日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

最近見たもの読んだものまとめ

前に共感覚について記事を書いたのだけど、それに関連して、最近テレビを見たり本を読んだりした中で、知覚にまつわることなど思ったこと雑記。

 

数学の歴史

数学の歴史 || ヒストリーチャンネル

「数学の歴史」という番組、録画したのをやっと見て、とても面白かった。

「ドレミファソラシド」の音階を作ったのはギリシャの数学者ピタゴラスだという。
弦の長さを1:2にすると1オクターブあがる。この弦の長さの比率が3:2の時に音が心地よく聞こえることに気づいて、ドを3:2にするとソの音になり、ソを3:2にするとシの音になり…これらを1オクターブ内に変えて並べ替えて「ドレミファソラシド」の音階ができた。
こういうエピソードを聞くと、音楽というものがとても数学的なものに感じられる。

また、現在でも一般的に使われる「座標」を作ったのは、哲学者デカルトであった。
駅まで行くのにどうやって行けばいい?と尋ねると、真っ直ぐ行って右まがって、と説明が始まる。デカルトはこれを、Y軸とX軸を引いて、それぞれの軸から値ごとの線を引き、(X軸の数値,Y軸の数値)として表した。空間の把握を、相対的なものから絶対的なものへと変えたのだ。

私が漠然と考えていた感覚の空間位置の把握とはデカルトの座標のようなもので、俯瞰判断か比較判断かというところを要としている。

もちろん感覚のとらえかたがそのようなものに基づくのかは分からないし、証明の手だても思いつかないけれど、この「空間把握」と感覚のとらえかたの関連を、たやすく放棄できないのは、空間・時間の把握というのが知覚において重要な要素ではないかと考えているからだ。

 

動きが生命をつくる

最近読んだ「動きが生命をつくる」という本は、生命について研究をしているもので、共感覚についても色々と考えさせてくれた。

ロボットに判断基準を与えていくことで、どの段階から生命らしさが生まれるのか見ていくくだりは、「知覚」を考える手だてとして、とても面白い。

動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ

動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ

まずロボットに光に反応するセンサーを与える。次に光以外(音や嗅覚)に反応するセンサー、さらに外部刺激に対してモーターの出力を段階的に切り替えられるようにする、学習と記憶を可能にさせる...など知覚と判断のレベルをあげていく。

ロボットは7段階目で「空間的相関」の能力を得る。二つの感覚に刺激が与えられ続けると、二つを結ぶ抵抗が下がって、どちらか一方に刺激を受けた時にもう一方も反応するようになる。著者はこの段階を「共感覚的」とも言っている。

11段階目では「時間的相関」を把握する。明かりが消えた後に揺れがくるという経験をさせると、光が消えると揺れに身体的に備えるようになる。ある外部刺激から予測するモジュールを結ぶネットワークの抵抗を下げる。14段階目でロボットは非合理で気まぐれな振る舞いを起こすように設計される。

気まぐれさが最終的な生命らしさということになるのだが、その前段階で「空間・時間」の把握が出現している。自分の周囲の環境世界をどう構造化してとらえるかということにおいて、とても重要な要素なのではないかと思う。

また、ロボット(ビーグル)が三角形と四角形を判断するのに、二つの手段を与えて違いを見る実験をしている。

図形を俯瞰図的に見て違いを判断する客観的な方法と、実際に図形に触れて判断する主観的な方法である。前者の方が判断が早いが、後者には「気まぐれさ」「飽きる」などの行為のゆらぎが見られ、動きながら(判断の)カテゴリーを作っていくという、より生命らしさが生まれる。

すでに形のイメージを与えられているというのは判断に迷いのない知覚である一方で、対象にふれながらイメージを獲得していくのは、試行錯誤の知覚である。

 

生命らしさとは、正確な判断ができることより、不正確さを含むことにより柔軟で幅広い判断ができることである、というのがこの本から浮き上がってくる答えのひとつだと思う。それに照らし合わせると、感覚の互換とは人の持つ柔軟性のための不正確さの賜物であるかもしれない。

ある音を聴くとある色がはっきりと見えるというような状況は、外部刺激をとらえるセンサーが俯瞰的で正確である一方で、聴覚が与えられると視覚も反応するという反応の曖昧な柔軟性があるがゆえに起こることと考えられるかもしれない、とぼんやり考えた。

 

追記 1:こう書くと、この本の魅力を限定してしまいそう。生命とは何かに思いを巡らせる一冊ではあるのだけど、知覚認識にも深く関わって研究をしていて、アートについても考えさせられる点がいくつもあった。この研究を通して、ついには著者自らアートに関わるようになるのは意外なようで、とても自然なことに思える。
余談だけど、空間・時間の認識に注意しながら、宗教・文学・芸術などを見ていくのも面白いと思う。人がどんな世界観の中に生きるのかという学問には、空間・時間が同認識されているかという点が重要で、その認識を遡っていくと、精神学的な分野である人の意識・無意識、さらには原始的な認知の仕組みに辿り着くように感じる。そいういう意味からもこの本について、認知の初期構造を追う眼差しを辿ることができたのはとても良い収穫だった。
そんなわけで、ちゃんとした書評はまた別な機会に。