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日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

村上隆の五百羅漢図展 @ 森美術館

art

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金曜の夜22:00まで開館していることもあって、森美術館にいくのは金曜の夜になっているこの頃ですが、「村上隆五百羅漢図」展はさていつにしようかな。年明け、増上寺の五百羅漢図展にも行ったところで、横浜美術館では村上隆コレクション展もはじまって。これはもうここらで行っておかないと。

過去にもちょこっと書いてるのですが、どちらかというと現代アートは得意ではなく、感覚に響く作品は難しく考えなくても楽しめますが、露悪的な表現、とくに意味のないものに、意味があるように振る舞わざるをえない鑑賞者を、可笑しさに位置づけてしまう表現は苦手なのです。

けれど、展示を一つ一つ丁寧に見ていくと、無意味をうたっていても、それぞれに向かう先が異なる。そこに、その人の育ってきた背景や考え方、見ようとしているものがあって、最近はちょっとずつ面白いかも、と思ってきている分野でもあります。そんなわけで、いつにもまして挑む気持ちで行ってきたのでした。

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夜の美術館はぱらぱらとした人の入りで、ときおり波のようにまとまった来館者があって、しばらくするとまた静かになる。撮影可ということで、海外のお客さんや女の子たちが作品と記念撮影してたりして、それはそれで楽しそう。鑑賞者とつくる空間も作品のうちだなあと感じさせます。

ちょうど年末いってきた京都の、禅寺のいたるところで出会った円相図や達磨さまに、ここでも再会。キャラクター化した村上さんが、消えゆく代わりに円があらわれる「円相」シリーズ。永続的な発展という宿命に、自らの重みでつぶれていく達磨「宇宙の産声」など、禅宗にもとづく作品が多かった。

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今回の展示の中心となる「五百羅漢図」は、もともと雑誌の企画で、美術史家の辻惟雄さんがコラムを書き、それに対して村上さんが作品をつくるというコラボ連載の延長でできた作品なのだそうで、その発祥となったコラムも紹介。つい読み込んでしまう。

男女の性器がメタファーとなって信仰や春画のパロディーに取り入れられたり、藤子不二雄Aはじめ昭和の漫画家に前衛美術の精神を見たり、一千年前の中国の水墨画の手法が抽象画そのものであったり。そうした辻さんのペンに触発されないわけがなく、村上さんも作品を次々に仕上げていく。

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増上寺で展示中の狩野一信「五百羅漢図」も、うち二幅を展示。今回のインスピレーションのもととなった作品であり、入り口にも展示があった二枚の顔を持つ男も、五百羅漢図からのパロディー。本当は中から不動明王が出てくるけれど、何枚剥いでも出てくるのは村上さん、みたいな。

村上さんのキャラクターのコーナーもあって、とくにゲロタンは人気の様子で写真をたくさん撮られてた。ゲロタンやDOBくんは村上さん自身でもあるそう。可愛らしい中に毒があるのは、(芸術家は)自分自身の弱さや醜さを見なければ、という、ガイド機で紹介されてた言葉につながるよう。

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白い壁のエリアから黒壁の部屋に入ると、向かい合わせに奥まで続く壁画「五百羅漢図」のうち「青竜」「白虎」が。2012年にカタールの首都ドーハで展示されたときは、のべ100mの壁画が4作品ひとつの部屋に展示されたようですが、今回は向かい合わせでふた部屋に展示されています。

狩野永徳の唐獅子や、曾我蕭白の龍、伊藤若冲のクジラ、手塚治の火の鳥などなど、古典からのオマージュがたくさんあるのを探すのもたのしい。

釈迦の弟子であり、人々を救う聖人として信仰されてきた羅漢。幕末に描かれた五百羅漢図もまた、人々の救済を願ったものでした。村上さんの五百羅漢図も、311が大きく影響しているのだそう。

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着想のもととなった狩野一信「五百羅漢図」では、従来の東洋の自在な構図に、羅漢たちの顔や着衣は写実的に描かれています。狩野一信は、陰影法など西洋の技法を意欲的に取り入れながら、変わりゆく時代に、最新鋭の技術で「五百羅漢図」を更新しようとしたのだというふうに感じられました。

村上隆さんの「五百羅漢図」も同じではないかと思うのです。かつて幕末の絵師が描いた「五百羅漢図」の主題を、今の時代らしさを反映させながら、そして時代の最前線にたって、最新鋭の技術で更新する。それは紛れもなく、その幕末の絵師への挑みでもあったはずです。

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作品は制作チームによって作り上げられたそうで、その資料や制作風景の映像も展示。ここのコーナーが情報盛りだくさんですごかった。私たちはアーティストと作品がイコールで結びつくように考えがちですが、東西とわず、かつては著名な作家は、弟子や工房をもっていたのでした。

2015年、西洋美術館で開催されたグエルチーノ展では、このバロック美術の巨匠が経営していた工房にふれ、晩年の作品は弟子の手によるものが多かったこと、注文のサイズを間違ったため師匠自ら特急で仕上げた作品などあって、面白かった。

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陶芸家の野々村仁清尾形乾山なども、ひとりの仕事ではなく、弟子あってのもので、仁清焼き・乾山焼きというのは、ブランドのようなものであったんだそうです。作家ひとりが作品のそのものである、というのは歴史的には浅くて、作家がディレクターの立場にいるあり方もひとつの姿で。

そうそう、それでね、村上さんもディレクター型なんだろうと思うのですよ。後から対談を聞いたりすると、次の世代を育ててあげないといけないという気持ちが強かったようですが、それはつまり、チームで制作するということの意義を、おそらく強く意識していたのだろうなと。

作品をつくるにあたって、古典の絵画やら故事やら調べさせて、キャラクター案を練る。羅漢たちの神通力もきちんと設定する。そういう事前調査がみっちり行われて、進行表もきちんと作って。制作を進めながら学生たちは、日本の古典を学び、世界が相手のステージに立つことを意識する。

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対談で村上さんは、これまでフレームをもたずにやってきた国が、震災をへてフレームがないことに気がついた。ではこれからどうするのか、ということをおっしゃっていて、その延長で見ると、五百羅漢図の制作工程というのは、自分たちのフレームを作っていくことのひとつなんだろうと思うのです。

動くことが私たちを形づくる。体を動かしたり、誰かと衝突したり力を貸したり、外部のひとの向けた視線を感じることも。刺激のひとつひとつが自分の輪郭をつくっていく。手を動かすことも、ながめ見ることも行為のひとつで、制作者と鑑賞者、作品を通してそれぞれに作られてゆくもの。

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最後の部屋は、ドクロがいっぱいのスペース。「円相:アトランティス」と「円相:シャングリラ」、金と銀は伝統色としての引用かな。細かく敷き詰められたドクロの凹凸模様ははたして……ドクロ化してなお晴れない執着の憐れみを、円を重ねることで、浄化しているようでもあります。

ドクロが抱える執着、あるいは煩悩とは、村上さんに置き換えると、どういうものになるのでしょう。展示の説明では「上手く描くこと」かもしれないということでしたが、「見返り、来迎図」「馬鹿」の作品からもそう思わせるものがあり、それは意外な素朴さか、はたまた戦略的になるための自由さか。

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いろいろ考えたことは、まだ消化させずに、もう少し先までもっていこうかな。
見進めるうちに肩の力もぬけて、ポップなテイストとその芯にある古典の影の混ざり具合も楽しい五百羅漢図展でした。

増上寺 狩野一信「五百羅漢図」

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2016年の初展示会は増上寺だったのでした。お正月気分もまだ漂う一月初旬。狩野一信「五百羅漢図」(第41幅~第60幅)のほかに、「台徳院殿霊廟模型」を展示していました。

先にも書いたのですが、着物や羅漢の表情、顔の角度などが写実的で、この頃には西洋の絵画技法が入ってきたことをと感じさせます。その緻密な描写で羅漢たちを、真に迫るように描いたのでした。

そういう最先端の技術で羅漢たちを描こうという、何か挑むような意気込みもひしひしと感じられましたし、そうでなくても、そこに描かれている世界観のみっちり感がすごくて、点数自体は一部屋ぶんなのでそんなに多くはないですが、見応えはたっぷりありました。

後期展示は、衣食住に関する欲を取り除く修行の場面と、そして神通力の場面が描かれるパート。死者の衣をはぎとって、川で洗って再び着るなどの描写があって、ものの流転と考えれば驚くこともないのでしょうか。虫などの命を救う姿がある一方で、弱肉強食のルールも描いている。

グロテスクなものもそのままに描くのには、苦も罪も穢れも同じ地上に満ち、それらを我がものとして受け入れようとする眼差しを感じるのでした。と考えさせられたものの、絵の面白さでは51-60幅「神通」が勝るかな。羅漢たちの人智を超えた能力が、想像力ゆたかに描かれています。

印象に残ったのは、羅漢の顔の皮をはぐと、観音菩薩が出てくる場面。これは吹き出しつけてみたい。バリバリバリ「私だ」「お前だったのか」古いな。…何かとインパクトのある狩野一信「五百羅漢図」でした。

増上寺所蔵 狩野一信の五百羅漢図展
前期:2015年10月7日(水)~12月27日(日)| 第21幅~第40幅展示
後期:2016年1月1日(金)~3月13日(日)| 第41幅~第60幅展示
【開館時間】午前10時~午後4時
【休館日】火曜日 ※火曜日が祝日の場合は開館
【入館料】一般700円(税込)
徳川将軍家墓所拝観共通券1,000円

企画展情報 | 増上寺宝物展示室

関連URL

日本の現代美術界は僕が知り始めた頃の20年前からかわれなかった美術大学という産業の喰い者となった学生たちがその構造に気がつき絶望したり自らが先生の立場となって弱肉強食の食物連鎖の TOP に立とうとして来た、ただそれだけのための構造悪によって変化できなかったのです。僕はそういう日本美術大学+現代美術業界をケイハツして一人でも良質なアーチストを世界に出したいと思うのです。
コメント

村上隆facebookコメントより『馬鹿』の引用

東日本大震災に際し、日本国家の有事を前にしたわれわれ国民の無力感、そんな無力感の中でも人は生きていかなければならない……。絶望からの復活には、たとえ作り話でも、希望を唱えるお話が必要だ。それらは歴史の中で、宗教であったり伝説であったりしてきたのだろう。
「村上隆の五百羅漢図展」作品紹介#1~《五百羅漢図》——「青竜」「白虎」 - 森美術館公式ブログ

森美術館のブログ、作品の詳細な紹介もあって読み応えありました。

美術の「無意味の意味」とは、意味を付与する事によって、延命を図ってきたがゆえに行き止まり的な状況に陥っている美術を、意味から解放し、再びその危うさゆえのパワーをもたらすこと。
雑感と感想、村上隆の卒論から - それとあれ

村上さんの論文『美術における「意味の無意味の意味」をめぐって』は、ガイド機でも聞けるようでしたが、すっかり聞き忘れてしまった。
国立国会図書館で読めるのかな。要点まとめてた方がいて、感想も面白かった。

無意味を演じても、なぜそうするのかという背景を追った時に、物語(意味性)はまた浮き上がってきてしまう。そもそも、対象に意味はなくても、鑑賞者は意味を見出そうとする。作家から鑑賞者にうつる時に、意味のあるなしがひっくり返る。

カタールでの対談で、制作者に強さをもとめる村上さんに、東さんが「作る側はそれでいいけど、見る側は弱いままでいいし、作品に救われるもの」と話していて、村上さんがことばを失ってしまう瞬間があるのだけど、そういう作家と鑑賞者が反転するところがあって、ちょっと面白いなと思った。

無意味と意味の間を行ったり来たりする間に、ゲロタンと記念撮影しているひとを見ると、最強なのでは。と思ったりしたのでした。

近ごろ私がラジオをせっせと聞いている映画評論家の町山さんが、そのむかし村上さんへの批判のブログ記事を書いてたのを、たまたま検索で見つけてしまった。たまに個別認識してた人たちが急に喧嘩したりすることあるよね。

"村上が嫌だと言うと「えー、このコンセプトがわからないの?」とか「アートっていうのはね」とか言われてバカにされそうなのが、また嫌な感じだ。「お前はインチキだ」と本人に言っても、しれっと「そう。僕はインチキですよ」と笑って答えそう。"

中身のないものに「アート」とお飾りをつけて、中身があるようにふるまう人たちに、町山さんは腹を立てているのだと思うけれど、でも村上さんも同じものに対して批判的だったんじゃないかな。その上で、無意味さに振り切ることで対抗しようとしてて、だからこそ「インチキだ」と言われれば「その通り」と答えるだろうことも。

でも「意味がある・あらねばならぬ」ことの解体としての無意味には、そこに到達するまでのプロセスがあるよってことも思うし、それでもアートはアートの文脈に立たざるを得ない(アートの文脈に沿っておこったプロセス自体が意味・物語を生んでいる)という自己矛盾もあったりして、難しいものですね。