日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

映画の感想 - 自分だけに見える世界とその孤独

普段からたくさん映画を見るほうではないのだけど、絶対好きな内容だから見たほうがいいよ!と勧められて、イミテーション・ゲームという映画を見てきました。そしたらツボにはまってエンドロールで大泣きしてしまった。いい映画でした。

映画の感想を書くのは苦手だし、ネタバレの文章を書くのになぜかいつも抵抗があるので、映画とはあんまり関係ないところの話から書こうと思います。

先週、ポーラ美術館のセザンヌ展に行ってきた。初めは作品についてぐるぐる考えてたけど、今はセザンヌという画家の人となりについて、ずっと考えてます。

セザンヌは若い時にパリに出てきて、印象派の画家たちとともに絵の制作にはげみました。しかし3回の印象派展に参加したのちは、制作の場を故郷に移します。作品はなかなか理解されず、暮らしも困窮する中、父親との確執や親友のゾラとの仲違いなど、まさに冬の時代。

そのセザンヌが個展を開くきっかけを作ったのは、彼に戸外制作を教えた年長の画家ピサロでした。この個展にセザンヌは隠遁期間の集大成ともいえる150点の油彩画を送りました。

セザンヌの個展は若い画家や批評家たちを驚かせたといいます。以後、作品出展の機会も次第に増え、評価も高まっていきました。しかし糖尿病を患い精神状態も不安定になっていたセザンヌは、多くの信奉者に敬愛を受けながらも、孤独な生き方を変えることはできなかったようです。

この厭世家の画家の人生を辿ってみて感じることは、孤独な時間に耐える凄まじさです。第3回印象派展から実に20年の歳月、彼はほとんど沈黙して絵の制作を続けました。とは言っても、サロンに出展したり、パリに赴いて画家仲間と交流をもち、流行の先端は気にしていたようですが。

妻子がいることを父親に長年秘密にしたセザンヌは、自身の絵についても雄弁に語ることはありませんでした。外界の人と対話するよりも、自身の内面と対話するほうが、彼にとって重要で、また自然なことだったのでしょう。自己との対話で絵画の可能性を広げていったセザンヌ。他者のいない世界で、どうやってその正しさを保てたのだろうと驚かされます。

彼には人と異なる世界が見えていた。違う角度で世界を見る眼差しを獲得していた。けれどもそれを、誰かに話そうとはしませんでした。なぜなら、そんなことを言っても誰も理解できないから。だからセザンヌは説明などせずに、ただ淡々と絵を描き続けました。それだけが彼に見えているものを、形にするたったひとつの方法だったからです。

自分にしか見えない世界。それが常人の見えるものを超えていると知っているのに、そうと言えないジレンマ。

アラン・チューリングも、ストーリー内で「あなたたちには理解できない」というセリフを何度もいいます。自分が見ているものが、他人にはまだ見えていないこと。それを単に事実として指摘しているだけのつもりでも、相手はそれを侮蔑と憤り、誇大妄想だと笑う。

人に見えないものが見えている孤独。それは世界のあらゆるものを変えうる根源的なものであるのに。ほかの人から見て透明でも、彼には確かな造形が見えている。色を見るのではない、形を見るのだ。けれど、人は色で見ることに慣れすぎて、気づくことができない。

チューリング博士は、彼の生涯に関わる大きな秘密を抱えています。けれどももし、彼にその秘密がなかったとしても、その性格から考えて、彼が孤独だったことには変わりはなかったでしょう。しかしその秘密は、(作中の演出として)彼の孤独をより浮き彫りにしました。

作品中には「普通でない人だからこそ偉業を成し遂げる」という趣旨の言葉が繰り返しでてきます。人を孤独に追いやる「普通」でなさの解釈は色々でしょうが、「人には見えない世界が見えている」こともまた、そのひとつだと思います。

自分に見えている世界が、どうやら他人と違うようだと気がついた時ーーセザンヌは20年の孤独に耐えました。チューリング博士でさえも、その偉業が認められたのは死後のことだったのです。

では、もし彼らのように天才ではなかったら?見えているものが他人と違うというだけで、そこに価値があるわけではなかったら。人と違うことの孤独だけが課せられるのでしょうか。

凡庸な異端者にできることは多くありません。普通の人と同じものが見えているように振る舞うこと。自分にしか見えない世界を抱きながら、他人の感性と同じふりをして、”模倣ゲーム”を続けること。

自分だけに見えているものを形にする。セザンヌにとってはそれは絵であり、チューリングにとってはマシンでした。あなたの目に見える透明な造形が、あなたの中で結晶化して形をもってしまうとき、その時にはやはり表出していくしかない。その造形が確かなものだと信じて。

まあ、タイトルがそこにかかっているのかというと、そうではないと思いますが。

というより、イミテーション・ゲーム(機械か人間かを判断するテスト)は、ストーリーのあちこちに多重的にかかっているように思えます。「人の心が知りたい」でもあり、偽りを重ねる政治ゲームでもあり、イミテーション・ゲームの初期である「性を偽る」というところに深読みすることもできる。

そこは見る人で解釈が変わっていいように、テーマを絞り込まずに作っているようでもあります。

人によっては天才の孤独を描いた話だし、国家と個人をめぐる物語、あるいは切ない恋愛ストーリーである。私にとっては、自己対話型の人が見る世界の豊かさと、それゆえの孤独というストーリーでした。

解説


軍事サスペンスものとして見た人には、たぶん町山さんの解説が面白いかも。


解説の中ではこの記事が良かった。映画でも泣いたけど、監督のスピーチでもまた泣いてしまった。
記事を読んで、そうか!イミテーション・ゲームは彼の研究物にかかっているのではないか。つまり「クリストファーは思考するか?」などと思ったのでした。もうなんでもいいや。

アラン・チューリングについてもっと知りたいときにおすすめ。映画のエピソードにかぶる部分もたくさんあって面白かった。