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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

村上隆のスーパーフラット・コレクション @ 横浜美術館

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二月の中頃だったか、見たい展示もちょこちょこあって、横浜へと行ってきました。写真だけとりこんで、しばらく寝かせてしまったので、すこしうろ覚えのスーパーフラット・コレクション展です。

yokohama.art.museum

森美術館の「五百羅漢図」展を見に行ったあとで、もうすこし気楽な気持ちで見に行きたいなと思っていたところでしたが、行ってみれば、古美術から現代アートまでのごた混ぜの展示で、たしかに気楽に眺めてもそれだけで満足できそうだけど、真剣に見ようとするとなかなかのボリューム。

横浜美術館コレクション展も見て、そごう美術館にも行きたいし、と、時間がまったく足りなかった。

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アンゼルム・キーファーメルカバ》《(エルサレムの)神殿破壊》《セフィロト》

エントランスにはアンゼルム・キーファーメルカバ」をはじめとした三つのオブジェ作品がお出迎え。ガラスケースの中の飛行機の残骸や、フィルムたち。歴史の波に洗われながらも、たしかにそこにある記憶。その意識の果てにある風景に向かい合うようです。

李禹煥さんのインスタレーションも、エントランスの大空間に設置されてました。説明がまったくないので、自分の感性で見るしかありません。暖色と寒色のあいだにうかぶ、墨でふちどった矩形。何もないところに何かを見る。禅宗の円相図みたい。つい長々すごしてしまう。

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李禹煥《Relatum-Excavation》2014年

ようやくチケットを切って中にはいると、まずは曾我蕭白白隠慧鶴の水墨画をはじめとして、なんと縄文、弥生時代の土器から、桃山の鼠志野茶碗、ヨーロッパのスリップウェアまでずらりと。古えをたどることで、美のめざめをさぐるような品々です。

とくにスリップウェアが気に入って、蜜色と茶色の暖かい組み合わせに見入ってしまった。

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左)曾我蕭白白隠慧鶴の水墨画 / 右)スリップウェア

それから魯山人の所有していた品々も、床の間を飾るように陳列してあって、見せ方たのしい。織部四方鉢、仁清の透かし鉢の写しなどなど。そして、このあたりから用の美たる、使い古された雑巾などの展示が出てきます。人の気配をそいでいくような高尚な美ではなく、人の気配そのものに宿るもの。

この中では、朝鮮の日用品と思わしき扇子などが良かったです。焼き物などで高麗の茶碗は重宝されたのですが、見知った知識をつなぐと、どうやら用の美をそこに見ていたように思われるのです。当時の日本にとって朝鮮は、いちばん近い「異国」だったのでした。

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左)奥より:川喜田半泥子《志野茶碗》 、 荒川豊蔵《志野茶碗》/ 右)李朝団扇

見知らぬ土地に生きる人々の生活とその情緒に、思いはせる感性。とくに井戸茶碗に美を見出したむかしの人たちが感じていたものは、そういった、遠き異国の郷愁だったのではないか、などと思って、その華やかな色の団扇を眺めいったのでした。

古美術の展示を抜けると、デイヴィッド・シュリグリー『ヌードモデル』をイーゼルが囲んで、じっさいにデッサンができたり、村上さんの頭の中をのぞくような古今東西の品々が雑多とならぶエリアをへて、戦後の美術へとうつっていきます。

遠目に見て、三島由紀夫っぽいと思ったら三島由紀夫だった篠山紀信さんの写真や、教会と病院にいく以外はひきこもって絵を描いたという、ヘンリー・ダーガーの、淡い色彩に子どもたちの遊ぶ世界。

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左)左より:ヘンリー・ダーガー荒木経惟篠山紀信/右)右より:李禹煥川俣正 ほか

川俣正さんの、作品というより思考の跡なのかな、デッサンらしきもの。李禹煥さんの、これもアイデアの痕跡みたいなシンプルな一枚。

李禹煥さんの青い線をたてにしゅっと引いただけの、この作品は、離れて見てると、けっこうカメラを向けているひとが多かった。線いっぽんの作品だけど、見る人によって色んな景色になるんだろうな。「線より」という作品。ここから無限に、それぞれの色んなことにつながってゆく。

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ホルストヤンセン、ダグ&マイク・スターン

ふと足がとまってしまうのは、ホルストヤンセンの作品群と、ダグ&マイク・スターンの作品の並ぶひとところ。村上隆さんの作品は戦略的に作られているように感じていたのですが、コレクションを見ていくと、内面深くに目を向けずにいられない衝動も、大切にしているのかもと改めて思ったり。

どの作品で立ち止まるかは、人それぞれかもしれない。私はシビアな雰囲気のある絵や写真に、つい惹かれてしまったのでした。

ジョアン・ネルソンは空のグラデーションを背景に木のシルエットが印象的な絵画作品。写真かと思って近づくと、質感を感じるほど厚塗りの油彩画で、どことなくノスタルジックな風景です。

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左)ジョアン・ネルソン、ヴォルフガング・ディルマンス、ジャン・ビゴッツィ ほか / 右)ロイヤルアートロッジ、李尤松

戦争記録画かなと思った作品は、中国の李尤松という画家のもの。この画家の他の作品も少し調べてみましたが、大地を拓いてゆくジープやバス、機械やシステマチックなものに憧れを見る感じとか、どことなく未来派の作品を思わせたり、その反面、作品の空気感は素朴であったり。

労働者を多く描いていて、共産圏の価値観を反映していると見ていいものでしょうか。検索では中国語のサイトしかでてこなくて、作風以外は謎に包まれたままですが、関心の惹かれたパステル画でした。

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ガブリエル・オロスコ、ファハム・ペク

ファハム・ペクの写実性あるポスターイラストのような作品の隣には、ガブリエル・オロスコの幾何学的な絵画。異なる作風ながら並列に展示される感じが、なんだかすごいと思ってレンズを向けました。しかしこの二人の作品、思えば思うほど正反対なのです。

ファハム・ペクに関してはあまり情報が出てこないのですが、ヒップホップ・カルチャーや大衆文化を意識して作品をつくっているようで、その活動はアイデンティティーの模索と表明に、遠からず結びついているように思われます。

一方、メキシコ生まれのガブリエル・オロスコは、エスニシティから距離をおいて作品を作り上げています。たまたまの隣り合わせだったのでしょうか。文化のカミングアウトとパッシングという温度差をさらりと感じさせるワンシーンでした。

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奈良美智《California Orange Covered Wagon》、セラミックワークス シリーズ

戦友たる奈良美智さんの作品は、とりわけ数が多い。その奈良美智さんに並んで、ダミアン・ハーストの、銀色に反射する面に蝶やら何やら飛び交う一枚。いっけん幻想的に見えるけれど、その作風から考えるに、銀色に埋め込まれてるのは本物の蝶なんだろうな。

生命の尊厳が歴史の資産とされてゆく中で、そのことさえ打ち破るタブーのひとつとなるのだろうか。あるいは、そのタブーのラインはどこで引かれるものなのか。生きるため、娯楽のため、では食は娯楽ではないのか、とか、辛辣な問いかけがファッション性を持つこととか。

ごたごた考えてしまう。けれど、こうした良識的な人々の葛藤というところを見定めて、作家はボールを投げ込んでいるような気もして、こういった凡庸な思いも、正しい態度ではあるのかな。

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村上福寿郎、奈良美智ダミアン・ハースト ほか

そんな銀色の蝶から少し離れて、壁の隅にそっと留められた蝶のオブジェは、村上さんのお父さんの作品らしい。さらにその隣の大きな黒い円にも、控えめに横切らんとする黒い蝶の姿が見えます。ここはそれとなく蝶つながりのエリアのようです。

作家名は控えそびれてしまいましたが、この黒い円の作品は、エニグマと名づけられただけあって、見るものに圧迫感を与えます。その圧力の中に舞う蝶たちは、いったい何を示唆するのでしょう。

と、こんな感じで、年代ごとに並べられているとはいえ、場所も思想も、おそらく購入動機もバラバラの作品です。しかし、その無数の点はゆるやかにつながり、見る人によって浮かび上がる線もきっとさまざま。同じ人でも、日が違えば見えてくるものも違うかも。

角度が違えば景色も変わる、万華鏡のようなコレクション展です。

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フランク・ベンソン《ジュリアナ》2015年

1950年代以降のアートが並ぶ展示の後半は、足早になってしまった。

とくに目を引くヌード像「ジュリアナ」は、人種も性別も定まりのない、超越的な存在感をただよわせています。実在のトランスジェンダー作家をモデルに3Dプリントしたものだそう。制作過程がデジタル化により簡略化する一方、作品に反映されるイメージは、より迅速に社会を写すようでもあります。

[村上隆のスーパ―フラット・コレクション展]美術史家の山下裕二先生も「応援している」という吉村大星さん。写真と見まごう、精密に描かれた猫の絵は、色鉛筆で描かれたもの。猫の質感を作品で表現するために、毎日猫に触っているそう。ぜひ本物を展示室で!

横浜美術館  Yokohama Museum of Artさんの投稿 2016年3月1日

その一方で、色鉛筆でじっくり仕上げる猫の絵も。少しばかり人だかりがあってゆっくりみれなかったので、もうすっかり写真だと思ってた。もっとよく見ればよかった。

このあたりから、大衆文化よりの作品へとうつっていくのですが、ファインアートからの流れで、コミックカルチャーや、萌え文化などが現れて、その隔てのなさに新鮮なものを感じました。

光のにじむような色あいが綺麗なウルトラマンの作品は、サブカルチャーの文脈でとらえていたのですが、実は日本画だとのこと。アオリの角度や低く並ぶ家並みに、ミニチュアの街や着ぐるみの生っぽさ独特の魅力が再現されているようで、目に止まった作品でした。

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村上祐二 《ウルトラマンがやってきた》《エメリウム光線》/寺田克也《BLACK MARKET 04》《BLACK MARKET 04》

ラストを飾るのは、韓国のイラストレーター、キム・ジョンギ、それから寺田克也さんの細密なペン画です。こういう作品は純粋に見る喜びがあるなあ。キム・ジョンギは下書きせずサラサラ描いていく人で、その空間把握の感覚もさることながら、筆一本でかき分ける陰影の質感など、見惚れる。

日本や韓国、同じ時代を生きるアーティストの作品で締めるコレクション展でした。

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キム・ジョンギ 《寿司屋での昼食》《宴会》2015年

アートとポップカルチャーと同じ空間にある流れにいると、大衆文化にアートたりうる要素を見ようとしているのかも、と思わされます。西欧文化に従属しない内発的な文化として、オタクカルチャーを見ていると述べていた村上さんでしたが、その言葉が理解できるような気持ちになったのでした。

とはいえ、オタクカルチャーが性表現を少なからず含むという点で、難しさがつきまとうようにも思います。浮世絵や春画を見てると、もともと性表現を禁忌ととらえる意識がそれほどないのではと思うことがありますが、性表現に罪深さがともなうのは近代以降で、無頓着さと潔癖さが混ぜこぜになってる今日この頃ではないでしょうか。

オタクカルチャーがアートとなって海外に輸出されるとき、アートの主軸が欧米の歴史や価値観の変遷をベースにしている以上、国内の微妙な状況が深く理解されるのは難しいし、そもそも私たち自身、この混ぜこぜの状況をよく自覚してないのかもしれない、というようなことを考えたりしました。

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清野賀子、米田知子

横浜美術館のコレクション展に足を向ける余裕もなく、あとから他の人のレビューを読んでると、見落としてる展示もあるような気もする。ただ、写真の展示だけは時間をさいていきました。たしか中平卓馬さんの展示があったはず…と、記憶半分で行ったら、よかった、ちゃんとあった。

「匿名の風景」を題材に、どこにでもあるような、しかしどこでもないような風景を展示する写真展。首都圏郊外や地方都市の、どこか合理的な風景を撮りおさめる清野賀子さんの作品、阪神大震災のち、復興していく街を静謐にきりとる米田知子さんの作品など。

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中平卓馬さんの東京を撮った数枚は、60年代の終わりから70年代初めのもの、アレ・ブレ・ボケの時代の作品です。これがめちゃくちゃかっこよくて。雨の日傘をさす後ろ姿を斜めに荒く切り取る構図。走り出した車のライトの雨に滲む感じとか。

思えば、中平さんの写真を初めて見たのも横浜美術館でしたが、この頃の写真には、それ以来出会ってないのでした。植物図鑑以降のしんとした写真も、風景を映す自我の透明な感じがして好きですが、このころの都会を切り取った写真もすごく好きだと、改めて気づきました。

雑然とした都会に生きる人々の、誰も目を向けないような一瞬を乱暴に切るとる手法は、のちに中平さん自身によって否定されるのですが、だからこそか、この時代を刹那的に切り取った写真たちに、あまり出会う機会がなかったので、ちょっと嬉しい気持ちになりました。

関連URL

五百羅漢展を辛辣に批判して話題を呼んだ浅田彰さんの記事。スーパーフラット・コレクション展のほうは褒めていましたけど。この記事のおかげで両方とも早く見に行かなきゃと思ったのでした。批判されているのに、むしろ見たくなるって不思議だ。
「現代美術史を生きる過程で偶然アンテナに引っかかったものの集積」「ある意味それは『野蛮人』のコレクションあり[…]ぶらっと骨董屋に入るように美術館を訪れた観客は、膨大なガラクタの中から自分だけの掘り出し物を見つけることができるかもしれないのだ」という言葉に、展示を体験してみて深く頷くのでした。

ROCKHURRAH RECORDS » 村上隆のスーパーフラット・コレクション鑑賞ROCKHURRAH WEBLOG

ちょろちょろ読んだ感想の中で面白かった記事。レコード店のブログとのことで、音楽をやってる人からみたスーパーフラット・コレクション展。それぞれの関心の切り口で見える物も違う面白さのある展覧会だなあとしみじみ思いました。

www.pen-online.jp

www.bs4.jp

www.blouinartinfo.com

アンゼルム・キーファー_Anselm Kiefer Interview_世界文化賞

人生は列車のようなもの。時間のいやおうなく進むさまを列車に重ねるのは、去年見た「あの日のように抱きしめて」(ドイツ映画・原題「フェニックス」)の印象的なシーン、漆黒の闇を通り過ぎていく列車を見送る主人公の心境を思い出したりしました。

www.artnet.com

www.fahamupecouart.com

synodos.jp

私は世界の事象に対する民族誌学的アプローチが好きではありません。撮影者としての私自身という個人的参照も、地理的もしくは民族誌学的参照も避けようと努めてきました。なぜなら、作品が文脈とは無関係に時間や空間を移動しはじめて、それを見る人のものになりうるのですから。[…]
もし、写真の主題が撮影された時間や場所、その逸話から離れられたら、哲学的な概念として頭の中を移動しはじめられるだろうし、誰もが親近感を持てるのではないでしょうか。例えば、あらゆる1枚1枚の写真が、日本にいる人にとって日本で撮影された写真になりうるかもしれない、というような感じです。
ガブリエル・オロスコ インタビュー - ART iT アートイット

enson’s piece, titled “Juliana” (2015), is a hyper-realistic, life-size 3D print of the transgender beauty, the third in a series of figurative sculptures whose previous subjects were a nude man and clothed woman
At the 2015 New Museum Triennial, A High-Tech Take on Nude Sculpture

中平卓馬の芸術は、彼の詩情とことばとの、危うく力強い共存の上に成り立っていた。そして彼の詩人としての感情が、写真のなかに他者を含む大きなものとの交流の契機を、絶えず予感として封じ込めてきたのだ。中平は理論に純粋であろうとし、そのことがかえって彼の矛盾を支え続けることを困難にした。彼が「写真家」であるためには、ことばと映像、詩人と写真家という、決して合い交わることのない矛盾を生きることが不可欠であったのだ。彼がその<運動>の渦中に踏みとどまることに疲れ果て、自己の内なる詩人を扼殺した時に、彼は時代とのつながりと実践上の契機をふたつとも喪失してしまう。

彼はある夜、海辺の砂浜で、自らの写真とネガのすべてを焼き払う。
何を燃やしているのかとひとに聞かれ、
「写真家だから写真を燃やすのだ。」と答える中平。

なぜ、中平卓馬か?〜写真界のカリスマと出会って〜