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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

共にいることの可能性、その試み @ 水戸芸術館

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5月の連休は水戸芸術館へ足をのばしてきました。
ちょっと前まで「現代アートわからない」と言っていたのに、ここのところ同時代を生きる人たちのアートが楽しくなってきた。

新作映像は全編みると230分かかるということで、後から知ったところでは、一枚のチケットで三回入れるらしく、水戸市近辺のひとは三回に分けてちょこちょこ見るスタイルもありのよう。

開館ちょっと過ぎに入るとほとんど一番乗りみたいな感じでしたが、午後にかけて来館者が増えてきて、順路もとくにないので、みんな思い思いに映像作品を見ている様子でした。

田中功起さんの国内初の個展である今回の企画。第55回ヴェネツィアビエンナーレでの映像作品2点と、新作作品を展示しています。

ひとつの作業を複数人で成し遂げる、その難しさと、それゆえの可能性を描きだすいくつかの作品です。新作では、一般参加者とともに日常を離れた土地で6日間を過ごし、朗読や陶芸、夜の探検、料理、ディスカッションなどの共同体験をする。

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すぐには見えずらい全体像ですが、6日間の記録を断片的に見ていく中で、監督もとい田中功起さんが何をとらえようとしたのかが、少しずつ浮かび上がってきます。

食べ物の思い出など話しているときのぎこちない空気が、料理が始まると自然に緩んだりして、コミュニケーションって言葉以外の部分が大きいのかもしれないと思ったりした。朗読の練習に体を動かしたりすることも。言葉以外のもので、それぞれが有機的につながっていく。

新作とは別に展示されていたのが、5人のピアニストで一台のピアノを弾く、というコンセプトの映像作品。これがね、すごい面白かった。

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ポップス、クラシック、ジャズ…専攻もバラバラの音楽学校の学生5人が、ひとつのピアノの前に座って、即興で音楽を奏でる。もう絶対無茶振りでしょ。それぞれ好みも違うし、方法論も違う。弾きたいように弾けない。だいたいにしてピアノの鍵盤が足りない。

そして弾き進んでいくうちに…ってあまり書かないほうがいいのかな。思ったことをぶつけ合いながらも、解決のための具体的な方法をそれぞれに持ち寄って、困難な課題に挑む。

話し合うこと、それぞれの意見を尊重すること。ディスカッションすることの困難さと、希望を教えてくれるような作品なのです。

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もうひとつの映像作品では、5人の陶芸家がひとつの作品をつくる。5人の陶芸家には、伝統的な作風の人もいれば、前衛作家みたいな人もいて、なかなか簡単に妥協点を見つけあえない。

ひょっとすると協働をテーマにした映像作品のうち、成功例と残念な例のふたつを展示作品に選んだのかな。つくり進めるうちに、彼らを支配していく独特の諦念感に、思わず笑ってしまう。当人たちは、ちっとも笑えないって顔をしているけど。

ピアノと陶芸のケースを楽しく見て、さて新作本編はというと、同じ共同作業をテーマに私たちの身近な社会へと目が向けられます。

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今回のワークショップに参加したのは、住んでいた場所など移動の経験のある人たち。プログラムは始終なごやかに過ぎていきますが、それでも日々の端々に小さな違和感が見え隠れする。

ささいな不協和音は、ラストの破綻への伏線となっている。
異なる背景、異なる考え方のそれぞれが、ともに生きる可能性を見つめようとしながら、それは私たちが望むほど簡単ではないのかもしれない、という現実を浮かび上がらせてしまう。

自由意思の証明をしようとして、自由意思なんか本当は存在しないかもしれないという仮説を導きだしてしまった神経生理学者*1みたいに。

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メンバーおのおのへのインタビューは、ひとつずつ見ていくと時間かかるけれど、がっつり見てしまった。個を見ていくことで、大きな塊をほぐしていく。

ある参加者男性は、奥さんがフランスの方で、結婚後それぞれの文化の違いを感じたといいます。たとえば日本では、みんなで食事に行くとき、何が食べたいか自分の好みなんて言わない。このメンバーでこのタイミングならここでしょ、という暗黙の了解がある。

でも彼の奥さんは自分が何が食べたいかを言う。それはわがままではなく、自分の意見をきちんと主張する環境で育ってきた違いがあるのだと。

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また、在日韓国人の参加者の言葉は、インタビューのなかでもっとも印象に残りました。

多様性という言葉に不信感があるという彼女は、このワークショップのインタビューに頻繁にでてきた「多様性」という言葉のその向こうを、ゆいいつ見ているように思いました。みんな違っててそれぞれでいい、という言葉が見えなくさせているもの。

たとえば物事には責任を負う人がいて、その人がある種の権力を委ねられることもある。権力も社会には必要なもの。社会に序列や不平等が残り続けるものならば、そこから目をそらさずに、なるべく不平等を小さくしていく努力のほうが、大切なのかもしれない。

「みんな違ってていい、迷惑さえかけなければ」と、寛容と排除の心理がせめぎ合うのが、私たちの現実かもしれません。異質なもののリスクも、ともに生きる社会の一員として引き受けることが、本来の「多様性を受け入れる」ことであり、その難しさだろうと思うのですが。

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5人のピアニストと5人の陶芸家では、陶芸家の人たちの困惑のほうに既視感がありました。
たくさんの人が議論に絡むと不毛な会議になることが多々あります。そういったときに強く感じるのは、参加する人が多いほど、その課題から責任者が不在になっていくことです。

課題が決断の岐路に立たされるたびに、なかば投げやりに「(俺以外の)みんなに聞いて」と言っていた作陶家が、同時に、決定権をもつリーダーがいないことへのはがゆさを隠せなかったところなど、象徴的に思えました。

一方、ワークショップのほうでは「公共の利益のために個人が我慢することもある」という言葉が出たのが印象的でした。先の「みんなで食事にいく場合でも、自分の食べたいものをちゃんと言う」ようなことを、意見の主張ではなく、我慢すべき「わがまま」ととらえてしまう文化も、私たちの中にはあるのかもしれません。

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しばしばでてきた「共同体」という言葉は、昔ながらよく見知った人々の集まりというより、生まれや育ち、価値観のちがう人々が集まる空間を想定しているのだろうと思います。これからの私たちが迎える、あるいはもうすでに迎え始めている、多様な人々とともに暮らす社会。

そうした「主観」が乱立する世界で、私たちは他者をどう受け入れ、どうふるまっていけばいいのだろう。大勢の意見に自分を合わせていくことだろうか。それとも強いリーダーの存在だろうか。本当は、互いに主張をもちながら、議論していくことが大切だったんじゃないだろうか。

議論のもつ可能性は、少数派の意見にも眼差しを向け、ひとしく扱うことでもあるように思います。私たちの社会が「なぜマイノリティーばかり変わらなければならないのか*2」という言葉を言わせてしまうのは、議論する力のとぼしさに起因するのかもしれません。

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では、どうすれば議論する力をもつことができるのだろう。それには一人一人が、自分の言葉に責任をもちながら提案していくことが大切なんだろうと思います。そうすることで、本音の言葉で議論ができる。

けれどもそれが簡単ではないことは、会議のひとつにでも出れば分かりますね。積極的なひとりがいると、たとえ権限ある立場でなくても、あらゆることを任せられてしまうことが往々にしてあります。失敗した時は彼に、成功した時は彼の上役に"責任"が渡ってしまったりもする。

そうして誰もが責任を放棄すると、不思議なことに責任というもの、場に発生して、場が消えれば責任も消えてしまうということも起こります。

一台のピアノを弾く5人のピアニストの議論する力は理想的でありましたが、そこまでの道のりは遠く、多くの根深い問題さえはらんでいるように思えるのでした。

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新作全編230分と聞いてたので、プラス1時間ほどみて、15時頃には美術館を出れるかな? と思っていたら、ピアノと陶芸の作品は別で、それぞれ57分と75分あるんですね。結局いくつかは簡単に見流して、サザコーヒーで小休憩とって、駅に着く頃にはすっかり夕方。

初夏の水戸市内は、家々の庭から顔を出す花々も多くて、やっぱり旅行にいい季節だなあとしみじみしました。

*1:ベンジャミン・リベット:『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』(池上 高志 著)にあるこの言い回しが好きで、もう何回も引用している。

*2:ワークショップ内ででてきた言葉。