日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

映画の感想 - 禁じられた歌声/消えた声が、その名を呼ぶ/バーバリアンズ

ちょろちょろ見に行った映画を、ざっくりメモ…と思ったらすごく長くなった!
せっかく見たからストーリーの背景をちゃんと書いておこうと思ったら、こんなことに。
後から思い出すのには、便利かな…?

禁じられた歌声

マリ共和国の古都ティンブクトゥ。イスラム過激派グループの占拠をきっかけに、人々の生活とともにあった音楽や、煙草、サッカーなどの娯楽が禁じられてしまう。そんな中、街のはずれに妻と娘とつつましく暮らしていたキダーンは、漁師のアマドゥとのトラブルから、運命を大きく変えられてゆく。

2012年のマリ北部紛争をもとに描く物語。ある日突然やってきた過激派グループの圧政に、日々変わらない生活を送ることで抵抗する人々。構図はシンプルなようで、いくつかの現実を重ねあわせている。

2011年、リビア独裁制NATOによる軍事介入で崩壊した。内戦に戦闘員として参加したトゥアレグ族は、武器を携えて帰還し、アザワド解放民族運動(MNLA)を組織すると、独立を求めて蜂起。イスラームマグリブ諸国のアル=カーイダ機構(AQIM)と共闘関係を結んで、マリ北部三都を占領する。

独立宣言を行うも、イスラム国家の創立を主張する派閥と対立し、イスラム原理主義派はトゥアレグ独立派を排除、イスラム過激派による占領区の統治が始まった——そんな社会背景をふまえて監督は、不条理に対する住民の静かな抵抗を描きました。

自身もイスラム教徒である監督は、過激派グループと同じ宗教を信じながら、信仰の中に、武器を持たない抵抗と赦しという、彼らと正反対の性質を見ています。またそれは、武力ではない方法での解決を、西欧諸国や私たちにうったえているのかもしれません。

嵐は過ぎると考えて従順なふりをすればいいのに、と思ってしまったけれど、かつては黄金郷と呼ばれた歴史ある街だそうで。文化が奪われることは、自分を奪われることに等しいのかも。自分に置き換えてみれば分かることだけど、思いをいたらせないと、気づけないのだなあと思った。

https://itunes.apple.com/jp/album/timbuktu-fasso-feat.-fatoumata/id947610272?i=947610280&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

音楽がとても良かったので、帰ってからサントラをぽちっとしました。

禁じられた歌声
kinjirareta-utagoe.com
原題:TIMBUKTU
監督:アブデラマン・シサコ
脚本:アブデラマン・シサコ、ケッセン・タール
2014年/フランス・モーリタニア映画/97分

映画の中の女たちのように勇気を持って歌い、映画を作り、文化を創作することで闘い続けたい。闘いは日々の活動です。もし人々が恐怖によって沈黙し、現状を放っておくなら、恐怖を強いている側が勝つだけです。
『禁じられた歌声』のシサコ監督インタビュー... - 骰子の眼 - webDICE

 

消えた声が、その名を呼ぶ

オスマン帝国マルディンに一家で暮らすアルメニア人の鍛冶職人ナザレット。第一次大戦の戦況が聞こえ届く中、ある晩、憲兵たちが家にやってくる。突如、徴兵されたアルメニア人の若い男たちは、砂漠での強制労働を課されたうえ、一同処刑にかけられしまうのだった。

処刑人が殺しきれずに生き残ったナザレットは、彼の手引きで荒野へ逃げのびるが、再会した知人により、家族が生きていることを知る。声を失い、持つものも何一つないナザレットは、生き別れた妻と娘にふたたび会うため、荒野へと歩き出す。家族を求めてはるか長い旅をする、離散の民の物語。

オスマン帝国第一次大戦に引き込まれていく1915年。「アラビアのロレンス」は、オスマン帝国に抵抗するアラブ諸国の物語でしたが、時を同じくして、こちらはオスマン帝国下のアルメニア人の物語。

キリスト教を国教と定めた最初の民族でもあるアルメニア人。オスマン帝国ではイスラム政権下の庇護民として一定の保護を与えられてきた彼らでしたが、露土戦争で領土をえたロシアは、イスラム教徒とアルメニア人を離間させようと彼らを優遇し、これがアルメニア民族主義の機運につながります。

このことは帝国の人々に、このキリスト教の民族がロシア側に通じているとの疑いを抱かせ、アルメニア人虐殺へと繋がっていくのです。オスマン帝国による迫害によって、多くのアルメニア人が故郷を離れ、中東や、さらにその遠くの地まで散っていくこととなります。

ジェノサイドを扱いながらも、被害者の物語として描いているのではないことは、ときにナザレット自身が加害者となることで示されます。神の心を疑い、ふたたび信仰に心を向けられなくても、娘たちとの再会だけは希望を捨てなかった。彼にとって家族とは、小さな故郷だったのでしょう。

辛い場面が多いですが、人々の善意を信じている作品でもあります。無一文のナザレットを救い出し、匿い、双子の娘の元まで手配してくれるのは、見ず知らずの人たち。同じアルメニア人であり、キリスト教徒、時にはイスラム教徒である。

アルメニア人の鍛冶職人の腕前を褒めるトルコ人の常連客、シリアのアレッポで石鹸工場の主人オマル氏は(たぶん彼はムスリムだと思うのだけど)、トルコ人に隠れてアルメニア人難民を匿う。キューバでのアルメニア人富豪の冷たい仕打ち、アメリカの白人労働者の強烈な人種差別——

異なる(または同じ)民族、宗教間の距離感は、時とところによって全然ちがうけれど、ナザレットの長い旅で、多様な距離感を追体験する。歴史や民族、宗教の複雑さに興味がある人には、おすすめ。
トルコの砂漠からノースダコタの灰色の大地と、映像にかかる場面設定もとてもよい作品です。

たまに田舎に帰ると、親戚や近所の人たちが過干渉だったりします。その昔、福祉なんて概念がなかった頃には、それぞれが助け合わないといけなくて、そういう社会的本能みたいなものなのかな。都会にいると一人で生きていけて気楽だけど、助け合いの本能みたいなのは薄れていく気がします。

消えた声が、その名を呼ぶ
映画『消えた声が、その名を呼ぶ』公式サイト
原題:THE CUT
監督・脚本:ファティ・アキン
共同脚本:マルディク・マーティン
撮影:ライナー・クラウスマン
美術:アラン・スタースキー
2014年/ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・カナダ・ポーランド・トルコ/138分

──この映画はトルコでどのように受け止められると思いますか?
トルコ人映画プロデューサーの友人二人が、この映画を観てくれました。一人は「石を投げられるぞ」と言い、もう一人は「いや、花を投げてくるよ」と言いました。究極には、どちらも少しずつあるのだと思います。銃とバラですね。
両親がトルコ人のファティ・アキン監督が語るトルコ最大のタブーを映画にした理由 - 骰子の眼 - webDICE

バーバリアンズ セルビアの若きまなざし

セルビア旧工業地帯に暮らす青年ルカ。コソボ紛争で父が行方不明となり、家族は政府の給付金で生活している。仮釈放中で仕事にも就けずにいるルカの娯楽は、地元のサッカーチームを応援すること。

友人の黒人選手に対する加害行為の罪をかぶって、選手の送迎の運転手を任されたり、元恋人への想いをうまく断ち切れなかったり…鬱屈した日々で、行方不明と聞かされていた父が、じつは愛人と暮らすために家族を捨てたのだと知らされる。

物語性は少なく、どちらかというとドキュメンタリーの気質をもった作品でした。見終わったあと考え込んでしまったけれど、物思いに沈んだあとに得たものも多かった気がする。

終盤に主人公ルカは、コソボ独立の抗議デモに参加するべく、友人たちと首都ベオグラードへ向かいます。ネットで知り合った女の子と出会うのが目的の友人や、通りを破壊して回る仲間たちと違って、真面目なルカは、自分の消化しきれない熱を政治主張の中に散らしたい。その空回りする思い。

コソボ紛争セルビアに対してとられた国際社会の制裁。世界から孤立したセルビアで多感な時期を過ごした監督は、その「忘れられた世代」の憤りを描きたかったのだそう。

作品を通して思ったのは、このセルビアの青年に限らず、私たちは自分が何者であるのかを、求めずにいられないということです。仕事で社会に関わるでもなく、家庭環境も不安定な中、どうやって存在承認を得ればいいのか。サッカーチームの応援や、抗議デモで得られる連帯感か。

それとは別に、行動することが自分の輪郭を作っていくんじゃないかなと思いました。ルカがただひたすらにチームを応援することを求めたように。暴力的な行動か、建設的な行動かは、方向軸がちがうだけで、根元は同じなのだと思うのです。

バーバリアンズ セルビアの若きまなざし
映画「バーバリアンズ セルビアの若きまなざし」公式サイト
原題:VARVARI
監督/脚本:イヴァン・イキッチ
2014年/セルビア モンテネグロ スロヴァニア

かつてセルビアが世界の孤児にされていたことをどれだけの人が知っているだろうか。欧米のリベラル派を中心とした文化人によるセルビア人に対するヘイトクライムが確かに存在した。そんな地域の切実さがひしと伝わってくる映画である。予備知識を無しでまず観賞。そして背景を知ってもう一度見て欲しい。(木村元彦 ジャーナリスト)
映画「バーバリアンズ セルビアの若きまなざし」公式サイト


コソボ紛争ざっくりメモ

古くはセルビア人が住んでいた土地であったコソボは、オスマン・トルコ帝国下でアルバニア人も多く移り住むようになって、構成比が変化します。しかしセルビアの中にあっては少数派のアルバニア人、政治・経済的不公平から独立を求め、1990年にコソボの独立を宣言しました。

セルビア政府はこれに異議をとなえ、コソボにおけるアルメニア人の自治権を剥奪、アルバニア語の新聞・放送の禁止、大学の粛清、治安部隊の駐留など締め付けを強化。こうした中でアルバニア人の抵抗も過激化し、コソボ解放軍が国外からの地下組織的な支援を受けて勢力を拡大します。

激化する対立に、繰り返し行われる和平交渉は前に進まず、セルビア側によるラチャク虐殺を契機にNATO軍は空爆を決行、1999年3月から同年6月まで続いた攻撃に、ミロシェヴィッチ大統領はようやく各国との合意案を受け入れることを認めたのでした。

この国際社会の内政干渉NATO軍による空爆は現在でも賛否が分かれるところで、セルビア人の残虐行為には強い非難が浴びせられたものの、コソボ解放軍の同様の行為は見逃されるなど、セルビア側からすると、不平等な仕打ちであったようです。

この映画はセルビアに生きる若者たちを描いているので、そういった微妙な感情を知らないと、見誤るかも。というのも、私自身が、見終えていろいろ読んで、知らないことがたくさんあったな…と思ったからです。

実はこの話、私自身がアルバニアの友人から言われたことなのです。彼はこう言いました。
「日本から援助といっても何ができるんだ?それよりも、私たちのことを忘れないでくれ。そしてまた私たちのところへ遊びにきておくれ」

コソボ問題 わかりやすく

まだ状況が進行中のときに書かれた記事らしく。
最後の「自分たちに何ができる」の章が、とても印象に残りました。

こちらは国際社会に優遇されたアルバニア人、冷遇されたセルビア人という構図も多少にじませつつ書かれてる。

いったん憎悪の火が燃え広がれば、それを消し止めるには膨大な犠牲と悲劇が必要になる。だがひとびとが熱狂のなかで正義の旗を振りかざすとき、その結末に気づく者はほとんどいないのだ。
イスラーム圏でもっとも親欧米の国・コソボの終わりなき憎悪[橘玲の世界投資見聞録] | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン

最後の一文に考え込む。これもうどちらが正しいってレベルの話じゃないなあ。

そういえば最近見たドキュメンタリーでミロシェヴィッチ大統領のものがあって、自分の権力維持のために民族感情を煽ったんだって筋書きだった。大統領ひとりに原因を求めるのは、問題を矮小化させてる気はするけれど、でももっとも私たち自身が関わる部分かもしれない。

権力者は自身の支持率のために、人々の憎悪を利用することがある。ユーゴのミロシェヴィッチのようにね。みたいな話。

その憎悪は権力者の支持率や連帯感のために不必要に煽られた憎悪ではないか?誰しも他人を憎む心を持つけれど、その感情をメタ認知できれば、世の中少しは変わるかもしれない、と思う。