セザンヌがどういう画家だったのか少しずつ分かってくると、改めてきちんと作品を観てみたいと思うようになってきて、そんな折のポーラ美術館でのセザンヌ展。はたして私にセザンヌが分かるだろうか、とおそれつつも挑む気持ちで行ってきました。
多くを語らなかった画家セザンヌ。彼をとりまく同時代の印象派の画家や、彼から影響を受けた後世の画家の評から作り上げるセザンヌ像です。"分かりにくい"画家の魅力をさらりと伝えつつも、ゴーギャン、ピカソ、マティスという錚々たる画家に衝撃を与えたセザンヌの、存在の大きさを浮き彫りにする展示でした。
彼らはセザンヌという画家をどう見たか。またセザンヌは彼らをどう見たか。その人間模様は、これから見に行く人もいると思うのでなるべくふれずに、展示作品から感じたことをおもに書き留めておこうと思います。
セザンヌ・レジェント 具象と抽象のあいだ
若き日のセザンヌが関心を寄せたのは、ドラクロワの荒い筆致や、クールベのパレットナイフで描く厚塗りの光の質感でした。セザンヌの作品には情感というのはあまり感じられないけれど、初期の作品には光を描こうとする叙情性も見られます。
光を印象的に描こうとする初期の作品は、どことなくモネを思わせます。そういえばモネについて「モネは単なる眼にすぎない。しかしなんという眼だろうか!」と語ったセザンヌでしたが、こういう作品を見ると、その言葉に重みが感じられます。
セザンヌに戸外制作を教えたのはカミーユ・ピサロですが、二人の描き方は異なっていました。
絵筆をキャンパスに刺すように描いたピサロと、塗りこむように描いたセザンヌ。のちに点描画へと傾倒していくピサロと、造形を面でとらえてキュビズムの端緒をつくったセザンヌの、異なる道の予兆を思わせるエピソードです。
描きたいものの違う二人でしたが、だからこそというのか、年長者のピサロはセザンヌのよき理解者であり続けました。セザンヌも印象派的表現を早くに抜けながらも、ピサロから教わった、自然を観察しその身のうちにおこる感性をとらえる描き方を、生涯貫きました。
セザンヌ「オーヴェールの曲がり道」(1873)東京富士美術館(Paul Cezanne - The Complete Works - paul-cezanne.org*CCL)
セザンヌの絵を理解するとらえ方に「複数の視点を一画面に取り込む」というのがあります。
画家が得意とした静物画にはこの手法が頻繁に取り入れられ、この同時多視点は、のちのキュビズムにつながっていきます。
たとえばテーブルの上の林檎は少し上からの視点で描かれているが、水差しは正面の視点からとらえている、というような。会場ではセザンヌの多視点絵画を3DCGで再現し、矛盾を説明しています。これがけっこう面白かった。
また、セザンヌの筆使いは構築的筆触と呼ばれ、ある一定の傾きの線で揃えられた筆の動きで描かれるものが多くみられます。
ずいぶん前、同じポーラ美術館のピカソ展でセザンヌの作品を見たときには、その特徴が示すものが何なのか、よく分からなかった。ただ、ある一定の秩序の中に世界を構成し直そうとしているらしい、ということだけが、なんとなく伝わりました。
ピカソの場合はもう少し分かりやすくて、目の前に広がる世界を解体しようとする、自我の強さがあります。セザンヌにはそこまでではなくて、ピカソのような世界の破壊者でもありません。だからこそ、なにを目指したのかが分かりにくかった。
改めてセザンヌの作品をじっくり見ると、たとえば展示作品の「ガルダンヌから見たサント=ヴィクトアール山」は、空間の広がりを感じさせる作品であることに気付かされます。
それは遠くに望むサント=ヴィクトワール山へいたる丘の稜線が、強い斜線の交互の繰り返しによって作り上げられ、絵の奥へと視線を誘うからです。ちょうど紅海を前に立ったモーセが杖を振りかざしたときのように、丘の稜線は開かれ、視線はまっすぐその先の山へと向かいます。
ここには”閉じられた稜線”と”開かれた稜線”が描かれています。奥の山と、中央にある青い影を落とす丘の盛り上がりは、閉じた動きを持っています。一方、その手前の画面外側へ向かう線は開かれた動きを感じさせています。
セザンヌはおそらく、斜線がもつ動きを意識しながら描いたのだと思います。線に保持される方向性によって画面に生まれる推進力が、対象に存在感をもたらせ、全体に独特の緊張感を与えています。
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セザンヌに惚れ込んだピカソは、彼の絵の印象を「不安感」と表現しました。ピカソがセザンヌの絵に感じた不安感とはなんだったのでしょう。
テーブルの上の砂糖入れと果物たち。中央によせられたモチーフは、いくつかが画面右にまばらに配置されています。対する左側にはボリュームのある布。テーブルの面は、気のせいか右下がりに傾いているような。
テーブルの下方かあるいは上方を手のひらで隠して見ると、画面は安定します。テーブルの境界線を傾けていることで、面自体は平らなのに、果物は右手へといまにも転がり出しそう。しかし左の大きな布は、テーブルの境界線の矛盾を覆い隠し、さらに画面左に重みを与えて全体の均衡を保っています。
この絵に生まれる推進力は、果物が転がろうとする先、画面右側に向いています。それに反する力は、左側の布が画面に与える重みです。この二つの力が、不安定な画面をかろうじて安定させています。
セザンヌの絵にはいつもこの”重力”という束縛があります。それこそがピカソが感じた「不安感」なのかもしれないと思います。
第三回印象派展に出展してから、次にセザンヌが自身の作品を人々の前に展示したのは、それから20年後の56歳の時でした。ピサロに勧められてようやく開いた個展は、人々を驚かせ、若い画家たちは彼を熱烈に慕ってセザンヌの住むエクスを訪れたといいます。
故郷に退いて淡々と作品を描き続けたセザンヌ。独特の世界を見る感性を持ちながら、周囲に理解されるのにはずいぶん時間がかかりました。彼を押さえつける現実(重力)と、どこまでも広がっていく感性(推進力)が描かせた均衡。などというと、少し考えすぎかもしれませんが。
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さて、展示会の最後の章は「セザンヌ・レジェント 後世への遺産」となっています。かっこいい。ピカソはセザンヌを唯一の師とまで呼び、「私たちの父である」と言いましたが、マティスは「神だ」と言いました。
この章では、セザンヌを敬愛した次世代の画家たち、ピカソやマティスはもちろんのこと、ジョルジュ・ブラックやエミール・ベルナールの言葉と作品が展示され、セザンヌ・インパクトがどれほどのものだったのかが伝わってきます。セザンヌって響き何にでも合う。
ここに「アルルカン」という、喜劇の登場人物に扮した息子をモデルに描いた作品が展示されています。この作品も、斜線と推進力という言葉で読み解くことができそうです。
推進力の方向を示す矢印を画面上に描くとすれば、この作品においては、その矢印は画面の枠外に描かれるべきでしょう。セザンヌはすべてを描かないことで、見る側に推進力を想起させるように仕向けているのです。
雑感
人間模様について最後に少しだけふれると、セザンヌとゴーギャンの関係には、もうちょっと深く知りたいなと思いました。
会場ではゴーギャンのコーナーに入る前に、一枚だけ小さなゴーギャンの絵がかけられています。今思うとその一枚は、造形に強い関心を向けた二人の画家の間柄が、そういえばどのようなものであったか、想像を呼び起こさせる仕掛けのようにも思えます。
二人が出会ったのはたったの一回、株式仲介人として働きながら日曜画家に勤しんでいたゴーギャンがピサロのもとを訪れたとき、当時ピサロに絵の制作を教わっていたセザンヌが、たまたまそこにやってきたのだといいます。*1
二人がこの時どういう話をしたのかは、展示会の短い資料からはわかりません。ただ、ゴーギャンがセザンヌの才能に熱烈な思いを向けていたことはピサロへの手紙から分かります。絵を買い集めたほどのセザンヌのファンだったゴーギャン。しかしセザンヌの方はそうではなかったようです。
思うにセザンヌは、マネやゴーギャンなど自分と関心が近い相手ほど辛辣になるように見えます。逆にピサロやルノワールなどの正反対の画家には、心を開いて関わりをもった。それは自分と関心が近いものへの嫉妬深さだったのだろうか、なんて思ったり。
画家になる前は航海士として世界各地へ旅したゴーギャン。開放的で豪胆な性格というのもその生き方から伝わってきます。それに対して、20年も故郷に引きこもって絵を描くこととなったセザンヌ。彼が奔放なゴーギャンにとった心の距離というのも、理解できるような気がします。
そんなわけで、新印象派からフォーヴィズム、そしてセザンヌ展などを見てきたここ最近、そろそろゴーギャン展も見たいなあという思いを深めたのでした。
関連URL
http://d.hatena.ne.jp/araiken/20111231/1325341681