昔は日本で立体的な絵が描かれなかったのはなぜ?というまとめ記事を読んだ。
質問者は、たぶん美術に興味があって日本画も好きだけど、自分が絵を描く時の実感から、昔の日本の人はなんで立体的に描こうと思いつかなかったんだろう?と疑問に思ったのかなと。
結局答えはないのかなーともやもやしながら読んだけど、後から見返してみると、いくつかの答えは出ている。
4の、言語の違う人と理解しあうための写実主義、共通認識がすでにある人どうしで内的に高度化していくデフォルメ絵画っていう推測は面白いなあと思う。
専門の人はこういうやり取り見ても、答えがわかっているものをあえてまで書かないんじゃないかと思うけど、私は素人なので、こういう疑問は興味深かったのと、自分の考えていることのメモになると思うので、記しておこうと思う。
東洋の遠近法
東洋にも山水画に「三遠法」と呼ばれる遠近法があって、高遠(山頂を仰視)、深遠(谷間から後方の山をうかがう水平視)、平遠(近い山から遠い山を見通す俯瞰視)と定義され、遠近感を面でとらえている。*1
西洋でルネサンス期に成立した線遠近法は、日本には安土桃山時代、宣教師たちによって伝えられたが、江戸時代の禁教政策によって途絶えることとなった。再び学ばれるようになるには、18世紀中頃、長崎の舶来品のひとつだった玩具絵「眼鏡絵」を通してであった。*2
江戸後期からの西洋画の影響1 浮絵
眼鏡絵により伝わった遠近法に、早速チャレンジしたのは、新しいもの好きの浮世絵師たちだった。
浮世絵に西洋の線遠近法を取り入れた絵師は、奥村政信が初めだとされ、絵が手前に浮いて見えることから「浮絵」と呼ばれた。この遠近法は今見ると少々つたなく、微笑ましくもあるが、当時はおそらく話題になっただろう。浮絵はその後、歌川豊春、葛飾北斎によっても描かれる。
北斎は後年、名所絵を手がけるが、その頃には線遠近法の表現はやや控えめになっている。さらに歌川広重になると遠近法はより違和感のないものになる。北斎はそれまでの江戸絵画らしい誇張の面白さ、広重はより合理的な風景の見方をしていて、二人の名所絵を比較するのも面白い。
広重は北斎を尊敬しながらも、内心自分の方がうまく描けていると思っていたんじゃないだろうか。
*追記:初期浮世絵における矛盾した透視図法は、"絵師の未熟さの故ではなく、立体感を持たせたい部分と、説明的に情報量を増やしたい部分を両立させるための技法"とする説もある。*3
江戸後期からの西洋画の影響2 自然科学の眼差し
18世紀中頃、眼鏡絵に取り組んだ若い絵師がいた。写生派とも呼ばれた「円山派」の祖、円山応挙である。応挙は20代のころ京都四条通の玩具商につとめており、そこで眼鏡絵に出会ったという。*4
18世紀は享保の改革によって漢訳洋書の輸入が暖和され、蘭学が興隆した時代でもある。応挙が写生を重視した背景には、西洋医学書など洋書の輸入による、博物学的関心の高まりもあった。*5
長崎へ来航した清の画家、沈南蘋の描いた緻密で華麗な彩色画も、当時の絵師たちに大きな影響を与えた。応挙の写生画は、蘭学の機運と南蘋派の画風という、これまでの伝統的画壇にはなかった新風を受けて芽生えたものだっただろう。*6
蘭学を学んだ絵師には渡辺崋山と弟子椿山がいて、これはスレ内ですでに名前が挙がっている。
沈南蘋の影響を受けた絵師では、崋山もそうだが、伊藤若冲の細密画が有名だろうと思う。
日本に遠近法がなかった理由
しかしながら円山応挙や伊藤若冲の作品は、西洋の写実主義絵画とは明らかに異なる。
ある種のリアリズムを極めた若冲でさえ、単色で彩色し、陰影をつけてはいない。それは画材の違いかもしれないし、陰影法がなかった日本では、別の手段でリアリズムを追求したと言えるかもしれない。
正岡子規の俳句における「写生」について良い文章があったので、下記に引用する。*7
高階秀爾は、日本に明暗法や遠近法が定着しなかったのは、自然と対峙する人間がいなかったからだという。同氏は、京の町の様子を描いた「洛中洛外図」を例に、画家の視点の自由な移動について、このように言及する。
西欧の写実主義が、一定の視点からの人間との位置関係、すなわち人間と外界との距離を測定することによって成立するものであるの に対し、日本の写実主義はつねに視点と対象との距離を無視することによって、すなわち鳥や昆虫でも、人びとの動作や表情でも、すぐ目の前で観察することによって成り立っているのである。(高階秀爾『日本近代の美意識』)
須藤 徹 現代俳句の起源――俳句における写生と想像力を考える(序説)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/SudoToru.html
応挙と若冲もまた、主題を正確に見ようとしながらも、対象との距離感は相変わらず自由なままであった。やはりそれは、日本特有の自然観がなせるものであったかもしれない。
写実とデフォルメ1 開国後の日本
日本において独自のリアリズムの追求はあったが、遠近感や陰影を取り入れるようになったのは、江戸後期、西洋の舶来品が国内に入ってくるようになってからだった。
では遠近法・陰影法を発見できなかった日本の絵画は、西洋より遅れていたのか。じつは開国後、西洋の写実的な絵画を目にした日本人みずから、そのように考えたのだった。
そもそも美術品としての扱いではなかった浮世絵はもとより、国内の美術品の多くが二束三文で海外に流出したのも、この時期だった。
明治時代に来日した米国人アーネスト・フェノロサは、いち早く日本美術の価値に気づいた。彼の助手だった岡倉天心はのちに日本美術院を創設して、若い画家たちを鼓舞した。天心に学んだ横山大観は、師に空気を描く工夫はないか問われ、ぼかしながら描く「朦朧体」に取り組んだ。
朦朧体は、輪郭線で描く伝統的絵画からの脱却であった。明治以降の日本の画家たちは、西洋の絵画技術に驚かされながらも、自国が育んだ文化の連続の上に、さらなる表現をどう切り拓いていくか、新たな苦悩と挑戦の道に立たされたのであった。
写実とデフォルメ2 ジャポニズムと西洋
西洋の絵画技術が日本より進んでると考えた日本人は多かったが、フェノロサのような海外の一部の美術愛好家は、日本の美術品の価値を、多くの日本人以上に見抜いていた。
日本美術が西洋に紹介されたのは19世紀中頃、世界博覧会により方々の品が集められ展示されたことによる。日本趣味はヨーロッパの画家たちの間にも広まった。浮世絵の収集から始まり、作品にも取り入れたモネやゴッホは有名だろう。マネ、ドガ、ゴーギャンなど名を挙げればきりがない。*8
20世紀絵画の可能性を切り拓いたマティスは、ゴーギャン・セザンヌの影響を受け、また浮世絵から表現のヒントを得た。浮世絵はこれまで規範であった線遠近法と陰影法の呪縛から、彼らを解き放つきっかけとなったのだった。
日本の美術品が西洋にもたらせた変化は、写実からの解放であった。画面はより平面化して構成的になり、単色の色彩は感情を素直に表現するものとなった。デフォルメした造形と色彩による表現は、具象に縛られていた表現を自由にし、その眼差しを自己の内面深くに向かわせた。
明治以降の日本の画家たちの表現の追求は、西洋絵画との出会いによるものであったが、しかし追従ではない。彼らは独自の表現を生み出そうとしてきたのだった。
同様に、西洋の画家たちも日本美術からの影響を受けはしたが、それは19世紀末ヨーロッパ社会が変化していく時期に起こった、内的変化に合致したという側面もあるだろう。
おすすめ図書
画家の山口晃さんの著書「ヘンな日本美術史」は、日本美術のおもしろさを語りながら、終盤には西洋美術との比較も出てくるので、日本と西洋の絵画は何がなぜ違うのか、興味のある人にはおすすめの一冊。
「横顔を描いているのに、目は正面を見ている」絵画観だからこその自由な表現、遠近法を知ってしまったあと「自転車に乗れるようになった人は、乗れなかった自分には戻れない」画家たちの、苦悩と試行錯誤。語り口にもユーモアがあって読みやすかったので、美術への知識が深まったら、また読み返したいなと思った本でした。
追記など
なお西洋絵画でも、ルネサンス以前の東方の色合いの濃いビザンチン美術の影響をひくゴシック美術や、ルネサンス美術の反動からおこったマニエリスム美術などには、非現実性や歪曲表現が見られる。
特別展「横山大観と日本美術院の画家たち—近代日本画界の牽引者」横山大観、菱田春草の朦朧体の作品と解説が少々。
http://www.msz.co.jp/book/detail/01519.html
マティスの手紙や覚え書き。面白そうだけど高い。
*1:サービス終了のお知らせ :中国山水画、空間の構築性について、もっと詳しく知りたいときに
*2:「国際浮世絵学会創立50周年記念大浮世絵展」図録より
*3:http://siritai.jp/lecture/artcritic/res_artcri/res_type.html
*4:http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/enkinho.html:応挙の眼鏡絵を始め、遠近法を取り入れた江戸絵画を説明入りで紹介している
*5:TALK 生を写す視点 | JT生命誌研究館:応挙の写生と博物学(解剖学、相学など)
*6:http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/7640:北斎、広重など浮世絵師、歌川国芳、円山応挙、渡辺崋山の魚類画に見る写生。蘭学と南蘋派の影響。
*7:日本と西洋の空間意識にも、同じ理由から、そのような差異を指摘をしているものを読んだことがあるが、長くなるのでここでは省略する。