日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

トーマス・ルフ展 @ 東京国立近代美術館

ドイツの写真家トーマス・ルフの回顧展が東近美で開催されていまして、2013年のアンドレアス・グルスキー展に続くベッヒャー派の展覧会とのことで、注目を集めているらしいのですが、私が興味を持ったのは、美術展のレビュー記事を読んだのがきっかけでした。

熱いレビューです。あまり情報を入れずに観たかったので、記事半ばでとりあえずブックマークして、帰ってきてから読み直しました。

キレイな写真を見たいと思うとちょっと戸惑うかもしれませんが、頭の中をかき回される感じが好きな人は楽しめるかな。あと、作品が大きいので、なんか見てきた感はすごいあります。

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展示は具象的な作品から始まります。知人を撮ったポートレイト、どこにでもありそうな建物を建築写真という没個性的な方法で撮ったもの、など。こういう冷たく切り取った建物の写真すごく好き。ホンマタカシさんとか、昔よく集合住宅の写真撮っていましたよね。

家具の配置や窓からの光そのままに、なるべく手を加えずに撮った室内の写真もまた、撮る側の個性を消し去ろうとする意識が感じられます。

しかしそうするほどに、撮影者の視線は浮き上がってくる。とくに室内の写真からは、壁にかけられた絵や生活の気配を感じさせる小物など、その風景を切りとる写真家の感性がいやおうなく感じられるのです。

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撮影者の視線を消そうとするほど浮き上がる、その矛盾をはらんだ作品がポートレイトシリーズです。知人を撮っただけの写真ですが、皆どことなく緊張を感じさせます。ルフはこのシリーズの撮影時に、被写体への介入をゼロにすることはできないと思ったのだそう。

このポートレイトシリーズが制作された80年代は、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が舞台にした時代でもあって、小説に描かれた監視社会が作品のイメージにも重ねられているのだといいます。被写体を視るのはいったい誰か。ファインダーを覗き込む「私」と権力の親和性。

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そういったルフの写真(あるいは撮影すること)への感性は、モンタージュ合成写真機で制作された「another Portraits」へも引き継がれていきます。一見ぼやけた写真かと思いきや、異なる人物の顔を数枚重ねて制作されています。

「私」であることの連続性が、ここではバラバラにされてしまう。連続性の担保は、あるいは管理された情報の中にあるのかもしれない。私を私にさせている昨日の記憶は私の中にあっても、公のものの手の中にある簡素な情報のほうが、社会的な私を確証づけるのかもしれない。

そう考えると、新聞や雑誌から切り取った写真を、あらためて作品として展示するニュースペーパー・フォトのシリーズには、実存(写真)と本質(見出しやキャプション)が引き剥がされてしまう不安があって、これもモンタージュのポートレイトと主題続きなのかも。

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湾岸戦争終結の翌年に制作された「Night」は、微光暗視装置をフィルムカメラに装着して、デュッセルドルフの街を撮影したもの。イラクの夜の空に飛び交う緑色の光、印象的なあの映像を連想させる。ということですが、説明を読むまでは、ただ「綺麗だなあ」と思ってしまった。

いったん暗視スコープの視線と結びついてしまうと、何の変哲もない都会や郊外の風景が、急に穏やかならざるものに変わってしまう。被写体(といっても街や建物ですが)の普段の表情もまた、不穏さに拍車をかけています。

具象的な作品はだいたいここまで。ルフはこの先、自分でシャッターを切ることを、ほとんどやめてしまいます。ネットの海に漂う写真を素材に加工を重ねていく作品は、写真と呼んで良いものか躊躇するほどです。

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まずは「jpeg」という作品。シリーズのタイトルは、ウェブ用の画像の一般的なファイル形式であるjpgから来ていて、解像度の低いjpgファイルを拡大してしまうという、ウェブデザイナーが見たら発狂しそうな作品です。

ネットのヌード写真やエロ漫画のイラストを加工して、何やら美しい虹色の作品にしてしまったり。初めはポルノ画像であっても、加工を重ねるうちに、まったく別なものに変わってしまう。

これに似たような試みを、数年前のメディア芸術祭のときに見たことを思い出しました。新津保建秀さんは好きな写真家のひとりですが、その作品はよく分からなくて、もう何十分もその場にいつづけた覚えがあります。つまりそれは、カオスの再現であるというのです。

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何ができあがるのかは、作家自身もわからない。ポルノグラフィを素材につかったルフの作品は、”写真であること”だけでなく、根本的な人の欲望さえも空虚なものにしてしまうようです。

おそらく展示の中でもっとも不可解な「zycles」は、サイクロイド曲線を仮想の3次元空間で走らせたものを、二次元化して色・構図を調整した作品です。これもカオス系の作品かな? どういう絵になるか作家じしんにも分からない。だからこそ作為性のない結果にたどり着ける。

「zycles」シリーズについで、印画紙の上に物をおいて直接露光をさせる「フォトグラム」シリーズも、なかなか手強いです。シミュレーションの中の光の軌跡。

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さて、難解なシリーズを抜けたあとは、幼いころ「カメラより先に望遠鏡を手にれた」というルフの純粋な関心が向けられた、宇宙のシリーズへと続きます。ヨーロッパ南天天文台NASAの映像など、インターネット上のアーカイブ画像をもとに制作されています。

惑星探査機カッシーニの映像などを個人的に保存して、色を加工したりしていたというルフ。宇宙のシリーズは、アート的な挑戦だけでなく、個人の興味の延長にもあるのかもしれません。

垂直に見た火星の映像を、斜めから見たように傾ける加工には、無味乾燥な画像に人の主観をそっと加えるよう。

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最後は、日本やアメリカの報道写真に、その写真の裏に記された走り書きやスタンプを二重に合成した作品。報道写真とキャプションを切り離してしまった1990年代初頭の作品の、裏返しのような作品です。これは個人的にとても好きな作品でした。

その当時の報道現場のやりとりが浮き上がってくるようで、わくわくします。フィルム写真からプリントして、その裏に手書きでメモするなんて、20世紀ならではの手仕事感。

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トーマス・ルフ展には特設サイトがあって、シリーズの解説や著名な人の寄稿もあり、つい読みふけってしまいました。写真らしい写真に始まった彼の作品は、やがてメディアアートへ傾いていきます。彼の向かう先は、はたして「写真の死」なのか、それとも「さらなる発展」なのか。

かつて絵画との対比で意義をとわれた写真でしたが、今はインターネットを漂流する情報や、コンピューターの中のシミュレーションに、その存在を問いただされています。けれどメディアアートを名乗らないのは、シャッターを切って作品を作ることがなくても、彼の見る可能性は写真にあるということなのかも。

この後、コレクション展も行きましたが、いつものように時間が足りなくて、全部見れないまま追い出されるなど。コレクション展の中ではルフ展と関連して、ドイツの近代写真も展示。

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無意識にまかせた表現を好んだり、日常に非現実を見たりと、シュルレアリスムとの関わりあいも面白く感じましたが、「機械の眼」が見る世界、「新即物主義」にはちょっと惹かれました。のちに日本でおこる「もの派」の表現に似ている気がした。

撮影者の視点を消し去って行こうとしたルフは、コンピューターの中の偶発的な光の描画において、その目的を達成したのかもしれません。それとは逆に、李禹煥はじめ「もの派」の作家たちは、対象物と鑑賞者の関係性に重点をおいていったのではないか、という気がしました。

理由は分からないけど、もの派の作品はなんとなく好きです。美術展いろいろ行ったりしてて、言葉で考えることは楽しいけれど、本当に好きなものはうまく言語化できないなあ。

関連URL

http://bitecho.me/2016/08/29_1121.html

公式サイトのエッセイは面白かったです。展示をとおして、「撮影者不在の写真」というのが私の強く感じたことですが、メディアと社会の関わりを写真に反映する、という視点はなかったな。「写真を使って制作を続けたいならメディアについて考え続けなければいけない、そしてメディアについての考察は、必ず作品に反映しなさい」という言葉。明瞭な形を持たないメディアというものに向き合う身体性、など。たとえば「press++」という作品は、メディアを視覚化(身体化?)している分かりやすい作品なのかも。