日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

旅日記 京都・鷹ヶ峰 編

むかし数年ほど京都に住んでいたのですが、当時は美術やら興味がなかったので、知人に誘われて光悦寺で光悦垣を眺めてもすごいの? そうなの? くらいの感想しか持たなかったのでした。

近年の琳派若冲ブームやらで美術への興味が出てくると、京都そのものが歴史的な美術の舞台だったことを感じさせられて、もう一度ゆっくり京都めぐりしたいなあと思った次第。友人の「京都来るならうち泊まってええで」という言葉で、年末年始、滞在型京都めぐりに行ってきました。

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琳派にしぼりこんでの古地めぐり。美術巡礼というと高尚な響きがするけれど、いわば映画・アニメの聖地巡礼みたいな感じ。鷹ヶ峰は、本阿弥光悦徳川家康に土地を与えられて開いた芸術村です。洛中から離れた静かな場所ですが、昨年の”琳派400年”も、光悦の鷹ヶ峰拝領が起点なのでした。

格安旅行と決めていたので、夜行バスで早朝の京都駅におりたって地下鉄で四条河原町まで出ると、レンタサイクルやさんで自転車をかりて、さっそく北上。

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とはいえ、京都の道はほとんど忘れていて、とりあえず川沿いを北へのぼればいいかな。少し行くと、ひとところに群れるマガモとか、つがいのシロサギ、やにわに飛び去るトビとか。いちいち足をとめてしまう。バードウオッチング趣味のひとは、ここだけで日がな過ごせそう。

鷹峰山 源光庵

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もとは臨済宗だった源光庵は、元禄七年に卍山禅師が住持して、曹洞宗に改まったのだといいます。禅宗のお寺なので、達磨さまの絵が数点かけられている。本堂にかけられた「迷いの窓」「悟りの窓」も、見るほどに禅問答を投げかけられているようで、とても楽しかった。

やきものの色合いや質感を景色と呼んで、偶然できた模様を、季節や森羅万象の表情に見立てることがありますが、草木の自然のままに伸びる庭と、その景色をさまざまな枠にきりとる源光庵のつくりにも、似たような感覚をいだきました。

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庭も、庭を写した室内の空間も、どのように見るかそれぞれの自由で、どの角度から見ても、なにかしらの景色になっている。なにをどう写すかは、自分の心次第。今日は晴れた冬の日だったけど、春や夏や、雨の日や、日ごとに映し出される景色もきっと違う。

そんなことを考えながら本堂へ入ると、庭をきりとる円い枠、「悟りの窓」が飛び込んできます。誰かこの円を音楽にたとえた人がいたような。庭の木々はあるがままにそこにあるけれど、円にきりとることで、ある整いを与えられる。途端に無造作な色彩は秩序をもち、季節ごとの音楽を奏でる。

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通常、額縁におさめられるのはイメージの力で存在する虚像のはずなのに、悟りの窓では、実際の風景が枠の中にある。現実と虚像が二重合わせになっている。四季や天候によって表情を変えるであろう円の景色を眺めていると、むしろ枠の外にいる私たちこそが虚像なのではないかと思えてしまう。

私たちは観察者である自分自身が主体だと思っているけれど、もしそれが逆転したら。円こそが世界を眺める主体であったならば。

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JR東海の広告では「私は宇宙を、友人は人生を、考えていたのでした」ってなっていて、禅っぽいなあと思ったりして。思考遊びなんですけど、楽しかった。

大虚山 光悦寺

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光悦寺は一度いったことがあって、わりあい広いお寺だったと思うんですが、普段は境内だけの拝観のようです。鷹ヶ峰周辺じたい混む観光地でないのか、はたまたシーズンオフだったからか、人の姿はまばら。光悦垣をしげしげ眺めたあとは、てろてろと歩いて、境内の端にある本阿弥庵茶席で一休み。

鷹ヶ峰までは緩やかな坂道を延々と登るのですが、その甲斐あってか、高台からの眺望はなかなかのものでした。遠くに洛中の白い影、西南には鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰の三つの稜線がそびえる。杉の枝の風を切る声と、近くを流れる小川のせせらぎの他に音はなくて、思わずしんみり聞き入ってしまう。

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400年前、本阿弥光悦がこの地に集落をひらいたころ、あたりはどんな様子だったのでしょう。
当時ここは辻斬り追い剥ぎの出没する土地として知られていたそうで、家康が光悦にこの土地を与えたのも、古田織部と関係の深かった光悦を警戒して、洛外へ遠ざけたかったからだという説もあります。

本阿弥一族や町衆、職人たちがこの地に移り住んだと伝えられますが、日中普段は賑やかでも、朝夕は松にふく風のわたる寂しい風景だったのではないかと思ったり。はたして光悦も、この寂寂とした松の音を聴いたでしょうか。

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ここからの風景を眺めていると、東山魁夷の「春静」「北山初雪」などの作品をほうふつとさせます。抽象的な風景だと見ていた魁夷の作品でしたが、鷹ヶ峰の風景を目にすると、むしろ魁夷は、京都の風景をそのまま描き残そうとしたのだなあと思うのでした。

魁夷も光悦の晩年の日々をすごした鷹ヶ峰の風景に立って、その心を辿ろうとしたのかもしれない。本阿弥光悦という巨星をはるか望みながら、鷹峯三山を仰ぎ見る、その日本画家の心に思いをはせる。ふたりの偉大な芸術家の心の重なりに感じ入る、なんとも奥深い土地でした。

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山種美術館 2014年12月「東山魁夷と日本の四季」展 内覧会より 一番右が鷹ヶ峰を描いた「春静」

境内には光悦の墓標もあります。さっと陽光がさすと、翁の微笑んでくれた温かみではあるまいかと思う始末。光悦のつくったやきものや書などをたくさん見て、あらためて京都で墓石の前にたつと、400年前、この土地に生きたその人の存在を確認するようで、感慨深い気持ちになりました。

寂光山 常照寺

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本阿弥光悦の養子・光嵯が、日乾上人を招いて創建した日蓮宗の寺院。のち二代目吉野太夫が山門を寄進したことで、吉野太夫ゆかりの寺としても知られているそう。太夫は遊女の最高格で、しかし美貌ばかりでない、教養と諸芸にも秀でた彼女にあやかろうと、歌舞伎俳優など芸能界の拝観者も多いとか。

境内で抹茶をいただけるとのことで、石油ストーブを焚いた室内で、切り餅とお抹茶を一服。春など暖かい季節は、外のベンチで桜をながめつつ、野点の雰囲気でいただけるよう。この日は寒いので、ストーブの前でしばらくじっとしてしまった。少しばかり温まったところで、境内のお散歩へ。

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本堂の裏にある茶席・遺芳庵には大きな丸窓がかけられています。この窓を好んだ吉野太夫にちなみ吉野窓と呼ばれるそう。仏教で円は悟りを表すそうですが、この窓は完全な円ではなく、底はわずかに直線となっています。満月の翌日には欠けてしまう月のように、ものの不完全さを表しているのだとか。

いつだったか日本の文化の中では、きちんと揃うものを避けると聞いたことがあって、割り切れる偶数より割り切れない奇数が好まれるとか、左右対称を避けたり、はたまた三十六歌仙と題しながら35人しか描いていなかったり。完全をすこし避ける特有の感性が、ここでも見られるようで面白いです。

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吉野太夫は26歳で京都の豪商・灰屋紹益に身請けされます。しかし周囲は大反対。紹益は勘当されて、駆け落ち同然に一緒になったという話。身請けに公卿と争っただの、紹益の父が雨のしのぎに立ち寄った、長屋の夫人の立ち振る舞いに感服して、後にそれが吉野太夫と知り結婚を許しただの。

二人のロマンスは戯曲化され後世まで継がれましたが、もっとも印象の強いのは、彼女に先立たれた紹益の、妻の遺灰を少しずつ酒盃に入れて飲み、二人の日々を偲んだというエピソード。持てるものをすべて捨てて一対の男女となって、その末のなんとも侘しい、しかし沁み入るような情景です。

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冬の時期は南天の赤い実が鮮やかだけど、その他はさみしいなあと、しんみり。白馬観音像へむかう途中で、寒さの中に凛と咲く椿の姿を見ることができました。境内にはほかに、帯に感謝をささげる帯塚や鬼子母尊神があり、吉野太夫ゆかりということもあって、どことなく女性らしい常照寺です。

いたるところに冬枯れのしだれ桜が長い枝を垂らしていて、春の頃にはさぞ華やかな賑わいをみせてくれるのでしょう。しだれ桜のほかにも、緑桜、牡丹桜、山桜と、けっこうな桜の寺のようで、やっぱり京都には、冬より春や秋にくるべきよなあとしみじみしたのでした。

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都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして

お寺を出るときに改めて気づく、灰屋紹益の妻への手向けの歌。吉野太夫と吉野の桜をかけているそうで、あなたがいなくなってしまって、都は花のない里となってしまったと悲しみを詠む。そう考えると、春のひととき山寺を満開にする桜は、それこそ吉野太夫の化身かもしれませぬ。

灰屋紹益はなんでも本阿弥光悦の甥の子にあたり、二人の婚姻を認めさせる仲立ちをしたのも大叔父の光悦なのらしい。存在感大きいなあ。吉野太夫にも光悦にも縁の深い常照寺なのでした。

御薗橋上賀茂神社

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鷹ヶ峰のみっつのお寺を満喫した後は、地図アプリを頼りに御薗橋方面へ。
常照寺でぱらついた冷たい雨があがり、賀茂川に出たときには、東の空に大きな虹が。

洛中洛外図では左隻に描かれる武家、職人の住む界隈を貫く堀川通りが、北のはてで賀茂川と交わるところにある御薗橋。ここも洛外になるのかな。鷹ヶ峰ほどではないけど、しんとして、郊外の閑静な住宅地といった風情。この田舎すぎず田舎めいた雰囲気がたまらない土地です。

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御薗橋をわたって短い坂をくだると、上賀茂神社の赤い鳥居が見えてくる。賀茂川と高野川が合流する中洲の土地にある下鴨神社のほうが、訪れる人も多いかなと思うけど、この素朴な雰囲気が好きで、京都に来たおりには、何はなくとも立ち寄る神社なのです。

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

小倉百人一首の一句。なつかしい。
上賀茂神社は6月末に行われる夏越祓が有名で、藤原家隆のこの句は、この大祓の行事を詠んだもの。歌に詠まれた"ならの小川"は、いまも神社の境内を静かに流れています。

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しかし、すっかり夕闇の迫る時刻。あまりゆっくりできず、境内をぐるりと一回りした後、ならの小川のせせらぎにひととき聴き入って、名残惜しみながら神社を後にしました。

帰路につく

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御薗橋から大宮通りを少しくだったところにある竹殿湯。行きがけに営業しているのを見かけて、帰りにふらっと立ち寄り。ここは湯船につかりたい寒い日に、ちょくちょく通った懐かしの銭湯です。

他のところはあまり知らないけど、たぶん普通の銭湯だと思う。暖簾をくぐると番台があって、左右に男湯、女湯。壁をへだてた男湯から、今日は寒いなあせやなあと会話が聞こえてくる。湯船につかると、思わずうなる熱いお湯。都会のスパで風呂好きと思い込んでいたぬるさを思い知りました。

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お風呂に入りたかったのには理由があって、初日の宿泊は烏丸三条ちかくのホステルなのでした。
シャワーは地下一階に、トイレと洗面台は各フロアに、女性ばかりの四人部屋と、なかなかミニマムなプライベート空間。ですが、キッチン・ダイニングが広くてきれい。

共同リビングでまったりして、ベットルームは寝に帰るだけのスタイルのよう。施設内はwifiも使えて、朝はパンなどモーニングサービスつき。合う人はリピートしそう。これで3200円。一人部屋だと7000円くらいかな? これはもう、シーズンごとに京都に通いたい。

関連URL

本阿弥家の家系図。昔は養子をとることも多くて、光悦のポジションはけっこう複雑らしい。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/107_konishi_2/

三味線音楽(古曲)で扱われるお話をまとめているサイトで、吉野太夫のエピソードです。
吉野太夫の話は他でもいろいろ読めるけど、こちらの文章が物語調でよくまとまってて面白かった。