日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

宇宙と存在の震え

ツイッターの良いところは瞬発的な思いつきを発散できることであるが、時間がすぎれば記憶の霞のむこうに消えいってしまう。
セルフまとめしたりもできるけど、それもそれでなんだか恥ずかしいしな。

というわけでブログにつらつらと書いておくことにした。
ツイッターでつぶやいたばかりの話を。

仕事中にBGM的にYoutubeを流したりするけど、ドキュメンタリーとか講義とかは、単調な仕事のおともにとても良い。

はてなブックマークでひろった認知療法の講義、実際に自分が試すかどうか別として、認知や人の記憶の仕組みなど、体系立てて知っていくのは面白い。

まだ半分くらいしか見てないので総評はできないけど、とくに印象に残ったのは、考えすぎる人はうつ病になりやすいということだった。「考えすぎる」というのを自動思考ともいうようで、たんなる好き・嫌いから、なぜあの人は、なぜ私は…と深く深く考え始めてしまうようなことで。

それが「あの人がいるから私は」「あの人がいないと私は」みたいな、自分の存在の危機におきかわっていったりする。
聞いていて自分で「!」とおもったのは、こういう考えすぎる人は読書ができなかったりするんだそうだ。

その理由は、本を読んでいるとべつの考えが浮かんで来たりするから。それに、速読するときは、ページをぱっと視覚に入る一瞬の情報で理解するらしくて、それには文字を読むときの頭のなかの音はじゃまになるのだという。

これ私じゃんってめちゃ思った。集中できればいいんだけど、集中するまでに時間がかかる。自分では50ページくらいと思ってるけど、50ページ読めれば雑念がきえて本の世界に入り込める。それまではけっこう苦痛だったりする。おもしろい本はもちろん別だけど。

それに頭のなかにずっともう一人の自分がいて、その自分と会話してる感じがある。これは大変。

講義してる先生は、この自動思考についてよい例え話をしてくれた。

シロクマの話だ。
3分だか5分だか、シロクマのことを絶対考えないでください、という。
即答で「むりでしょ」って言ってた。Youtube画面に向かって。

考えない方法はあるんだそうだ。それは別のことを考えること。楽しいこととか。
たのしい...美味しいもの食べるとか、美味しいもの...白くまアイス......

もし無事シロクマのことを考えなかったとしても、3分だか5分たって、はい、よくできました、ってなった瞬間に、頭の中はシロクマ増殖されている。

~してはならない、が逆効果であるゆえんである。

どうすればいいかというと、シロクマのことを考えてもいいけど、あまり気にせず、頭のなかにシロクマがいることを放っておくことなのだという。

考えるとストレスになるようなことがあって、それに対して「考えちゃダメ」となると、さらにストレスになってしまう。
だから、あーなんか考えてるな私、まあいいか、と。考えている自分を感じながらも、それ以上かんがえない。

こういう自分が世界にふれている接点を意識しながら、その先、それ以上思考を進めないことは、マインドフルネス的な思考なのだそうだ。

マインドフルネスが何か知らなかったので、マインドマップとか書いてセルフコントロールしてくことなのかと思ったら、ぜんぜん違って、禅とか仏教とか東洋の瞑想を取り入れたもので、自分の知覚とか五感で感じているものに集中して意識を変えていくことなんだそうだ。

この「知覚」というものについて、たしかに東洋的だと思うんだけど、哲学的な見方もどうもあるらしくて、その辺また稿をあらためて書きたいなと思っているところ。

あと、時間と記憶の話もおもしろかった。
時間は未来にむかって流れるけれど、じつはそれは人間がそう認識してるだけで、時間には前も後ろもないという説がある。
なにが時間を時間たらしめているのかというと、人の記憶なのだそうだ。
記憶がうすれ、おぼろげになっていくと、過去だと認識する。

トラウマはその逆に、時間がとまってしまったようなもので、いつまでたってもその記憶が当時のままによみがえる。過去になってないのだという。
なので治療などを受けてトラウマが軽減されると、患者はだいたい、もうだいぶ前のことだから(今は何とも思ってない)という思いに変わるのだそうだ。
その治療のあいだに、何年もの時が過ぎていったのだろうと聞くと、記憶と時間の関係の不思議さを思ってしまう。

記憶は思い出すだけ不安定化するというのもおもしろかった。
繰り返し思い出すうちに、少しずつつくりかえられてしまう。たしかに...普通に生活していてもあるなあと思う。ああ言った記憶はあるけど、言ったつもりになっているかも。誰かの言葉を自分の思ったこととすり替えて記憶してしまっているかも、とか。

人間はなんてあやふやなものなんだろう。
私は変化していくことが、おわりに向かっていくようで怖いけれど、時間が止まったままというのも怖いことなんだなと思った。
人は前に進むために過去を忘れる。時間が止まったままというのは、何もかもが鮮明であり続けることで、それにはなかなか耐えられないかもしれない。

3日ほどまえにニーチェ量子力学的時間のブログを書いてたこともあって、時間というものが深淵に感じられる。

今日はさらに多元宇宙についてのドキュメンタリーも見た。
量子力学も多元宇宙もなんど聞いても意味不明である。

多元宇宙説を支えるのはいくつかの分野の推察らしくて、多元宇宙たってどうせ観測できないんだからと思うんだけど、超弦理論によると、宇宙はすくなくとも9次元はあるらしい。

すべてのものの基本単位を、粒ではなくて、弦(振動)とするのが、超弦理論だという。
なぜかstringsがひもと訳された時期があったということなのか、超ひも理論と呼ばれることもあるけど、なんだよひも理論って。

しかしすべての物質の最小のものが物体ではなくて振動というとらえかたをして、宇宙の根本は(物体ではなく)振動なのであり、宇宙とは弦楽器が奏でる音楽の調べなのだといわれると、単純な私は感動してしまう。

この世界の根本は静止したモノではなく、つねに動き、揺れ、震わせる動きなのだ(たぶん)

この説明にちょうどいいのが、「もの派」と呼ばれた70年代ごろのアートだと思っていて、その理論のまとめ役となった李禹煥など、直島の李禹煥美術館の存在で知ってる人も多いかも。

「もの派」というネーミングが逆説的なんだけど、作品となる物質自体ではなくて、その物質をどこにどう置くかで、ものと環境の対話を試みる。ひいてはそれが、作品と観察者の対話へとつながっていく――というのが、私の「もの派」への理解なのだけれど。

物質そのものに意味があるのではなくて、外界との関係性によって、ものに意味がたち現れるのだ、とする。

おっと、これは、さっき延々のべた認知療法にも通じるものではないか。

つまり、自分の存在とは何なのかと悩むとき、人はいつも「私は」「私は」と自分の核に価値を探そうとする。
でもじつは、人に核なんてものはなくて、あるのは「揺らぎ」や「振動」なのだ。

揺らぎだの振動だのいうものは、それ一つでは成り立たない。
他の存在との共鳴や、共振によって、あるいは反響によって、形をなしていく。

音楽を聴くときに、天才がつくった音楽だとか何とか、素晴らしい理由を探そうとしてしまうけれど、そうではなくて、音楽が素晴らしいのは、そこにかかわる人々と音楽という事象でつながっているから。

だから、つながりとか、誰かにふれあっている、共鳴する、反響する、その瞬間ずつの感覚に耳をすませる。
ということが大事なのかな。とおもうと、ちょっと生きやすくなる気がする。

李禹煥について過去記事。ものと観察者の対話というのが分かるかなと思う。

認知療法は自己流でやるとよくないこともあるとブックマークのコメントにかいてあった。
講義では実際の治療法もすこし織り交ぜながら進めてくけど、そこまでしなくても、ちょい考え方を知るだけでも大きいかなあと思った。

※そういえば米津玄師さんも、灰汁の強い作品を作っていた十代からうって変わって、今は「変わり続けることを楽しむ」など、人とのつながりの中に自分の作品性を見出している気がする。自分を手放すことというか...

※そう考えるとニーチェは天才たる自分を手放せなかったのかな...仏教へ深く敬意をもっていたようなのに、寂しい話だ。