日々帳

140字で足りないつぶやき忘備録。

『Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演』ほか - 東京国立近代美術館

『Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演』『てぶくろ|ろくぶて』

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1972年京都市美術館で開催された「映像表現 ’72」を再現する企画展。つまり43年前の映像アートを2015年に再現するというこころみです。1972年ともなると、さすがに生まれる前。ふらりと入って、おおっとなるにはちょっと時代の隔たりが。けれど、ひとつつづ丁寧に見ていくと、なんとなく表現したいものも伝わるような。

説明ではふうんと思ったのに、実際見て面白かったのは、一枚の板を表と裏から二台のカメラで写したもの。表は板しか写ってないのに、裏では男性がカメラと板の間を行き来している。見えないけど存在しているもの、見えるようにしか見てないということが、ユーモラスに表現されていました。

毎年開催される文化庁メディア芸術祭に行ったりすると、その時々の時代の流行を意識させられます。今だと、共感覚的な作品が多いような気がする。それに比べて1970年代は、映像というメディアが登場して、視覚による認知への問いかけがあるように思いました。

この認知への疑いは、今でも古い議題ではないと思うのです。認知学は、複雑系科学から、あるいは生物学、哲学からなど、さまざまな角度からアプローチが試みられる、興味のつきない分野です。

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この1972年の映像アートの再演は、小企画「てぶくろ、ろくぶて」にも、どこかしら繋がっていると思いました。実はちょうど最近、モーリス・メルロー=ポンティの本を読んでいまして、これがまた難解なのですが、てぶくろ展は彼の考察の一端を、やさしい解説でひもときながら、認知のふしぎを見ていく展示です。

メルロー=ポンティは彼のなづけた「可逆性(リヴァーシブル)」についてこういいます。「手袋の内側に手があり、手袋の外側にモノの世界がある。両者の接点である手袋の布地の部分で人と世界は出会う。布地はまた、手とモノが簡単に入れ替わる裏返し点なのだ」うむ。わからん。

私が世界にふれるとき、世界も私にふれている。その主体と客体が入れ替わる接点を、強く意識している、のかな。メルロー=ポンティの認知のとらえ方は、主観性に重きをおいているようです。彼が好んだセザンヌの絵画についても、その一点透視法の歪みを、画家の眼のゆがみではなく、主観でとらえた世界であったと説明します。

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

1972年のアートに認知学の流行があったことは、メルロー=ポンティの著書が広く読まれたことにも理由があるようです。当初は実験的な試みであっても、その問いをどう鋭く刺さる形にするか、アウトプットの技巧をこらしていくと、良質な作品になるのでしょう。混沌として荒い形のままにアイデアを見るのも面白いなと思いました。

MOMAT コレクション 藤田嗣治、全所蔵作品展示。

コレクション展は国立近代美術館所蔵の藤田嗣治の全作品を展示するもの。1920年代のパリに活躍した日本人画家として名前を聞いていながら、作品をほとんど知らなかったのでしたが、夏の展示でいくつか見て、エコール・ド・パリの香り漂う作品に、もう少し作品を見てみたいなと思っていたのでした。

※今回の展示は全フロア撮影禁止となっています。
掲載の写真は、東京国立近代美術館 「MOMAT コレクション 特集: 誰がためにたたかう?」展のものです。

その活躍が現在ほとんど顧みられない理由は、太平洋戦争において多くの戦争画を手がけたことにあるようです。国立近代美術館では、彼の戦争画も収蔵していて、今回の展示は裸婦像を多く描いたパリ時代に始まり、戦争画もふくめた展示となりました。

ごくわずかに陰影のかかる白い肌は、浮世絵の美人画を意識したものだったようです。言われてみれば確かに、輪郭線は細く、陰影もごく薄くはいっていますが、ベースにあるのは浮世絵の簡潔化された造形です。一方で肌に照るような光の描写は、どことなくジュール・パスキンが思い出されたり。

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藤田嗣治「自画像」1929年

しかしそれより目がいってしまったのが、美女(や自画像)とともに描かれる猫の姿。浮世絵に着想を得てはいても、朝から晩まで筆をもちつづけた確かなデッサン力の裏打ちがあります。その画力で描く猫の毛並みや、巧みな角度の肉球には、愛してやまない猫への心がしのばれるのでした。

第二次世界大戦が始まると、戦火を逃れて日本に帰ってきますが、パリで活躍した時代から20年ほどが過ぎ、彼を迎え入れる母国の空気は、意外に冷ややかなものだったといいます。やがて第二次大戦へと向かっていく日本で、藤田は軍から戦争記録画を描くように要請を受けます。

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藤田嗣治「哈爾哈(はるは)河畔之戦闘」1941年

アッツ島玉砕を描いた作品は評価を得て、朝日新聞の紙面に取り上げられました。当時の新聞もパネルで展示されていました。果たしてあの作品を描かせたのは、私たち市民であったかもしれない。時代の空気が作品を望み、画家はそれに応えた関係性もあったかもしれないと、そんなことを思いました。

威勢のよい場面だけでなく、死屍累々の場面も描いた藤田は、戦争に対しての冷ややかな眼差しを持っていたのではないかと述べられています。しかし一方で、自分の手がけた作品が国のためになるのなら、これ以上の感激はないとも語るのでした。

あの戦争に対して藤田自身はどう思っていたのか。彼の中にあったのは、戦争画を描いた偉大なる巨匠たち、ダ・ヴィンチミケランジェロドラクロワらに学び、彼らに挑んで筆をふるうような思いであったのではないか。そうすることで彼なりに、日本の美術を、国際社会に並びうる水準へと引き上げたいと願ったのではないか。

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藤田嗣治「動物宴」1949-60年

戦後一転して、戦争画への批判の矢面に立たされた藤田は、追われるように日本を離れ、フランスで残りの生涯を過ごしました。展示を締める最後の作品は、モナリザを彷彿とさせる少女の肖像です。そこには西洋絵画の豊かな河を眺め続けた画家の眼差しがあります。モナリザに似た少女の穏やかな微笑みを、しばし眺め入ったのでした。

その他、靉光東山魁夷の作品も展示がありました。靉光「眼のある風景」は、国家総動員法が公布された1938年に描かれました。互いを監視する社会の息苦しさを描いたのだといいます。

また、東山魁夷の「残照」は戦後、多くのものを失った画家が、ただ悠然と広がる山々に、かすかな希望を見出した心を見るような作品です。どちらも、戦争の評価にはふれていませんが、おのおの画家が感じたことを、それぞれに展示するコレクション展でした。

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

腕一本・巴里の横顔 (講談社文芸文庫)

図録を買いにミュージアムショップへ立ち寄ったのだけど、なぜか書籍のほうを買ってしまった。3年の留学のつもりが、そのまま十数年過ごすこととなった藤田嗣治の、パリの日々を綴る随筆。世界中の芸術家たちが集まったかのように華やかなパリ、と思いきや、文無しの画家やモデルや浮浪者の人たちも、同じように流れ着いて、一緒になってごたごたと暮らしている。文豪や芸術家、貴族や富豪、金なしのモデルや旅芸人たちを、変わらない温度感で綴って、文章も好きな感じ。当りを引いた感がありました。

関連

123夜『知覚の現象学』モーリス・メルロ=ポンティ|松岡正剛の千夜千冊
メルロ=ポンティは、言語は身体が身体図式を用いて外部の世界に対しておこなっている応答だとみた。言語が意味をもつのもそのためだと考えた。言語は何かの「地」に対して浮き上がってきた「図」であったのだ。
http://1000ya.isis.ne.jp/0123.html

藤田嗣治戦争画をどう評価するか、なかなかこれと答えを出し切れずにいますが、考える手がかりになった記事でした。

藤田嗣治
Fujitaは芸術家としてあまりにも純粋であるがゆえに、激動の20世紀において日本社会への接し方がひどく不器用だったように思う。同時に、そんなFujitaを作品も含めて一切認めようとしなかった、日本美術界の狭量さも不幸であった。
http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm:html

藤田嗣治の生涯について。奇抜な反面、純粋な面があったこと。祖国に必要とされる喜びで戦争画を描いたこと。半ばスケープゴートされるように日本を追われたのは、日本にとって彼が異邦人的であったからかもしれないこと。

(戦後70年)想像の玉砕画に賛美:朝日新聞デジタル
生存者が目にした光景とは違っても、藤田が描いた玉砕画の迫真性を戦時下の遺族は賽銭(さいせん)を投じて拝み、軍部は戦意高揚の源泉にした。今では戦禍の告発と感じる人もいる。優れたイメージは人々に様々な感情を喚起するが、その内容は時代や立場で異なり「世間の空気」が時に危うさも孕(はら)ませる。その現実を見つめ、問い続ける重さと難しさを思う。
http://www.asahi.com/articles/ASH277T93H27PLZU00B.html

藤田嗣治の「アッツ島玉砕」についてふれる72年後の新聞記事。きれいにまとめてて、プロの文章すごいと思った。