日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

BODY/PLAY/POLITICS展 @ 横浜美術館

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今春に渋谷のミニシアター、イメージフォーラムで上映された「光りの墓」が個人的ヒット作でしたので、監督の美術作家としての作品が展示される横浜美術館の今回の企画は、大変楽しみにしていました。

ヨーロッパとアフリカ、アジアとさまざまな文化のルーツをもつ作品が集う企画で、同時代を生きる国内外の作家たちの視点にふれて、とても刺激的な美術展です。ただ、社会的な主題や映像作品が多かったりして、見る人の好みは分かれそう。

展示数は6点と、少なくとも充実した内容でしたので、感想はひとつひとつ書いていきます! 読む人がいるのか分かりませんが、詳細に書くと思うので、これから行く予定の人は、まずは美術館に行くことおすすめです。

*BODY/PLAY/POLITICS展:会場内の写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本」ライセンスでライセンスされています。

インカ・ショニバレ MBE「さようなら、過ぎ去った日々よ」

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インカ・ショニバレ MBE《さようなら、過ぎ去った日々よ》2011年
1962年ロンドン生まれ、ナイジェリア・ラゴスに育つ。ロンドンを拠点に活動

アフリカ更紗のドレスを着た黒人オペラ歌手が、英国風の邸宅で「椿姫」のアリアを歌う映像です。アフリカの国々では、ヨーロッパからの独立の象徴としてアフリカ更紗が着られましたが、その生地の多くはヨーロッパで生産されていたのだそうです。

オペラ「椿姫」は高級娼婦ヴィオレッタの悲恋を描いた物語。作品中繰り返し出て来る絵画的なポーズは、トラファルガーの海戦で活躍したネルソン提督の死にまつわるものです。英国がナポレオン英本土上陸の野望をおさえ、海の向こうの経済覇権を確立していくきっかけとなった戦いと、彼の死を悲しんだ愛人たちを、作品のイメージに引用しています。

宗主国を男、従属国を愛人に見立てると、宗主国にも祖国にも心を帰することのできない女性の戸惑う心が浮き上がってくるようです。女性はある意味において、男によってアイデンティティ(故郷)を位置づけられる。

しかし社会的にそうであったとしても、その宿命を押しつけられる以前の、個として持つアイデンティティもまた、たしかにある。その行きどころのない魂は、仮の民族衣装をまとい、英国の邸宅をさまよい続ける。音楽もあいまって、美しくも悲しい作品でした。
 

イー・イラン「ポンティアナックを思いながら:曇り空でも私の心は晴れ模様」

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イー・イラン《ポンティアナックを思いながら:曇り空でも私の心は晴れ模様》2016年
1971年サバ、マレーシア生まれ、クアラルンプールを拠点に活動

東南アジアの民間伝承では知られた女性の幽霊「ポンティアナック」、その幽霊に扮して女性たちが気ままにおしゃべりをする。男性が優位な社会において、表舞台には出ない女性の心情が幽霊となって意識化されたのかな。

とはいえ、女性たちのおしゃべりは他愛なく、どことなく可笑しい。ヴァギナについてのあれこれから、子どもを持つことへのさまざまな思い。

伝統的な芸術や文芸の中では、なかなか正統な場所を与えられてこなかった、女性の生き様にもとづいた表現。かつては幽霊として表出した"女性"の思念は、今はアートがそのエネルギーの吹き出し口になっているのかな、とも思いました。
 

アピチャッポン・ウィーラセタクン「炎(扇風機)」「ナブアの亡霊」

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アピチャッポン・ウィーラセタクン《炎(扇風機)》2016年/1970年バンコク生まれ、チェンマイを拠点に活動

タイトルからして、焚き火と向い合せに扇風機がまわっている図を想像したのですが、まさかの扇風機が炎を噴いていてびっくりしました。炎対扇風機ではなくて、炎×扇風機でしたね。

真っ暗な空間に浮かぶスクリーンで、炎の環がときおり火を吐き出すのは、漆黒の宇宙に太陽フレアを放出する、宇宙のエネルギーを見るようでしたが、映像が鮮明になってくると見えてくるのは扇風機なのです。扇風機。

あっけにとられて火を噴く扇風機を眺めていたのですが、気を取り直して解説を読み直しに外に出ました。すると、この作品は、チェンマイにある自宅に対して作家が持つ「魅惑」と「脅威」という暗いイメージがもとになっていると言うのです。

映画「光りの墓」は、タイ東北部のイサーン地方を舞台にしていて、土地の歴史や記憶を、監督の独特な回路で映像に仕立てた作品でもありました。そう考えると、暗闇でまわり続ける扇風機も、濃密な気配をもつ土地のひとつの像として、そこに現れたようにも思えてきます。

もうひとつの作品「ナブアの亡霊」も炎が印象的です。ここでは火に限らず、月明かり、夕暮れなど自然のもの、雷、炎など演出の光、電灯など人工的な光、さまざまな光がひとつの画面に現れます。光の持つ複数のイメージが並列してある映像で、この作品も面白く見ました。
 

ウダム・チャン・グエン「ヘビの尻尾」

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ウダム・チャン・グエン《ヘビの尻尾》2015年/1971年、コンツム生まれ、ホーチミンを拠点に活動

あいちトリエンナーレでは何度も目にしたベトナムの映像作家ウダム・チャン・グエン。
ポップさと映像編集の巧さは感じていたけれど、本作は加えてユーモラスで、神話的なイメージも重なって、個人的には大変気に入った作品でした。

ひとつの作品の中にみっつの主題がありますが、共通しているのは「蛇」をめぐる神話です。
ビニールのチューブをふくらませるのはバイクの排気ガス。カラフルなチューブをヘビに見立てて、ホーチミンの街のあちこちでヘビが暴れまわります。

海蛇と戦う神官を描いたラオコーン像をもとに、街を襲うビニールチューブのヘビと戦う一作目は、カンフー映画の見過ぎじゃない?大丈夫?(褒めてる)という感じですが、二作目はヒンドゥー教天地創造、神々と魔族が大蛇を山に巻きつけて引っ張りあった物語*1がベースです。

この作品のカメラワークがとてもよかった。チューブの中をグーッとカメラが通る視点と、大勢の人たちがバイクのエンジンをかけて待機している映像と、交互に組まれていて、いっそ爽快な壮大さにワクワクする映像でした。

最後はバベルの塔。レンガのビルに例のチューブが絡んで、じょじょに膨らんでいくヘビたち。人の傲慢さを戒めるヘビの物語に政治的な視点を汲めなくもないですが、私としては、虚構が日常を覆っていくシュールさや可笑しみが面白い作品でした。
 

石川竜一

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石川竜一 展示風景/1984年、宜野湾生まれ、那覇を拠点に活動。

ラスト二作は日本の作家陣。アジアの作品は政治的な目線があって、かつユーモラスという印象だけど、国内の作品はどうくるかな、と思っていたら、パンチ力のある作品が続きました。

石川さんが、自殺ばかり考えていた時期を切り抜けたきっかけは、カメラを手にしたことにあったそう。街をゆく人、あるいは私室を背景に撮るポートレイト写真を、初めはさらっと見ていたのだけど、だんだん何か感じるものがあって、足を止めてしまう。

服を脱げば体ひとつだけど、私たちはふだん服を着る。カラフルな服、ミリタリーな服、ときには入れ墨。身にまとうもの、それは社会と個人の摩擦の表出でもある。日々過ごす身近な社会の反映としてのファッション。けれども一人で生きれば、私に自我なんて芽生えないんだろう。

人との摩擦を疎みながら、人との摩擦なしには自分の輪郭が成り立たない。私という輪郭があいまいに消えてしまうこと、その孤独にもまた怯えている。ひょっとすると石川さんは、そういう生き辛さを見つけてしまう人なのかもしれない。

後半、カメラを通して出会った年老いた二人の男女との交流を綴ったものは、壮絶さも感じました。久しぶりに訪ねると、大家さんは「あの人は半年前に亡くなった」と言う。こないだ電話で確かに話したのに。まるで彼との会話さえ幻であったように思えてしまう。

社会との摩擦を適度にこなせない人は、代替の方法で自己を保とうとする。その孤独や危うさは、私の今いる場所とどれほどの距離があるのだろう。

石川さんのインタビュー記事。石川さんの写真が、自分の中にすっと入ってこない、どことなく抵抗感を覚えてしまうのは、石川さんの目に留まるものが「違和感」をもとにしているからかもしれない、と思いました。
 

田村友一郎「裏切りの海」

締めくくりは横浜を舞台にした映像インスタレーション。戦後GHQ管轄下におかれた横浜に、近代ボディビルディングの歴史を重ねます。「時間の彫刻」の言葉のとおり、作品じたい言葉の断片をつなぎ合わせたもの。メッセージ性というより、断片から浮き上がるイメージと、その示唆するものに思い馳せるというような。

近代ボディビルは、古代ギリシャ彫刻への憧れから始まったのだそう。この時代、ギリシャへの憧れから海外旅行へ出かけた三島由紀夫は、帰国後、本格的なボディビルディングを始めます。しかし、たとえ元がバラバラでも、美しい部位を個々に揃えて均整をとるギリシャ彫像のように、彼の体はあの市ヶ谷の地で分割されてしまう。

横浜の街を闊歩する米兵たちもまた、日本人にその肉体美を誇示するものとなりました。GHQが日本に普及させたミルクと、パプアニューギニア通過儀礼で、少年が摂取する成人男性の精子を重ねて、男として逞しくなるために「ミルク」が必要であることが暗示されます。

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田村友一郎《裏切りの海》2016年/1977年、富山生まれ、熱海を拠点に活動。

ここで展示のひとつめ、アフリカ更紗をまとって歌うオペラ歌手の映像に、テーマがつながるように思いました。宗主国にとっての従属国はたいてい愛人、”女”でした。その従属国という立ち位置から自立しようとする。そこに強烈に現れてくる"男らしさ"への欲求がある。

しかし弱さを憎み、排除する働きもまたそこに起こりやすくもなります。作家の意図することとは重ならないかもしれないけれど、この国のGHQの管轄下にあった経験は、社会的欲求としてのマチズモの種を、蒔き育てたのかもしれないと思ったのでした。
 

コレクション展

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見ていて楽しい映像もありましたが、ラスト二本はけっこうずっしりくる内容でした。続いてのコレクション展は心を休めて、横浜の街の変容を、絵画や写真に見る展示。横浜の町並みに思い入れがあったり、詳しい人は楽しめそう。

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黒船来航のときの記録画など、歴史的な記録にも代わるような作品もあって、多方面から楽しめる展示です。版画家、石渡江逸の夕暮れや夜の静かな光が心地よい風景なども良かったです。

いつも楽しみな日本画の展示室は、自然の気配をうつす作品と、秋めいたこの頃にしっくりくるテーマ。熊井恭子さんの立体作品は、黄金に色づいた草むらに風の渡るのを見るよう。川合玉堂の滝の屏風絵も、勢いある水の音の響いてきそうな作品でした。

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写真の展示室は、国立近代美術館で開催のルフ展とリンクしてるのかな。カメラを使わず印画紙を直接露光させるフォトグラムはじめ、露光過多でモノクロの白黒を反転させるソラリゼーションなどの作品を展示していました。

恩地孝四郎のフォトグラムがあったりして、こういう分野にも手を広げていたのかと驚いたり。ソラリゼーションの生みの親マン・レイの作品も展示。なかなかちょっと良さが理解できないのは、時代の前提が違うからかな。

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さまざまなものを裏切っていく時に、いちばん最後に裏切らねばならなかったのは自分自身で、だから意識下におけない偶発性としてフォトグラムやソラリゼーションがあるのだろうか、なんて思いました。身体を歪ませて撮るディストーションは面白かったです。

鑑賞づかれでカフェにたどり着いて、遅めのランチ(いつものこと)。横浜美術館のカフェはたいてい混んでいるので、いつもは向かいのマークイズみなとみらいに行くのですが、この日は空いてたので、併設のカフェでゆっくりしました。

横浜市民ギャラリーの展示(創造の場所-もの派から現代へ)も気になったけど、もうすっかり夕方。展示は変わってしまうけど、また今度にしようかな。余韻の冷めないままに、帰宅の途についたのでした。

*1:乳海攪拌 - Wikipedia :大蛇が吐いた毒をシヴァ神が飲み込んで、世界が救われたそうですが、シヴァ神破壊ばっかりしている恐ろしいイメージしかなかったけど、なかなか良心的なところもあるんですね。