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[感想]「風神雷神図」尾形光琳 | 東京国立博物館「日本美術の流れ 屏風と襖絵―安土桃山~江戸」

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風神雷神図」尾形光琳東京国立博物館
 
元禄の絵師、尾形光琳にとっての「風神雷神図」とは、苦境に立たされたとき、その心に明かりを灯した一枚であった。*1
 
京都の裕福な呉服商の次男として生を受け、若い時分は放蕩三昧の日々を過ごした。
しかし、実家の雁金屋が経営難に陥ってからは生活に行き詰まり、やむ負えず絵筆をとったのだった。

光琳は、同じ町衆出身の絵師俵屋宗達を慕い、およそ80年前を生きた先人の画風に学ぼうと模写を重ねた。「槙楓図屏風」は、宗達の同名の作品を元に、独自の表現を取り入れて描いた作品である。

光琳には公家、大名に支援者がいたが、特に京都銀座の役人で富豪の中村内蔵助との関係は深かったと見られている。法橋の位を得るなど実力を認められていた光琳だったが、法橋位受領から三年後には、江戸詰になった内蔵助を頼って京都をあとにした。
光琳は、おのれの実力を江戸で試してみたいと思ったのかもしれない。

しかし当時、狩野派が勢力を持っていた江戸で、一派に属さない絵師がいちから身を立てることは容易ではなかった。
狩野派の画風を学びながらも作品を描いた光琳だったが、上方と異なる江戸の文化に馴れることはついになかったようだ。江戸での滞在中に知人宛の手紙で「どうか無事に京都に帰り、貧乏でもそのほうが楽が多いようです」と、望郷の念を伝えている。

五年後、失意のなか故郷へ戻った光琳が出会ったのが、俵屋宗達の屏風画「風神雷神図」だった。
宗達の描いた力強い風神と雷神に、自身の中にある美意識のルーツを見たのではないか。
光琳はこの絵を模写して、自分なりの「風神雷神図」を仕上げたのだった。

宗達の「風神雷神図」には、屏風の向こうにもう一つの世界が広がっている。
屏風の枠はたまたまそれを切り取ったにすぎない。だからこそ、風神と雷神はその姿を断ち切られている。それは見る者に、枠のその向こうに世界の続きがあることを感じさせている。

光琳も私淑した絵師の作品に宿る時間性に気づいただろう。
光琳は風神と雷神の姿を枠の中におさめることで、均衡のとれた作品に仕上げた。それは、呉服屋に育った彼のデザイン性に長けた感覚がそうさせたのではないかと思う。それはそれで、光琳らしさが表れた作品とも言えるだろう。

後年に描かれた「紅白梅図」は、宗達の「風神雷神図」からの影響を見ることができる。
左右に配された梅はその姿形を大胆に切り取られ、中央に水流が流れる。この水流は見る者に迫るように、向こう側の世界からこちら側へと押し寄せてくるようである。

光琳は「風神雷神図」の模写で写しきれなかった時間の意識を、この作品で再現しようとしたのではないか。「紅白梅図」の中に息づく時間性は、宗達の「風神雷神図」よりももっと意識的に描かれているように思う。
 
江戸幕府が開かれ、政治の中心が江戸へと移った時代、京の貴族・公家は、王朝文化への強い憧れを抱いた。京都の町衆たちは和歌や古典に寄り添って教養を深めた。本阿弥光悦俵屋宗達の作品は、そういった時代から生まれたのだった。

絵師としての光琳の道程は、会ったことのない師の存在に導かれるものだったように思う。「風神雷神図」の前に立ったとき、その絵を写し描いたとき、光琳の心境はどのようなものだっただろう。

大名の家に生まれ絵師の道を歩んだ酒井抱一は、光琳の事績を研究してまとめあげ、宗達光琳から続く流派を「緒方流(尾形流)」と呼び、江戸に琳派の画風を呼び込んだ。

宗達に学んだ光琳の画風が江戸へと広まったのは、彼が活躍した時代から百年後のこと。時代を経て宗達光琳を師として仰いだ弟子によるものだった。


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東京国立博物館「日本美術の流れ 屏風と襖絵―安土桃山~江戸」|「風神雷神図」尾形光琳
特別展「栄西建仁寺俵屋宗達風神雷神図」展示にあたって同時期に展示。2014/5/18迄。

*1:光琳にまつわるエピソードはBS「世界の名画〜素晴らしき美術紀行」より。一部情報をWikipediaより補足