横浜美術館で開催中のメアリー・カサット展にいってきました。19世紀の画家に浮世絵の影響をみたりと、2014-15年のホイッスラー展に似てたかな。版画作品も交えて、19世紀末から20世紀はじめの、ヨーロッパの女性の新しい眼差しが感じられる美術展です。
印象派を代表する女性画家のひとり、メアリー・カサット。10代の頃に画家を夢見てアメリカからフランスへと海を渡りますが、女性が画家になる道は簡単ではなかったこの時代、美術学校に入校できずに、代わりにヨーロッパ各地の美術館をめぐって独学で絵画を学びました。
サロン入選の常連となり、肖像画の仕事も舞い込むようになったころ、彼女はドガの絵に出会います。”ガラスに鼻をくっつける"ほど見入ったというカサット。一方ドガも彼女の作品に出会い、自分の感性に近い画家だと察して、彼女を「印象派展」に誘うのでした。
“(美術を)私が見たいように見れるようになった”と語ったカサットは、それまでの定型的な主題から自由になって、自分自身の視点でモデルたちを描くようになっていきます。
昼用のドレスで舞台を見る横顔の女性。その向こうに、こちらへオペラグラスを向ける男性の姿が見えます。これまで女性は見られるもの(客体)であり、見る主体は男性であった、という話を読んだばかりだったので、そんなことを思い出しながらこの絵を見ました。
この絵の中では女性は何かを「視ている」のであり、かつて「視られる」存在であった女性が、「視る」という主体を獲得したのだ、と考えることができるかもしれません。このような風刺的な作風は、展示の中でもほとんどなく、この時期のドガの影響なのかな、と思ったりしました。
この作品で示された「女性の眼差し」は、その後の彼女のテーマを暗示するようでもあります。
彼女が描いたモチーフの多くは、身近な女性たちでした。親しい友人、祖母の姿、彼女の母と友人のティータイムのひととき、顔を寄せ合う幼い姉妹たち。そこにあるのは、女たちの時間。理想化されない自然な女性の姿と、気負いのない関係性でした。
ドガが浮世絵にインスピレーションを得たように、カサットも浮世絵を収集し、彼女の絵のアイデアに取り入れました。葛飾北斎や歌川広重の名所画からは、トリミングの妙を見せる斬新な構図を、そして喜多川歌麿の浮世絵からは、母と子の睦まじい姿に、女性の中にある素朴な絆を。
浮世絵に触発された構図は、「近代的視点」とも呼ばれていましたが、個人的には、ここにはカメラの影響もあるんじゃないかなと思っています。それまでは人物の全体を枠におさめるように描いていた構図が、ちょうど焦点距離の長いレンズで切り取ったような構図へと変化する。
こうした構図はしばしばスナップショットのように、(多くの場合何気ない)瞬間を切り取ったものになる。"劇的なシーン"から"日常の瞬間"への変化というのも、近代的視点のひとつかなと思いました。カサットの版画にはそうした素朴な一場面が描かれて、そこも魅力的でした。
林檎へ手をのばす子どもを抱く母親。ポスターにも採用されている一枚です。林檎は聖書でイヴが口にして、アダムに勧めた"禁断の果実"。作品の中でカサットが、あえて母子に林檎へ手を伸ばさせたのは、歴史的な女性の解釈への挑戦でもあったのでした。
この作品は、シカゴ万博≪現代の女性≫館で、カサットが手がけた壁画「知識と科学の実をもぎ取る若い女性」の習作と見られているそうです。このテーマは当時賛否を引き起こしたらしく、同時にカサットという画家が、女性がさまざまな場面で主体となっていくことを、強く意識した画家であったことを感じさせます。
けれども時代をおうごとに彼女の絵には、とくに母と子の愛情あふれる姿という主題や構図に、理想主義的なおもむきが強まります。女性像に対して革新的であった彼女の作風が、次第に古典に回帰していくのには、ちょっと不思議な気持ちになりました。
あるいは彼女は、彼女の描く女性の物語から、普遍的なものをつむぎ出そうとしていた、女性のための神話を描こうとしていたのではないか、という思いもわき起こってきます。そうすることが創造の分野でできる、”女性が主体を得ていくこと”の最たるものであったと思うからです。
というわけで、大変ゆたかな時間が過ごせたカサット展でした。ドガの踊り子を描いた絵「踊りの稽古場にて」の空間のつくりかたが巧みで見入ってしまったのと、カサットの作品ではやはり、「母の愛撫」をはじめとした母子の作品が良かったです。
女嫌いで知られるドガですが、カサットだけは別だったそうで、博物館の展示を眺める”知的な女性”として彼女を描いた絵もありました。カサットは生涯独身だったようですが、ドガとも長く友人の関係だったそうで、二人の間に、同じ時代を生きながら共感するような、独特な絆もあったのかな、とちょっと興味がひかれました。
横浜美術館はコレクション展もボリュームあるので、そこも忘れず見てきましたよ。カサットが壁画を描いたシカゴ万博では、日本からは渡辺幽香という女性画家の作品が展示され、この絵をカサットが見たら彼女の作風も一段と変化があったのではないか、と図録でもふれていました。
その渡辺幽香の「幼児図」をはじめ、兄である五姓田義松、彼の師匠であるチャールズ・ワーグマンなどの作品を展示。明治の洋画は描き方に曇りがなくて、個人的にとても好きです。ついで展示は洋画をはじめ、近代絵画、現代アート、日本画とそれぞれに活躍する女性作家の作品へ。
日本画では荘司福さんのモノクロの風景がよかったです。オブジェ作品では生田丹代子さんの作品が魅力的でした。板ガラスの断面を重ねてつくる造形美。初期の作品は音楽からイメージを得ていたそうで、やがて感情や命といった主題へと移ってくのだそう。他の作品も気になります。
写真エリアではがらっと変わって、メアリー・カサットと同時代アメリカの写真家作品をおう。フォトグラフ黎明期。写真ってある意味、絵画より表現できることが固定化されてしまうと思うのですが、再現性の比較的高い写真というツールで、では何をもって作品とするのか? みたいなところが垣間見れて、とても面白かったです。
ファッション写真の草分け的存在であるエドワード・スタイケンの存在感すごかったんですが、中でも大恐慌のニューヨークでホームレスの女性たちを撮った一枚は、その硬質な画面に、絵画的な厳かささえ感じさせています。
また、自然の造形美を幾何学的に撮るアンセル・アダムスや、草木、女性の裸体のフォルムを、こちらは幾何学的におさめながらも、官能性をひそませるイモージン・カニンガム…。
アートにおける写真の深みを感じさせる展示でした。ほんと、尻尾の先まであんこが詰まっているような美術館です。
午後からはコンサートがあって、紫外線降りそそぐなか赤レンガ倉庫まで行ってきました。
彼女のファンを10年ちかくやってるんじゃないかと思うんですが、それだけ長いと、同じ女性としての生き方みたいなのを重ねてしまいます。彼女にあって私にない哀しみや、喜び。彼女にない、私だけの哀しみ。
メアリー・カサット展のおかげか、そんなことを感じて、しんみりしながら帰り際、海などながめる梅雨ひとときの夕暮れでした。