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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

映画の感想 - 「LISTEN」音楽のはじまる場所

真っ暗な映画館のスクリーンに映像が映しだされて、2分間の静寂に思わず見入ってしまう。予告時点で気になって、上映前から見に行こうと決めていた作品でした。

聴覚障害者たちの間にある「音楽のようなもの」を浮かび上がらせるアート・ドキュメンタリーです。58分間の音のない世界。

絵を見るとき、たまに音楽を感じることがあります。

音や数字に色を見る人がいて、共感覚と呼ぶらしいですが、そこまで大げさなことではなくても、色や造形を音としてイメージすることもできるんじゃないか、と思うのです。そういう思いがあって、この映画に興味をもったこともあります。でも思っていたよりもっと深かった。

というのも、リズムに音楽を視ることとは別に、手話という方法の中に、"音楽のようなもの"があることを指摘しているから。それは根源的な音楽なだけでなく、手話の中に育っている文化的な音楽性へも視線を注いでいるのだろうと思います。

手話の分からない私には、なかなかピンときづらいものがありましたが、どのダンスも手の動きが印象的だったこと、それは歌なのだと気がついたときは、ぞくぞくするものがありました。

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パンフレット。関係者へのインタビュー、対談など。読み応えあった。

英語圏の手話はラップっぽくてテンポも良い、日本の場合はゆっくりこぶしをきかせる感じ、と言語圏によって手話の中の音楽に違いがあるという牧原監督のインタビューは面白かった。舞踏家の雫境さんは、手話の動作を途中でとめて別の動作に切り替えるなど、手話の中に”遊び”を取り入れるところに、音楽性を見ているようです。

それは言語を抽象的にとらえることでもあり、そうすることで言語を音楽の要素に組み込んでいる。言葉の意味はやや崩れながら、けれどもイメージは依然のこして、別の言葉につながってゆく。歌をうたうとき抑揚をつけたり、音節を短く区切ったりするように。

私が雫境さんの言葉に惹かれたのは、江戸時代初期の美術家、本阿弥光悦の書跡に、近いことを感じていたからです。字を崩しながら、次の語句に流れるようにつなげる。あるいは強い筆で独立させて書いたり。それは言語が音楽性をもつ瞬間に立ち会うような驚きがあるのです。

手話の音楽性も惹かれるテーマでしたが、音楽の根源性も考えずにいられないところ。聴者は日常的に音楽があって、既成の楽曲から音楽の感覚を取り込んでいきます。しかし文化的な継承が明確にはない中で、聾者が自身の中に音楽を見出すとき、いったいそれはどういうものなのか。

それは感情の叫びであるかもしれないし、あるいは周囲の環境、流れる雲や揺れる木々、明るい日差し、色をおとしてゆく夕暮れ…との共振であるかもしれない。とくに作中、複数人でダンスを踊るシーンには、他者とのコミュニケーションの延長で音楽に変化してゆくのが見てとれて、自己と(環境を含む)他者の間の共鳴に音楽が生まれるのだと気づかされます。

音楽の授業が好きではなかったという聾者の方のエピソードが印象に残りました。彼らには彼らの音楽がある。けれど、それはまだ各々が曖昧に感じている音楽でしかなく、牧原監督は、それを形にしたかったのだそう。予告で女性が「音のない音楽? …あると思う」と答えますが、はっきり「ある」という聾者が少なかったという話に、あの場面がとても大切なワンシーンだったことに気づかされるのでした。

音楽の始原を探るような、それでいて、今までぼんやりとしか認知されていなかった感性の、新しい可能性を拓くようなドキュメンタリー。クラウドファンディングで支援を集めての上映と知ったのは鑑賞後でしたが、見てよかったと思うのと同時に、一人でも多くの人に見られるといいなとも思いました。


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書道家紫舟さんも日曜美術館で、本阿弥光悦の筆に動きを感じるとおっしゃっておられたのでした。