日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

いつか、少女だった日 - ヤギ編

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赤ちゃんヤギ三匹が産まれて二週間、落ち着きを取り戻したはずの小さな牧場で、朝からしきりにないてる子ヤギがいる。様子を見にいくと、母親を探しているのか、小屋の入り口でメーメー鳴く一匹の子ヤギの姿があった。

見渡すと、他の三匹の子ヤギは気にする様子もなく歩き回っている。あれっ三匹? 目を疑って数えてみるも、やはり他の子ヤギは三匹である。赤ちゃんヤギが一匹増えているのだ。いったいどのヤギの赤ちゃんだろう。それともヤギ主がよそから連れてきたのだろうか。

牧場に入って子ヤギを抱き上げ、まずはアリスのところへ連れて行く。アリスは「知らない」というそぶりで顔をそむける。じゃあエルザ? 彼女もこの赤ちゃんヤギに興味を示さない。どちらも母親でないと主張しているが、ほおっておくわけにもいかない。もうアリスでいいからお乳をあげて! 赤ちゃんを目の前につきだされると、「知らないったら」と逃げ出すアリス。

そのとき、目の前をふわっと通りすぎたのがシンディ―だった。若いシンディ―は、体も小柄で妊娠している感じではなかったけれど、おしりのあたりに赤黒い滓が残っているのである。まちがいない、彼女が母ヤギである。

確信をもってシンディ―につめより、子ヤギをつきだす。彼女は少し戸惑ったものの、逃げはしなかった。餌場の台で、赤ちゃんヤギがお乳を飲むのを補助してやる。はじめは困惑も見えたシンディ―だったが、まだうまくお乳をのめない子ヤギが、そのうち立ったままウトウトしはじめると、ンーンーと鳴きながら右往左往して、どうやらわが子を気にはしているようである。

お乳をあげて、すっかり母親の気持ちになったのかもしれない。シンディ―にとっては初産だったはずである。自分の身体から分かれた命だとわかってはいるが、子ヤギにどう接していいかわかっていない様子であった。

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以前、シンディ―の恋について書いたことがある。まだ若いシンディ―が群れの雄ダニエルと親密になるのは、時間の問題だっただろう。ただそれを恋と呼んでいいのかは、ためらいがある。シンディ―は、彼女じしんの魅力をためす相手としてダニエルを選んだのではないか。

ダニエルの初恋の相手はエルザであった。塩をなめるエルザのうっとりした横顔を眺めていたダニエルは、やがてその首筋に頬をすりつけ、愛情を示した。しかしエルザはすぐに心を許したわけではない。三日三晩ダニエルはエルザを追い掛け回し、その恋の切実さには、見ている方も悲痛にさせられたものである。

その夕暮れ、意気消沈するダニエルに、ふと近づいたのがアリスだった。はじめにダニエルはアリスのおしりをかいだ。ここまではよくある光景だ。美しい女性を街でみかけて、思わず目で追ってしまう行為となんら違いはない。しかし彼女は視線をあわせて微笑むーーアリスもまたダニエルのおしりに鼻をあててみせたのだった。アリスが若い雄ヤギを受け入れた合図だった。

およそ半年ほどが過ぎて、アリスは双子の子ヤギを産み、翌日にはエルザが娘を出産した。あの夜のあともドラマは続いていた、ということである。

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エルザにぞっこん惚れ込んでいたころのダニエル

すっかりダニエルの恋の狂想曲も落ち着いたかと思ったころ、こんな光景を目にした。若い雌ヤギのシンディ―が牧場を歩き、ダニエルの視界にはいるあたりでふと足をとめたのだ。

それが奇妙に感じられたのには理由がある。ヤギたちには無意識のテリトリーがあり、よほどの理由がない限り、母子コミュニティーを離れて他のコミュニティーには近づかない。シンディ―はそのルールを侵していたのである。

餌があるわけでもない、日向ぼっこに横たわるわけでもない。彼女は群れの雄ヤギに、彼女の美しく育ちつつあった肢体を見せるため、その場所に立ち止ったのだ。

それは彼女にとって新しい自分へのチャレンジだった。母アリスや妹シンディ―に気づかれないように、そうしてダニエルだけに気づかれるように、彼女はそれとなく行動したのである。

シンディ―のふるまいに気づいたのは私だけではない。当のダニエルが気づいて面をあげた。吹き出しがあれば「うん?」と言っていただろう。すぐには動じなかったダニエルだが、しなやかな身体を見せつけるように立っているシンディ―に、やがてふらふらと近づくのだった。

シンディ―はそれを見逃さなかった。彼女はダニエルからすっと逃げてみせる。しかしもう一歩踏み込めば、まだ彼女に触れられる距離である。今一度歩み出すダニエル。シンディ―はさらに遠のいてみせる。この駆け引き。シンディ―はダニエルの恋の熱を引き出すためか、つれない雌を演じてみせるのだった。

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梅雨のころの恋。赤ちゃんが生まれたのは秋雨の季節だった。

ダニエルの恋の火が弱まると近寄ってみせ、追いかけると逃げる。まさに小悪魔のような振る舞いであった。その日はけっきょく実らなかったシンディ―の駆け引きだったが、目の前の、まだ立つのも頼りない赤ちゃんヤギの姿を見ると、彼女の恋のゲームは勝ちに終わったようである。

しかし、その代償も少なくなかった。母アリスの庇護のもとにあったシンディ―と妹ベティ―だったが、アリスが子どもを出産してから、姉妹は母の保護から外されることとなったのだ。とくにアリスのシンディ―に向かう攻撃性は、他のヤギに対するものより激しかった。

たとえ娘でも、子どもをもてば「よそのファミリー」になるらしい。シンディ―が出産する前から、アリスの攻撃性は辛辣であったから、彼女は娘の妊娠に気づいていたのだろう。

これまでアリスにしっかり守られて育ってきたシンディ―であった。それがある日を境に、もっとも排除すべき"よその雌"にされてしまったのだ。たった一度のシンディ―の恋ーー若い好奇心が、彼女を不可逆的に大人へと変えてしまった。

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夏、がじゅまるの木陰で涼むアリス一家とダニエル

まだ子ヤギが産まれてから三日もたたない頃、母親を探し当てられずに子ヤギ、メルはよちよちと祖母アリスへと近寄った。アリスは鼻で体臭をかいで、わが子ではないと知ると、その立派なツノで子ヤギをつきあげたのだ。

メルの体は宙に浮いて、それから地面におちた。思わず私は柵の向こうでアリスを叱ったが、どうかなるものでもない。アリスが背を向けるのを待って、子ヤギに近づいたのはシンディ―である。突き上げられたとき一瞬鳴き声をあげたメルは、何がおこったかわかっていない様子で起き上がり、ぼんやり立ち尽くしていた。そのわが子を、シンディ―はずいぶん長い間、鼻で愛撫してなぐさめ続けたのだった。

フェリックやダニエルが他の牧場に移されてから、少しさみしそうに見えたシンディ―。今は母と妹からみずから距離をとって、一頭の母として牧場にたつ彼女である。

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シンディーとそのかたわらで眠る子ヤギのメル

ある冬の晴れた日、通りに出ると日向ぼっこをしているシンディ―の姿があった。そのわきにはまだ体のちいさなメルが丸くなっている。赤ちゃんのうちは自分でなかなか母親を探し当てられないもので、おそらくシンディ―のほうが寝ているわが子に寄り添ったのだろう。

ダニエルと結ばれても、かのオスヤギは母になった彼女の隣にいてくれたわけではなかった。そればかりか彼女は母から勘当され、妹とも距離ができてしまった。コミュニティーのなかの母ヤギのうち、シンディ―のつつき順位は末尾である。それでも彼女のそばに残されたわが子に、こわれやすい宝物をあつかうように、そっとよりそうシンディ―である。

一方、母と姉が出産をして、家族がバラバラになってしまったベティ―の話も書きたいところなのだが、長くなってしまうので、また近いうち別の機会にして、この辺で筆をおこうと思う。