日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

ミュシャとラリック @ 箱根ラリック美術館 - ミュシャ編

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箱根ラリック美術館 エントランス

箱根ラリック美術館では、2015/4〜12/13まで「ミュシャとラリック」展を開催しています。
ふたりともアール・ヌーヴォーを代表する芸術家ですが、その方向性は正反対。ミュシャは六本木での企画展のときに、その生涯に思いはせるものがありつつも、まとめる機会を逸したままでした。

9月に箱根に足を伸ばしたおりのラリック美術館でしたが、またしても感想を眠らせてしまいそう…ということで、近く放送もあるみたいなので、これを機会に書きとめておこうと思います。

って今日…。
今回、図録がなかったので、展示のキャプションをがりがりメモしたものをベースにしてて、ちょっと説明的になってしまいますが。

アルフォンス・ミュシャ

アール・ヌーヴォーを代表するミュシャは、日本でも人気の高い画家ですが、その成功は遅咲き。若い時代は苦労を重ねた人でした。働きながらデッサン学校へ通い、傍らで挿絵の仕事を手がけます。パトロンの支援を得て、27歳のときパリの美術学校へ通うものの、援助が打ち切られると極貧生活へ。雑誌の挿絵の仕事でなんとか食いつないだのだそう。

ミュシャにとって運命の日となったのは、1894年のクリスマスでした。他の画家たちがクリスマス休暇でパリを出払ってる中、舞台女優サラ・ベルナールが急きょ発注したポスターを、印刷所に残って働いていたミュシャが受注することになったのです。

出世作「ジスモンダ」は、一夜にして彼を人気イラストレーターにしました。貼ったそばから剥がされたというミュシャのポスター。サラ自身もこのポスターを気に入り、その後も彼に仕事を発注します。

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ジスモンダ(1894年)/椿姫(1896年)

ミュシャの故郷であるチェコは、当時、オーストリア=ハンガリー二重帝国の領地下にありました。
1900年パリ万博で、オーストリア政府の依頼を受け、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を担当することになったミュシャは、その準備で訪れたバルカン半島で、「ヨーロッパの火薬庫」となりつつあったこの地域を目にし、自らの故郷のおかれた複雑な政治状況をも振り返るのでした。

帝国の被支配民族が苦しめられている最中、政府の仕事を引き受けることに苦悩したミュシャ。この時手がけたポスターは、ひとりの女性と、その背後に青年の姿を描いています。そこには、オーストリアという国が、多数の民族の生きる国だということが示されているのかもしれません。

この仕事をきっかけにミュシャは、スラヴ民族として自分になにができるのかということへ、意識を傾けていきます。

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1900年パリ万博 オーストリア部門のポスター(1900年)/スラヴィア(1908年)*保険証券のデザインに用いられた元の作品

1918年、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、祖国の建国を祝福し、世界的なデザイナーのひとりとして、精力的に支援を重ねました。
チェコスロヴァキアの9パターンの紙幣のうち4つを担当し、スラヴィア相互保険会社の保険証書のデザイン、イヴァンチッツェ地方の博覧会のポスター、孤児の寄付のための受領書のデザイン、国の紋章まで、多忙にも関わらず、そのほとんどを無報酬で手がけたのでした。

この頃の品々の展示が豊富で、今回しみじみ見入ってしまったところです。建国にあわせて3日で任された切手のデザインは、その後2年ほどの期間で料金改定もあって、幾たびかデザインが変更となり、現在も熱心なコレクターの収集の的となっているのだそう。

17世紀ごろハプスブルグ帝国では、スラヴ語の聖書をもっているだけで厳しく罰せられたといいます。
ヤン・フスは、教会の免罪符を批判して異端とされ、火炙りの刑に処されたチェコ宗教改革者。民族の精神の象徴として、汎スラヴ主義で崇拝されました。こうした歴史の流れの中、1848年におこったパリ二月革命はウィーンにも飛び火し、ハンガリーチェコ民族主義に影響を与えます。

ヤン・アモス・コメンスキーは、彼の精神を受け継いで、チェコにおけるフリーメイソンの精神をつくりあげました。万人にひとしい教育を説いて、海外にいる子どもたちが祖国の言葉を学べるように、チェコ語の学校設立を進めたのでした。そのコメンスキー宝くじ協会のポスターデザインも、ミュシャが担当しました。

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ハースト(HEARSTS)国際誌の1922年5月表紙用イラストアート
*渡米の際にはハースト誌の表紙デザインをしばしば担当した。数点展示されてて満足でしたが、画集には載ってなくて残念。

かねてより構想のあったスラヴ叙事詩の制作を進めるため、資金を提供してくれるパトロンをもとめて、ミュシャはしばしばアメリカへと渡っています。滞在中は、雑誌の表紙絵、講演、美術学校の講義などを引き受け、多忙であったようです。やがて資金提供者を得ると、1910年祖国へともどり、スラヴ叙事詩の制作にとりかかるのでした。

1928年、独立10周年にあわせて完成したスラヴ叙事詩は、プラハ市に寄贈されました。
しかし1939年3月、ナチスドイツによって共和国は解体されてしまいます。ドイツ軍に逮捕されたミュシャは、祖国につくした愛国心ゆえに罪に問われ、厳しい尋問をうけるのでした。釈放の4ヶ月後の同年7月、悪化した肺炎のため、78歳でその生涯を閉じました。

第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアは解放されて復活をはたしますが、ソ連の影響下にあって社会主義共和国憲法を採択、その後「プラハの春」で自由化・民主化路線に向かうも、ワルシャワ条約機構五カ国の介入でソ連軍が駐留し、秘密警察のもと、国民が互いを監視し合う社会になっていきます。
ふたたびチェコが彼らの手に戻ってくるには、1989年のビロード革命を待たねばなりませんでした。

図録はありませんでしたが、代わりに画集を買いました。無名時代の挿絵から、パリで活躍した時代、スラヴ民族へと対象が変わっていく時代(この頃がいちばん好き)、そしてスラヴ叙事詩と、盛りだくさんの一冊です。

大国の支配のもと、民族の誇りと自由をもとめて立ち上がろうとした、その過酷な時代に、ミュシャという画家も立ち合ったのでした。言葉として漠然と知るだけだった民族主義でしたが、ひとりの画家の人生をおって辿ると、言葉は血を通わせ温度をもつようです。

大きな海のひと際のさざ波に思うことばかりが、全てではないこと。そこにあがる声には、幾つもの流れが交わって発せられていること。アール・ヌーヴォーの担い手として知られるミュシャですが、その生涯を追うと、スラヴ民族としての表現者でありつづけた面が見えてきます。

2017年には、そのスラヴ叙事詩国立新美術館にやってくるという話もあるのだとか。アール・ヌーヴォーの花形イラストレーターという顔ばかりでないミュシャの、生涯にわたって心を注いだその思いに、ふれるような美術展になるといいなと思います。

ラリックにひとことも触れませんでしたが、引き続きの後半で書こうと思います。いつになるやら…。展示はラリックとミュシャを比較しながら辿るもので、とくに1900年パリ万博の競うような出展品はわくわくしました。お互いに存在は意識していただろうか、などと想いはせる展示会でしたよ。

箱根ラリック美術館 開館10周年記念企画展 「ミュシャとラリック」
期間:2015年4月25日(土)~12月13日(日)
時間:午前9時~午後5時(年中無休)
入館料:大人 1,500円
http://www.lalique-museum.com

毎日が発見ネット ミュシャとラリック
さまざまな局面で同じ通過点を通っていながらも、内面に抱えるものが大きく異なり、最終的には全く違った生き方を選んでいる、そんな人生の面白さも描いています。ふたりの交流の記録がほとんど残されていないにも関わらず、ふたりの中にある、創作に対する葛藤や喜びを、作品を通して知ることができます。
http://www.mainichigahakken.net/12596.html

スラヴ叙事詩にも描かれた、ヤン・アモス・コメンスキーについて

海外のサイト。ハースト誌の表紙がいくつか載っている。