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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

A級戦犯たちの夏

tv

週刊誌っぽい見出しだ。

先日、日本の空母潜水艦を特集した番組を見た。
内容についてメモがてらまとめたのだけど、そこから派生していろいろ調べたりしたので、そちらも記しておこうと思う。

細菌兵器開発

細菌兵器の開発に関して、当時の記録は大部分が処分されており、直接証拠となるような文献は少ないようだ。
七三一部隊化学兵器・生体実験を行っていた特別部隊であったと認定されたのは戦後、ソ連で旧日本軍の対ソ攻撃・七三一部隊などに対して行われたハバロフスク裁判による。*1この裁判で被告人12人、証人6人が証言台に立っている。

後に生体実験の被害者が日本国を相手どって起こした損害賠償請求では「各被害国との条約・協定が締結・履行され、国際法上も国家責任は決着している」と、請求棄却された。しかしながら判決文の中で東京地方裁判所は、細菌兵器による被害を「ナチスアウシュビッツでの残虐さと同罪」と述べている。*2

それほどの罪であっても、関係者たちが戦犯として裁かれることはなかった。それには、部隊の実験データの独占を望んだ米国との取引があったからだという話もある*3
真実と見るか虚偽と見るか、どちらに立っても闇は深くみえる。

梅津美治郎と終戦

日本が細菌兵器を検討したときにこれを止めた梅津美治郎は、敗戦時の陸軍参謀総長であった。

戦局が悪化するさなか、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長のトップ6人による会談が続けられていた。
阿南、梅津は「本土決戦で一撃を加えたのち和平交渉」にこだわり、これに豊田軍令部総長が同調する。*4

しかし6月初旬、大陸を視察してきた梅津は、昭和天皇に現状の戦力では戦況が厳しいことを示唆した報告書を提出した。その内容を受けて6月22日に昭和天皇みずから6人を召集して会議を開いている。*5
だが日本が終戦を決議する「聖断」までは、原爆投下の日を待たなければならなかった。

ポツダム宣言の受託決議を受けて、陸軍将校たちは本土決戦を主張し決起をうながした。状況を知って阿南は彼らに、梅津参謀総長と会った上で決心を伝えるとしたが、しかし梅津はこれに反対する。
戦中は本土決戦派として立った梅津だったが、対米戦争にはもともと反対だったという話もあり、胸中は揺れ続けていたのかもしれない。

二・二六事件後、陸軍次官として軍の粛正を進めたり、ノモンハン事件ののちの軍部粛正を任されたりと、問題の沈静化に役どころをあてられることが多い人生だったようだ。太平洋戦争終結の調印式も、降伏に反対していたことを理由にことわったが、結局軍部代表として署名に参加した。*6

一方で梅津と同じく本土決戦を主張した阿南陸相は、内心決したことに躊躇うことはなかった。
ポツダム宣言受託後の陸軍省の会議では「不服があるなら、まずこの阿南を斬れ」と言って抗戦派の沈静化をはかったが、翌日未明に自刃している。その日の午後に玉音放送が流れ、太平洋戦争は終結した。「終結を阻止できぬなら切腹せよ」と迫った義弟竹下正彦は、クーデター計画の説得に阿南宅を訪れ、その場で阿南の自決に立ち合った。
自死を選んだ阿南は、陸軍将校たちの無念を背負おうとしたのかもしれない。

梅津は東京裁判A級戦犯の判決を受け、翌年1月に持病のため獄中死した。形はちがえど、粛々と戦時責任を負ったように思う。

細菌兵器の逸話からこんな人もいたんだと思い調べてみて、特に戦争責任にまつわるそれぞれのエピソードは興味深いと思った。

東郷茂徳 遠き和平

同じくA級戦犯とされ服役中に病死した東郷茂徳外相にも関心がひかれた。
東郷茂徳は、昭和天皇が戦争回避に尽くすよう希望されていたこともあり、東條内閣に対米協調派として入閣している。

日独伊三国同盟を結び、さらには仏印進駐を行った日本に対して、アメリカは石油禁輸を決定する。日本はアメリカの要求を受け入れ撤退するか、重要物資確保のためにインドネシア・マレーシアを武力制圧するかの選択に迫られた。

軍・政府は開戦に傾いていたが、東郷は反対した。1941年4月に始まった日米交渉で日本側が提出した甲案での交渉は不調に終わる。そこで、これを見越して東郷が作成した乙案による交渉が再度試みられた。アメリカ側も強硬案のハル・ノートと、穏健な暫定協定案のふたつを検討していたが、ハル国務長官が提示したのは強硬案のほうであった。*7*8
吉田茂は文書の「私案にして拘束力なし」の記述に、最後通牒ではないのでないかと東郷を説得するが、すでに決まった交渉断念を東郷が撤回することはなかった。

1945年7月ポツダム宣言が発布されると、東郷はソ連を交えての和平交渉へ望みをかけたうえで、宣言受託をした方がよいと主張をした。しかしアメリカによる原爆投下ののち、ソ連の宣戦布告を受けて、この期待は絶望的となる。紛糾した議会で東郷は米内とともに宣言受諾を主張した。御前会議で決議を聖断にゆだねられることになり、昭和天皇外務大臣の案に賛成すると述べた。

東京裁判では、真珠湾攻撃のさい無通告攻撃の責任者として訴追される。東郷は自分の責任を認めた上で、海軍が無通告攻撃を主張したこと、彼らを説得し、通告をしないという要求を国際法の限度内の時間にとどめたことなどを主張した。
真珠湾攻撃は、ワシントン時間7日午後1時に交渉打ち切りの通告、午後1時20分に攻撃の予定だったが、通告は事務上の不手際で2時20分になされた。

東郷は開戦回避を望み、開戦後は早期講和、敗戦が色濃くなってからは終結を望んだが、歴史の転換点につねに接しながらも一手足りず、その判断はかえって裏目に出たように思う。

感想

梅津美治郎A級戦犯として靖国神社に合祀されている。ただ、ご家族がご命日に行くのは梅津家の墓がある青山墓地なのだそうだ。*9
梅津美治郎東郷茂徳に関してつい調べてしまう私も、彼らの生き様を偲んでいる面があるんだろうと思うし、なぜあのような戦争が起きたのかを検証する必要があるにせよ、その時代で懸命に生きたひとたちの思いを否定できない心境もある。
でも、できれば故人を偲ぶのには、心静かな場所に行きたいなと思った。

そういえば去年だったか冬に青山墓地を散歩がてら歩いた。桜並木が続いていて、春に歩いたらきれいだろうねえという話をしたりした。
ちょっとどうでも良い話だけど、むかし友人と巣鴨を散策していたら染井霊園に迷い込んでしまって、著名な人のお墓があったりして、墓地って楽しいな!と思った。猫とかいるし。


昭和の大戦争 南條岳彦
※テレビ局の報道・制作をされている方の個人サイトのようで、かなり盛りだくさんなので、あとでゆっくり読む。

昭和史 (上)

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