日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

ゲルハルト・リヒター 「Painting」 @ ワコウ・ワークス・オブ・アート

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雨のしとしと降る中、六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートへ。平日の雨降る午後でもぱらぱらとした人の入りで、晴れた日や土曜日は盛況そうだな。晴れた日に行きたかったんだけどなと思いつつも、ゆっくり観れたのはよかったのかも。

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存命中の画家のうち、その作品にもっとも高額の価格がついている*1旧東ドイツ生まれの抽象画家。絵画性とは何かを追求しつづけながら、近年では物質性を排する方向であったはずが、まるで手法を逆戻しにしたような今作に、彼の関心の先がどこへ向かっているのか注目される新作展なのだとか。

とはいえ、わたくし作品を見るのは今回はじめてだったので、はたしてちゃんと感じるものがあるだろうか不安もありましたが、抽象画は感覚的に見るだけでも楽しかったりするし、挑む気持ちで向かい合うのも、それはそれで楽しい。

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入ってすぐの部屋には大きめの油彩画、奥の小さい部屋には、瀬戸内海の写真をもとにしたオーバー・ペインテッド・フォト、ガラスに塗料で描いた「アラジン」シリーズと、こぢんまりした作品がつづきます。雨の気配にとじこめられた部屋で、一枚ずつに向かい合う。これまで国内で開催された展示の図録や雑誌もあって、立ち読みするなど。

モネの睡蓮に描かれたのは、水面だったか空だったか。私たちが見ているのはどちらだろう。空を映す水という透明な一枚の面。リヒターの諸作品にも、モネの睡蓮に見るような、レイヤーの意識があるのだといいます。写真の像は現実世界である。絵画の色彩は感覚世界である。ぼやけて遠ざかり、厚い絵の具に覆われる世界。こちらとあちらの間に存在する、透明なスクリーン。

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しかしそのスクリーンは、二つの世界をへだてるネガティブなものではなく、モネの睡蓮がそうであったように、あちらとこちらの接点、ある感受体としての面である。その感受体の面であるカンヴァスに、厚塗りの絵の具を塗っていく。一部を剥いで、ひっかき、傷をつけていく、その行為。

アクション・ペインティングが完成品そのものより、その経緯、身体性を重視したように、リヒターの今作も、描くことで得られる感情、思考を主としているように思いました。私たちもまた、その面に刻まれた景色から、はがれ、傷つき、やがて風化していくその痕を追憶する。そのとき鑑賞者は、その痕跡を自分自身の体験として獲得する。

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帰りに図録も買ってしまった。絵の具の質感とか空間との関係性とか、図録では感じられないけれど、文章よんだり作品を眺めたりして、もうすこしいろいろ考えたかったのです。あらためて読むと、stripっていうカラフルな横縞のプリント作品がとても気になった。

strip、平面の上の仮象。その手触りが薄いほどに、私たちは見えないものを見ようとする。イメージの領域はふくらんでいく。今回の作品は、そこから時間を分岐点まで巻き戻して、別の道をたどるようなもの、なんだそうです。

たしかにこれまでの作品にあった、アートとして物質的になしうることが消失していく感覚や、その透明感とはことなった、あるいはその反発でさえあるような、身体の実感というほどの重量感ある油彩画展でした。

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Gerhard Richter ゲルハルト・リヒター 「Painting」
ワコウ・ワークス・オブ・アート
東京都港区六本木6-6-9ピラミデビル
2015年11月10日(火)~12月19日(土)
11:00~19:00
休廊:日・月曜・祝日

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*1:もちろん2015年12月現在