞬だけ浮かび上げるその世界。二つの世界のダイヤルが合ったときだけ、過去と未来、昼と夜、それまで別々だった空間が重なり合う。

映像に使用された動物たちの彫像は、タイ北部の寺院の開祖が、冷戦時代に共産主義者と告発されてラオスに逃げた経験から、中央政府からの抑圧の抵抗として作ったものだという説明がありました。そこも「光りの墓」と相通ずるもので、抑圧された魂は別の次元で生き始めるというイメージが、監督の中にあるのだろうと思います。

サクダ(ルソー)

ライブ会場で語り始める青年。ルソーの記憶とサクダ青年のふたつの人格が交差します。この記憶は私のものだろうか、この体は私のものだろうか。生まれ変わったとき、私は私というもの、その記憶や経験性を持ち続けていられるだろうか。

画面が切り替わって、青年の語りがラジオからの音声として流れます。言葉や声は、彼の体を離れ、べつの機器から再生される。その声やその意思は誰に帰属するのだろう。自己同一性を保持するものが、少しずつずらされていく。

アピチャッポン監督の作品には、前世というキーワードも頻出します。子どもの頃から輪廻転生を自然のこととして受け入れていたと話しながら、知識のついた今では、その魂のとらえ方に冷静な面もあるようです。監督の作品の中で"前世"のワードが現れるとき、自分というものはどこまでが自分なのか? という問いが隠れているように思います。

私が私であること、その核のようなものが、映像の構成によってあえて分断させられ、問いかけられる(「世紀の光」)。「ブンミおじさんの森」の、ふと何かに呼ばれたように綱を解き野をかけてゆく牛や、「光りの墓」の眠り続ける兵士ーーもう一人の私の呼びかけは、前世という過去から、あるいは並行した別の世界から、私に向けられている声なのかもしれない。

深い森の暗がりから、夢の中のモノクロームの世界から、語りかけるその声に耳を澄ませる。アピチャッポン監督の作品は、そういったとらえがたい心地よさに満ちています。それに自己同一性のズレなど、SF的な要素も魅力なのかもしれない、と思った美術展でした。

東京・TOKYO

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この他にも二つほど展示がありましたので、あわせて見てきました。東京をテーマにしたコレクション展と、新鋭作家の作品展。

コレクション展は、ときに刹那的に時代を切りとる視線や、境界線を拡大させ、同時に均質化していく都市の姿など、さまざまな視点が東京に注がれていることに気づく展示です。締めくくりは「都市と戯れる」、東京というイメージをあれこれして新たなイメージに仕立てる。

東京の路地を切り貼りして模型を作る「フォトモ」の作品、結露した窓の向こうに東京を重ねた作品、都市に光のイメージを加えたもの、ミニチュア・ジオラマ風写真など、これまでの冷徹なカメラの眼とはちがった、表象を遊ぶような作品は面白かったです。

新鋭作家の作品もとても面白く、とくにスカイツリーを主題にした作品がとても気に入りました。個人的にはイマイチ感のあったスカイツリーの存在でしたが、この作品でイメージが変わりました。歌川国芳「東都三ツ股の図」にスカイツリーが描かれているらしいという話は、予知か偶然かはさておき、江戸時代にこのあたりが経済活動の中心であったことを思い起こさせます。

平安時代の絵巻や浮世絵にヒントを得たという一連の作品。複数の写真をつなぐことで、異なる時間がひとつの画面におさまっていること、ランドマークが画面バランスを決定づけること。

まるで名所絵の富士山のように、どの作品もスカイツリーは中央にそびえ、ふもとには花火を楽しむひとびとや、古い町家造りの商店が並ぶ通りなど、さまざまな東京の姿があります。しかもその光景は、夕暮れ時の美しい空の色にしずみ、さながら川瀬巴水の詩情ある夜の版画のよう。

また、渋谷や新宿で撮ったポートレイト写真も印象的でした。ブランド看板の下で一休みしているおじさんに撮影を断られて、酒とパンを買ってきて再交渉のすえ撮った一枚など。一枚一枚に被写体の人たちとの経緯のコメントがつけられ、さまざまなドラマがあることを知らされます。

そんな元田敬三さんの、繁華街のどことなくアウトローな雰囲気のある人たちを撮る作品もあれば、田代一倫さんの、東京の郊外や住宅街で普通の人々を撮った写真も。

誰かにカメラを向けるとき、自分自身に生まれる”権威”への意識は、相手に見返されるときに、とくに強く感じるのだといいます。その鋭敏な感性。東京の人々の日常は、逆算でその一瞬があるという。そうしてその計算しつくされた流れの中におさまりきれない自身のことも吐露されていて、文章も真っ直ぐで人を惹きつけるし、読ませるなあと思いました。

被写体ひとりひとりがこちらを見返すまなざしの温和なこと。無表情の人もいるけれど、静かに微笑みを向ける人も多くて、いったいどんな撮影交渉をしたのだろうと思ってしまいます。中には酔っ払ったところに声をかけられたのか「いいっすよー」と撮らせてくれた感じの人もいて、ほのぼのした気持ちになれました。

世界は生きづらいけれど、あなたに向かって扉が開くときがある。作品の一枚ずつ、その前に立つと、その瞬間を擬似的に体験するようです。これは写真集やウェブのアーカイブよりは、一枚の写真の前に同じ目線でたたないと、しっくりは分からないかもしれない、と思いました。

アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち
TOPコレクション 東京・TOKYO/東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13
東京都写真美術館
期 間:12月13日~17年1月29日
時 間:10:00~18:00(木・金曜日は20:00まで、1月2・3日は11:00~18:00まで)
休館日:月曜日
料 金:一般 1,620円(*展覧会セット券:新進作家展+TOPコレクション展+アピチャッポン展)

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東京の写真をたくさん見たあと、恵比寿駅周辺を歩いていると、ついつい街角を見る感性みたいなのが頭をもたげてきます。それで一本筋に入った通りなどを歩いて、風景にカメラを向けたりしたのですが、その気になってもうまく撮れるかは別ですね。どれもなんだかイマイチでした。

路上を観察することが好きという人の気持ちはとてもよく理解できて、けれどもそれを言語化したり映像化する力のなさをしみじみと感じさせられます。

さて夕方は、アピチャッポン監督の短編作品の上映があるということで、美術館にもどって短編映像を堪能しました。長編でも不可解なのだから、いわんや短編をや、と思っていたらその通りでしたが、インスピレーションの源という感じで、個人的にはとても楽しめました。

「国歌 the Anthem」は、どこに国歌の要素があったのだろう*1と思うのですが、バドミントンコートの中央で女性たちが内職をしていて、この訳の分からなさがクセだったりします。「M Hotel」はどうやら3つの異なる空間の音が、ひとつの映像の中に並存しているようです。ひとつの空間にある複数の世界線を、並存するノイズに想像する。

一番好きだったのは「エメラルド」という作品で、生活の匂いの残る無人の部屋を自然光の中に写しながら、複数の人のおしゃべり(ジェンとトン?)が重ねられます。室内は羽毛の舞う幻想的な空間。それが現実なのか幻なのか、はっきり分からない。でもどことなく郷愁が漂っているのです。姿は見えないけれど、人のいた気配が濃密に感じられる。

これも私的な記憶(ゴースト)の物語なのでしょう。ノスタルジーとは喪失に思い馳せることだと考えて、アピチャッポン監督もまた、喪失を描いている作家なのかもしれないと思ったりしました。写真と映像づくしの幸福な一日でした。

関連URL

*1:タイでは映画が始まる前に国歌が流れる慣習があって、そのアレンジなのだそうです。そういえばこの短編集、期間によってプログラムの内容が変わるのですが、この作品だけは必ず一番目に組まれています。なるほど..