日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

大仙厓展― 禅の心、ここに集う @ 出光美術館

永青文庫での仙厓展も気になってるところですが、先に出光美術館のほうが会期の終わりが迫っていたので、先にこちらへ。

仙厓義梵は江戸時代後期、臨済宗の僧侶。農家に生まれて、月船禅彗のもとの厳しい修行ののち、筑前博多聖福寺の住職となりました。禅の教えをユーモラスに説く仙厓の禅画は、あまりに人気すぎて、庭先に断筆を宣言した建石をおいたほど。しかしそれでも絵を頼む人の足は絶えず、再度筆をとってからは、生涯描き続けたといいます。

さっと描いた筆の印象が強かったのですが、絵を学び始めたという40代のころは、緻密な筆で陰影を丁寧につけて描いています。やはり、下積みあっての略画なのだなあと思わされました。

仙厓の禅画は、真似すれば簡単に描けてしまいそうです。その人が描くことと、たとえば私が似せて描くことの間にどういう違いがあるのだろう。それはおそらく、ただひとつの円であっても、そこに至る思考や苦悩が彼にはあったということなのです。

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一円相画賛 出光美術館蔵 *絵葉書より

円は、迷いも澄んだ心も正直に写すのでしょう。描き終えてもそこで終わりではなく、またその先を目指さなければならない。筆を置いたあとは、「円そのものに意味があるのではない、美味しい饅頭にでも見えてくれれば良い」とはぐらかす。こうなると、ああ、迷いだらけの今の私には円の一つも描けないんだろう、と思ってしまいます。

出光美術館のイメージビジュアルにもなっている布袋さんの絵は、空をさす指を経典に、悟りの境地を月にたとえて、指先ばかり見てても悟りには至れないと諭す「指月布袋」一連のもの。この一枚は、子どもに「を月様幾ツ、十三七ツ」と歌って聞かせて、説教めいたところからも離れています。

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指月布袋画賛 出光美術館蔵 *絵葉書より

この絵の布袋さんも子どもも踊るようで愛らしく、それでいながら布袋さんは上空から見下ろす目線に描かれ、足元には柔らかな月影がおちています。上手さを削いでも描きなれた筆運びは分かるもので、炎に立つ「不動明王図」なども、筆の巧みさをさらりと感じさせる作品でした。

展示では「◯△□」の解釈を紹介していましたが、説がいくつかあるのですね。宇宙を構成する幾何学だと聞いたことがありますが、神道儒教・仏教の「形は違えども根本は同じ」とした説は、それぞれの宗派の祖が鍋を囲むという絵も描いていることを思えば、説得力があります。

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○△□ 出光美術館蔵 *from Wikimedia Commons, public domain.

もう一つは、自らを「△」として「◯」を目指しながら、いまだ未熟であることを述べた記録から、悟りへ向かう心のあり方であるという説も。私が好きなのはこの説でした。40代を絵の精進の時期として、どんどん角がとれていく仙厓の生き方にも重なるような気がしたからです。

年齢ごとの変遷や代表作を見た後は、仙厓の多様な作品へ。80歳のある朝描いた蘭の花が目に留まりました。心地よい朝のささやかな感動を、さっと書き留めたのでしょうか。萩の花の重い茎を持ち上げて水をやるようすを、天狗の酒飲みに例えたり、ユーモラスな作品が続きます。

猫ニ似タモノ

猫に似たものとへりくだる絵は、虎のつもりでしょうか。然しもの仙厓も実物を見ない虎は描けなかったか、と考えて、実は依頼主に「そなたにはこれで充分」と言ったのではないか、など深い考察がされていました。

気に入らぬ 風もあろうに 柳かな

うへて見よ 花のそたたぬ里はなし 心からこそ 身は畢しけれ

「うへて見よ」と書き添えた椿の花の一枚は、最後の筆となったのだと書いてありました。人の心にも時季というものがあって、どの言葉が響くかはきっとそれぞれですね。ひたすらに遠くへ行きたい時期もあれば、地に足をつけたい時期もある。この句は、今は空っぽの私の心に大きな音で響いたのでした。

思うに仙厓義梵という人も、若い頃には理想を抱いて、市井の人々の苦しみに心を痛めたのではないでしょうか。江戸時代は全期を通して飢饉が絶えず、仙厓の晩年には天保の大飢饉も起きています。そんな中で描いた禅画は、厳しさを越えた先にあったものではないかと思うのです。

理想や怒りに満ちた「△」の荒いほど、「◯」になろうとする力はきっと凄まじい。この日はちょっと体調も良くなかったのですが、それだけに、柔和な筆の奥にかくれた仙厓和尚の苦悩を思ってしまう展覧会でした。
 

関連メモ

お月(つき)さまいくつ。
十三(じふさん)七(ななつ)。
まだ年(とし)や若(わか)いな。
あの子(こ)を産(う)んで、
この子(こ)を産(う)んで、
だアれに抱(だ)かしよ。
北原白秋 お月さまいくつ

「お月様幾つ」わらべうたの考察が気になりました。
あまり知らなかった。全国でいろんなバージョンのある歌のようです。

はたして君は、この「お月様」が幾つ(何歳?)なのか、分かるであろうか。この点についても、やはり『日本国語大辞典』は懇切な指摘をしてくれているので、これも以下に引用しておくと、そこには「十三夜の七つ時(午後五時前後)の出てまもない月のことで、まだ若い意」とあり、[…]続けて「二〇歳をいうしゃれ」という語釈が掲げられている。無論、こちらは「十三」と「七」を合計したものが「二〇歳」になる、という「しゃれ」である。
http://www.wakayama-u.ac.jp/kyoyonomori/message/-53.php

「年が若い」とは、ここでは「月齢が若い」ということですね。「新月」「朔」が日本の成り立ち深くに関わってるとするところなど、月の数えと民俗的な意識の繋がりも面白い記事です。

「幾つ」は月齢を問うのとかけて、「あの子を産ん」だ母親の年齢も問うているそうです。「十三夜の七つ時」は月齢にすると「若い」けれど、母親の年齢として「二十歳」は(近代以前の日本では)適齢期を過ぎていて若くはない。すると「まだ年や若いな」とは、さてどういうことやら。

「子持ち月」は十四月夜の機知に富んだ異称として中世の文献にしばしば登場している。例えば、「小式部」には、
——みなかみに、こと夜のしもは、ふらねども、七日/\の月とゐわれじ
という和歌について、和泉式部が「七日/\とは十四日なり、十四日の月をは子もち月といひ、十五日のをは、もち月といふなり」と説明したとある。和泉式部の説明から、この和歌がなぞなぞ歌であったことが分かる。
三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクション

ざっと解くと、「十三、一つ」と歌われる型のものが元ではないかと考察し、その場合「十三」「一つ」で十四日の月となる。満月(望月)が十五夜で、それに満たない十四日の月は「小望月」である。これが転じて「子持ち月」となる。十四なら月も少女も「若い」のである。

というのもいろいろある説のうちの一つだけど。歌をもとに考察が展開してくのおもしろかった。

これは、八重山の有名な民謡「月の美しゃ 十日三日 女童美しや 十七つ」 に基づくもので、「お月さまが美しいのは十三夜、娘が美しいのは十七歳」という意味だとする。
三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクション

十日三日で十三夜。「七日七日」と歌って、十四日のことと言う。「十三、一つ」十四夜、「十三、七つ」は二十歳。分割して数字を表すのには、何かあるんだろうか。数がきちんと合うのを日本の文化では嫌う傾向があると聞いたことがあるけれど、そういう類のものなのかな。それともたんに「しゃれ」なのか。

それは単に一月の何日目かを知りうるという便宜ばかりではなく、夜間の作業や外出のために、あるいは未婚の男女の恋のために、明るい月夜が必須だったからである
例えば、八重山の民謡「新安里屋ユンタ」には次の一節がある。
——田草取るなら 十六夜月よ 二人で気がねも 水入らず
だから、十五夜前後の明るい月の月齢を読みとることはとくに重要で、そのためこのころの月は、十三夜、十六夜、宵待ち月、立待ち月などのように固有の名前がつけられていた。
三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクション

民謡と月と女性(子守唄は女性文学かもしれない)。女性の月経を「月のもの」と呼んだり、男女の逢瀬も古来は月の巡りに応じていたり、性の営みは月と関係が深いのかな。と思って、そもそも30日前後を「月」と呼ぶことじたい、暦は月の満ち欠けから来ているのだなあと思い直した。

太陽が昇って沈む単位は「日」で、月の満ち欠けの単位は「月」という話ですね。