天気の良い日曜日。体調がすぐれなかったのですが、秋の風景もそろそろ終わりかな、と出かけることにしました。ことし世界遺産へ登録されて話題にもなっている上野の西洋美術館は、開催中のクラーナハ展も評判上々という感じで、ちょうど気になっていたのでした。
西洋絵画がおもしろいのは、その時代の移り変わりがじんわり伝わってくるところです。本展はマクシミリアン1世が神聖ローマ帝国皇帝の座についた15世紀末から、ルター派のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒが、皇帝カール5世に敗れる16世紀半ばを背景としています。
ヴィッテンベルクに宮廷画家として招かれたクラーナハは、その後の運命を、ルターの宗教改革を保護した三人のザクセン選帝侯*1とともにすることになります。
ピカソやマン・レイといった前衛美術家に好んで引用されたクラーナハ。彼らがこのルネサンス期ドイツ宮廷画家のどんな面に魅力を感じたのか、考えながら作品を見るのも楽しかったです。感想は、20世紀美術から見たクラーナハという点をとっかかりに書いていこうと思います。
ルネサンス時代のファム・ファタール
クラーナハの魅力のひとつは、誘惑する、または破滅へ導く"宿命の女"、ファム・ファタールのイメージでしょう。画家がその作風にエロティシズムを押し出していくのには、プロテスタントにおいて偶像崇拝が避けられたことにより、宗教画の注文が減ったという事情があるようです。
赤子が林檎を受け取ろうとする「聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ」は、原罪を背負って磔にされるキリストの運命を予兆させる一枚。こちらを見る聖母マリアは微笑みを浮かべ、私たちに注意をうながすようです。こうした"罪"と"警告"の主題は、この先の展示でも展開されていきます。
西洋絵画においてエロティックな女性像は、ルネサンス期を前後として、ひとつのピークがあるように思います。それは、古代ギリシャ・ローマに遡る美の感性を、キリスト教的倫理観の社会が発見したとき、憧憬と背徳の間をさまよう葛藤をともなって現れたのでした*2。
クラーナハの描いた漆黒に全裸で立つルクレツィアは、ボッティチェリのヴィーナスを思い起こさせます。しかしクラーナハの描く女性たちの方が、より性の前にはばかる禁忌の意識を感じさせているでしょうか。誘惑しながらも立ち止まらせる、アンビバレンツな悩ましさが漂います。
"誘惑する女"が再び描かれるのは、19世紀末から20世紀初頭です。ギュスターヴ・モローやシュトゥックのサロメは、まさに世紀末のファム・ファタール。その350年ほど前の"宿命の女"は、しかしたんに悪女なのではなく、惹かれさせるほどに破滅の予兆で警告する、二律背反の化身なのでした。
全裸で横たわるニンフが描かれる画面に、"私の眠りを妨げぬよう"と警句を書き込むなどして、宗教上の文法はいちおう守っているクラーナハですが、こうした作品は市庁舎など公共の場に飾られたのではなく、注文主のプライベートな品として制作されたのだろうということでした。
鑑賞者の欲望をかきたてることを前提にして、戒めの言葉でチクリと刺す。これらの作品は、親しい間柄の人とだけ鑑賞する貴族の愉しみだったのではないでしょうか。依頼主が教会から貴族など裕福層へ移っていった背景が、一癖も二癖もある作風をうながしたのかもしれません。
クラーナハ「色面の力学」とピカソ
ピカソがとくに注目していたのが、クラーナハの絵にある装飾性だという説明がありました。
クラーナハの作品は上手さの度合いがまちまちです。工房による大量生産体制をとっていたこともあるのかもしれませんが、同時代に活躍したデューラーに比べると、プロポーションのとらえかたも不完全なところがあります。しかしはたして、これを単に下手さと見てよいものか。
イタリア・ルネサンスでは遠近法や陰影法が徹底され、以降の西洋絵画は写実的な傾向を強めていきます。一方で北方ヨーロッパの絵画には、ルネサンス以前に見られたような、より観念的で平面性のある作風が残りました。クラーナハにはそういった非写実性の魅力があります。
背景を一色に塗り、陰影を抑えた塗りは、漫画のような、今ひとつ踏み込んで言うと浮世絵のような肖像画となっています。造形のリズムを浮き上がらせる「色面の力学」はピカソをとらえるものであったに違いません(というようなことが図録にも書いてありました)。
プロテスタンティズムとクラーナハ
さてもうひとつ、クラーナハは工房による大量生産体制を整えた経営者であったという点も、展示会では特筆して取り上げています。
展示の中盤には、世界中の複製絵画制作の6割を受け持つ中国・深圳の大芬油画村の画家100人に、6時間でクラーナハ「正義の寓意」の複製を依頼してつくりあげたという、レイラ・パズーキの作品が待ち受けています。
なぜクラーナハの作品だったのか。それは彼の大量生産体制を踏まえてのことなのでしょう。
6時間という短い時間での出来は、画家によってバラバラで、クラーナハの歪なプロポーションを手直ししてしまう傾向も見られて、とてもおもしろかった。
大量生産にエロティシズム、どことなくキッチュという言葉も思い浮かべてしまうクラーナハです。カトリック世界が大きく揺らいだこの時代に、ふと浮き上がってきた表情は、大量消費社会にある美術品のものによく似ていたのかもしれません。現代美術の美術家たちがクラーナハに惹かれるのも、理解できるような気がしてきます。
そのクラーナハはルターの宗教改革をどうとらえていたのだろう、と思っていると、実は二人は親しい間柄で、現在の私たちが見るルターの肖像画のほとんどは、クラーナハの描いたものか、その模写なのだそうです。彼の書物の印刷も自分の工房で引き受けたほど、クラーナハはルターの理解者であったのでした。
プロテスタンティズムと資本主義の精神、という論文がありますが、思えばカトリック的な価値観が遠ざかったところに、合理主義的な大量生産体制や、個人という鑑賞者を想定したエロティシズムの絵画が立ち上がってきたのかもしれない、ということを考えたクラーナハ展でした。
企画展は空いていると聞いていた西洋美術館でしたが、わりあいの盛況でした。建物の作りを楽しむには、中庭を眺めることのできる併設のカフェ睡蓮に行くのがいいかなと思ったけど、夕方遅かったので、少し歩いて上島珈琲でひと休み。
少し前に東京でも雪が降って、公園のイチョウも名残の黄色。すぐそこまで来ている冬の気配を感じる上野公園でした。